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2013年4月6日のオフ会は天候悪化のため中止となりました。


  「城南宮」

史誌上の初見は925年ですが、それより早くに建立されていたことは

確実のようです。794年の平安京遷都にあたり、御所の南方で平安京を

鎮護する城南明神として、崇敬を集めていたようです。

平安末期、白河天皇・鳥羽天皇の鳥羽離宮(城南離宮)に組み込まれて、

「都移り」とも言われたように殷賑をきわめました。多くの貴族の別邸も

付近に建てられたようです。西行も敷地を与えられて別邸を構えていた

ということが伝えられています。(後の西行寺のこと)

定家卿の「明月記」では城南寺と記述されています。

当時、競馬(くらべうま)流鏑馬(やぶさめ)がここで盛んで、後鳥羽

天皇はこの行事にことよせて、承久の変の際の兵を集めたようです。

城南宮は応仁の乱で衰退します。時代が下がって、江戸時代末期の

「鳥羽・伏見の戦い」は、このあたりが中心地になりました。

 

庭園は楽水宛と呼ばれます。別名、神宛です。この庭園で429日と

113日に午後2時から「曲水の宴」がとり行われ、その模様はテレビ

で放映されます。この庭は源氏物語に出てくる花が植栽されています。

美しい庭です。鳥居前の「菊水若水」はお勧めでしょうか。

「安楽寿院」

安楽寿院は鳥羽天皇の発願により鳥羽東殿に造営されました。1137年のこと

です。二年後に三重塔が落慶しています。この三重塔が本御塔と言われ、

鳥羽院の墓所となります。

たびたび火災にあい、三重塔は現在はありません。かつ、当時の安楽寿院も

ありません。現在の安楽寿院は、かつての安楽寿院の支院の一つである

前松院が安楽寿院として再興されたものです。

「鳥羽離宮南殿」

白河天皇が造営した鳥羽離宮の南殿御所のことです。1087年に初めて南殿

御所に遷幸がありました。離宮の中でも南殿が最初に築造されました。

鳥羽離宮には南殿のほかに泉殿、北殿、馬場殿、東殿が作られています。

鳥羽天皇は田中殿を作りました。院政を行った離宮です。崇徳天皇が退位

してから住んでいたのも田中殿です。

ちなみに、それぞれに配された侍の人数は北殿75人、南殿17人、

泉殿8人の合計100名です。1090年の記録ですから当然に佐藤義清

は入っていません。余談ですが平清盛が1179年の冬に後白河上皇

を幽閉したのもここでした。

なにとなくものがなしくぞ見え渡る鳥羽田の面の秋の夕暮  

(岩波文庫山家集62P秋歌・新潮292番・

             西行上人集・山家心中集・風雅集) 

 

「鳥羽の稲田に行き渡った秋の夕暮れは、どこまでも何かしら

 もの悲しく見える」

 (和歌文学体系21から抜粋)

 

この歌は言葉通りに解釈するしかない叙景歌ですが、広い野面の、夕刻の

牧歌的な情景が浮かびあがってきます。「ものがなしい」という表現は

鳥羽田の面(おも)にかかりますが、ずっと見渡せるほどに広く、

独特の雰囲気をかもし出している夕景だからこそ「ものがなしい」という

感覚表現が生きているのでしょう。

尚、新潮版山家集の注解によると、鳥羽田は左京区の歌枕とありますが、

西行の時代は山城国紀伊郡鳥羽の歌枕です。現在の左京区も当時は紀伊郡でした。

左京区の鳥羽田は木下長嘯子が住んだ江戸時代からだと考えられます。

  

疑問として、鳥羽田の面が見え渡るというほどに広い面積は無かった

だろうと思います。離宮そのものは1キロ四方、離宮に南面して600×800

メートルの池もありましたし、邸宅もたくさんありましたので、見渡すほどの

広い野はなかったものと思えます。建物の方が多かったでしょう。

でも川の流路も現在は変わっていますし、名神高速道路の建設であたりの

景観は一変しているでしょうから、現在の感覚で推し量るのは無理がある

かもしれません。

 

 京極太政大臣、中納言と申しける折、菊をおびただしきほどに

したてて、鳥羽院にまゐらせ給ひたりける、鳥羽の南殿の東おもての

つぼに、所なきほどに植ゑさせ給ひけり。公重少将、人々すすめて菊もて

なさせけるに、くははるべきよしあれば

君が住むやどのつぼには菊ぞかざる仙の宮といふべかるらむ

(岩波文庫山家集87P秋歌・新潮466番)

この詞書は西行出家前の事をあらわしています。また、歌もきわめて初期の

ものです。西行19歳から22歳頃に詠まれた歌のようです。山家集中、もっとも早く

作られた歌という説もあります。尚、公重は西行
40歳頃に少将になっていますので

時代が合いませんが、これは慈鎮の場合と同様に、山家集を書写した人が、書写当時に

おいて顕著な呼び方で記述したものと思えます。

したがって西行自筆の山家集には少将の表記はなかったと思えます。

慈鎮の場合は西行没後47年たってからの名前です。西行による慈鎮表記は確実にありえません。

  

「京極太政大臣、中御門宗輔が中納言であった頃に(11301140)多くの

菊を鳥羽に持ってきました。それを南殿の東の中庭いっぱいに植えたので

した。藤原公重少将が菊の歌を詠むようにと人々に勧めましたが、

西行にも加わるように言ったので・・・」
以上が詞書の意味です。

 

「君」は、鳥羽上皇のこと。第74代天皇。1103年生〜1156年没。

「つぼ」は、坪。中庭のこと。

「仙の宮」は、読みは(ひじりのみや)。退位した天皇が住むところを

仙洞御所といい、菊の花の神仙の伝説とをかけている。

 

「わが君(鳥羽院)がお住みになる宿の中庭を菊がいっぱいかざっている

ことである。これこそまことに仙の宮、仙洞御所というべきであろう。」

(新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 

京極太政大臣

藤原氏。中御門宗輔のこと。生年1077年、没年1162年。86歳。

「中右記」の作者である中御門宗忠は兄にあたります。

菊やボタンの栽培に詳しく、また笛の名手ともいわれています。

宗輔が中納言であった期間は1130年から1140年ほどであり、西行で

言えば13歳から23歳頃までです。したがってこの歌は西行の出家前の

歌であると解釈されます。

宗輔は、保元の乱の時に死亡した藤原頼長とも親しかったようですが、

連座することはなくて1157年に太政大臣となりました。81歳という高齢になってからです。

太政大臣と言っても、保元から平治にかけては藤原信西が独裁的に政務を

執っていましたから、お飾り的な太政大臣だったものでしょう。

公重少将

 1117年か1118年出生。60歳か61歳で1178年没。   

徳大寺通季の子。徳大寺実能の猶子となっています。この歌の時の西行の

年齢は19歳から22歳頃までの、まだ出家をしていない時でした。

当時、公重は少将にはなっていないことが知られています。

 「鳥羽天皇と関係歌」

74代天皇の鳥羽帝のこと。生没年は1103年〜1156年。54歳で崩御。

鳥羽帝の父は第73代の堀川天皇。1107年堀川天皇が没し、五歳で践祚。

中宮、藤原璋子との間に崇徳天皇、後白河天皇、上西門院などがあり、

藤原得子との間には近衛天皇や八条院(日+章)子内親王などがあります。

11567月崩御。同年同月に保元の乱が勃発して、敗れた崇徳上皇は

讃岐に配流となりました。

 

鳥羽院関係の歌は「君が住む」歌も含めて五首あります。

 

    鳥羽院に、出家のいとま申すとてよめる

 

をしむとて惜しまれぬべきこの世かは身をすててこそ

身をもたすけめ

           (岩波文庫山家集181P雑歌・新潮欠番・

     西行上人集追而加書・玉葉集・万代集・拾遺風体集) 

 

この歌は、いくらなんでも鳥羽院に捧げるために詠ったわけでは

ないでしょう。実際には奏上しなくて、自身のゆるぎない出家の

意志の再確認をするために詠んだ歌だと思います。断定してしまう

激しい語調の歌であればあるほど、意志の強固さと、そして悲壮的な

覚悟さえ思わせる歌です。

 出家のいとま

 西行自身が出家するために、鳥羽院の下北面の武士を辞退するということ。

西行の出家は11401015日、23歳の時と見られています。

NHK大河ドラマ「平清盛」にあった桜の花びらの舞う季節での出家と

いうのは演出過剰でしょう。ドラマを見た方が信じ込んでしまいますから、

良くないことだと思います。

 

「いくら惜しみ執着したとて、とうてい最後まで惜しみ通すことのできる

うき世であろうか、そうではない。そのような世にあっては俗なこの身を

捨てて出家してこそはじめてこの身を助けよう。

(助けることになるであろう。)

          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

 

 一院かくれさせおはしまして、やがて御所へ渡しまゐらせける夜、

高野より出であひて参りたりける、いと悲しかりけり。此後

おはしますべき所御覽じはじめけるそのかみの御ともに、右大臣

さねよし、大納言と申しけるさぶらはれける、しのばせおはします

ことにて、又人さぶらはざりけり。

 其をりの御ともにさぶらひけることの思ひ出でられて、折しも

 こよひに参りあひたる、昔今のこと思ひつづけられてよみける

 

 今宵こそ思ひしらるれ浅からぬ君に契のある身なりけり

          (岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮782番・

                   新拾遺集・西行物語) 

 

一院かくれさせ

 74代天皇の鳥羽帝が死亡したということ。鳥羽上皇崩御は保元元年

1156年)72日。鳥羽上皇54歳。この年、西行は39歳です。

このころ、鳥羽院と崇徳院の二人の院がいましたので、鳥羽院を一院、

崇徳院を新院と呼称したものです。 崇徳院は安楽寿院と目と鼻の先に

おりながら、しかも鳥羽院の長子というのに鳥羽院崩御の場に行くことを

禁じられていたようです。

 

御所へ渡し

 この場合の御所は鳥羽離宮内に造営された安楽寿院のことです。

 高野より出で

 この頃は西行の生活の拠点は高野山にありました。しかし高野山に閉じ

こもりきりの生活ではなくて、しばしば京都にも戻っていたことが山家集

からもわかります。1156年のこの時にも、京都に滞在しており、たまたま

鳥羽院葬送の場に遭遇し、僧侶として読経しています。

出家前に鳥羽院の北面の武士であった西行にとって、特別の感慨があったものと思います。

安楽寿院は1137年に落慶供養が営まれていますが、まだ完成前に徳大寺

実能と西行は鳥羽上皇のお供をして、お忍びで見に行っています。

17年から19年ほど前の、そういう出来事も思い出して、ひとしお感慨深いものを

感じたのでしょう。出家してからさえも、鳥羽院に対する西行の気持ちが

変わらなかったことが分かります。

 此後おはしますべき所

 「此後おはしますべき所」という記述によって、安楽寿院三重塔の

こととみなされます。三重塔は鳥羽院墓所として藤原家成の造進に

より、落慶供養は1139年でした。

 右大臣さねよし

正しくは左大臣です。左大臣は右大臣の上席であり、太政大臣が

いない場合は最高位の官職です。「さねよし」は藤原実能のこと。

藤原実能が大納言であった期間は保延二年(1136)から久安六年

(1150)の期間でした。

西行は藤原実能の随身でもありました。藤原実能、11579月没。 

「さぶらう」 古語。(候う・侍う)の字をあてる。お仕えする・

伺候するという意味。

 其をりの御とも

 安楽寿院の造営はいつごろからされたのか不明ですが、1137年には

創建されています。ついで三重塔の落慶供養は1139年。1145

及び1147年にも新しく御所や堂塔が建てられていて、付属する子院

も含めるとたくさんの建物がありました。

「其をりの御とも」とは三重塔の落慶供養のあった1139222

以前のことだろうと解釈できます。

完成前の三重塔を鳥羽院がお忍びで見物に出かけることになった

ので、藤原(徳大寺)実能と、実能の随身で鳥羽院の下北面の武士

でもあった西行がお供をしたということです。この時の西行は22歳。

翌年の1015日に出家しています。下は歌の意味です。

尚、現在の安楽寿院は、当時の安楽寿院の子院の一つの(前松院)

1600年前後の慶長年間に「安楽寿院」として再興されたものです。

 
「御葬送の今夜こそは実感されました。生前にも安楽寿院の検分に供奉

いたしましたが、実際にそこにお入りになるその日に上京いたしました

のは、前世からの深い因縁を院との間にいただいていたのです。」

                (和歌文学大系21から抜粋)

 

「たまたまご葬送にめぐりあえた今宵こそ、本当に思い知られたことで

ある。亡き一院には前世からの浅からぬご縁のあるわが身であった。」

             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 

   をさめまゐらせける所へ渡しまゐらせけるに

 

 道かはるみゆきかなしき今宵かな限のたびとみるにつけても

          (岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮783番・

         西行上人集・宮河歌合・玉葉集・西行物語) 
 

道かはる

 現世で生活してきた道から、来世への道をたどるということ。

 限のたび

 人が生まれて死亡するまでの間のこと。

安楽寿院と五重塔はほんの少し離れています。物理的にはその

短い距離を暗喩的に「たび=旅」とみなしてもいるものでしょう。

 

「冥界への御幸を今夜拝見するのが悲しい。最後には避けられない

旅路とわかってはいても。」

               (和歌文学大系21から抜粋)

 

「最後の御幸としての葬送を歌っているが、西行としては在俗の

ころの供奉の数々が思い浮かべられるのであって、この一首のうち

には、10代からの歴史が受けとめられている。」

         (窪田章一郎氏著「西行の研究」から抜粋)

 

  納めまゐらせて後、御ともにさぶらはれし人々、たとへむ

方なく悲しながら、限あることなりければ帰られにけり。

  はじめたることありて、明日までさぶらひてよめる

 

 とはばやと思ひよりてぞ歎かまし昔ながらの我身なりせば

          (岩波文庫山家集203P哀傷歌・新潮784番・

            西行上人集・山家心中集・西行物語) 

明日までさぶらひ

 「はじめたることありて」を受けていますので、夜通し読経をして

いたことを意味します。

 昔ながらの我身

 もし出家していなくて、昔のままの身分や鳥羽院との関係で

あったならば…という意味。

  

「お見舞をしたいと思い付いても何もできなくて嘆くばかりであった

だろう。院にお仕えした在俗の身のままであったならば。供養の

読経ができるだけでもありがたいことです。」

                (和歌文学大系21から抜粋)  

 

  「白河天皇」

72代天皇。父は後三条天皇、母は藤原茂子。1053年生、1129年没。

在位は1072年から1086年まで。以後、堀川・鳥羽・崇徳天皇の三代に

渡って43年間の院政を行いました。鳥羽天皇の時代には藤原摂関家の

勢力の衰退を受け、次第に専制的な政治的基盤を確立していきます。

鳥羽殿や白川殿、そして左京区岡崎の法勝寺をはじめ、たくさんの寺社を

創建しています。

院の北面の武士の制度を創設したのも白河天皇です。

鳥羽天皇の中宮であり、崇徳天皇の生母でもある待賢門院璋子を寵愛して

いて、崇徳天皇の実父は白河天皇だとする説もあります。

「後拾遺和歌集」と「金葉和歌集」の撰集編纂を命じています。 

 

「近衛院とお墓」

近衛天皇は第76代天皇です。1139年生、1155年没。17歳で夭折しました。

在位15年です。鳥羽天皇の第八皇子とも第九皇子とも資料にはあります。

母は美福門院藤原得子。崇徳天皇の養子として皇位について践祚(せんそ)

しました。この近衛院崩御後は後白河天皇が第77代天皇となっています。

このことにより、崇徳上皇の不満は高まり、1156年に鳥羽上皇が崩御すると、

保元の乱が起こりました。

 

近衛院のお墓は、現在は安楽寿院南陵と言われています。二層の塔があり

ます。

ここは、もともとは美福門院が自分の死後の墓所として建立したものです。

ところが1160年に没した美福門院は遺言により高野山に葬られました。

そこで、1155年に没して洛北の知足院に葬られていた近衛天皇の遺骨が1163年に、

ここに移し納められました。したがって、船岡山の西野で火葬にされたと記録に

ある近衛帝のお墓は、
8年間は知足院にあったということ

です。現在の近衛院陵は豊臣秀頼の寄進によるものです。

尚、知足院は紫野雲林院近くにありましたが、中世に廃絶しており、資料に

名をとどめているばかりです。

 

ですから、202ページにある「近衛院のお墓・・・」は安楽寿院南陵ではないだろうと

考えられます。安楽寿院に改葬される前に詠われた歌のはずです。

 

「近衛院の御墓に、人に具して参りたりけるに、露のふかかりければ」

 みがかれし玉の栖を露ふかき野邊にうつして見るぞ悲しき 

(岩波文庫山家集202P哀傷歌・新潮781番・

                    西行上人集・玉葉集) 

玉の栖

  栖は「すみか」と読みます。「玉の栖」で御所、御殿のこと。

 

「玉と磨かれたお住居を、露深い野辺のお墓に移して、見申し上げる

ことの悲しさよ。」

               (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 

「西行寺」

白河天皇陵の北にある西行寺跡は、西行が鳥羽殿の北面の武士であった

頃の宅地跡と伝える。現在「西行寺址」と記した石柱があり、付近に地蔵堂

がある。江戸時代には庵室があり、境内には月見池、剃髪塔があった。

明治11年、観音寺に合併。同寺に西行法師像といわれる坐像が安置される。

                 (京都市の地名より抜粋)

「都名所図会」及び「雍州府志」では西行出家の寺として寺伝が伝えると

明記されています。

 

 「木下長嘯子と鳥羽田歌」

はるばると鳥羽田の末をながむれば穂なみにうかぶ淀の川舟

                 (挙白集)

  

 ◎ 木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)15691649

 

豊臣、徳川時代の武将・歌人。俗名は木下勝俊。秀吉の正室、北政所(ねね)の

兄の木下家定の子。秀吉の家臣として、播磨の国竜野城主となる。関が原

の役では東軍に与して伏見城を守るも、戦闘中に逃亡したため、所領を

没収される。

その後、歌人として高台寺の東に住む。高台寺には北政所が住んでいたので、

その縁故である。歌は細川幽斎に学び、長嘯子と号する。

家集に「挙白集」がある。

都名所図会第4巻によると、「歌仙堂、松洞堂、鳥羽観、挙白堂」などを

建てていたということです。

西行を慕っていたらしく、勝持寺にも庵を結んでいたようです。

「東山に鳥羽観と名づける庵にて」という詞書の次に下の歌があります。

 

見わたせば鳥羽田の面の霧の海に沖の小島は秋の山かな

                (東山山家記)

 

したがって、長嘯子の鳥羽田歌は伏見区の鳥羽を指すものではなくて、

東山の自身の庵の周りを指すものであるということは確実と思います。

歌にある(秋の山)は鳥羽離宮跡に史跡として現存しています。

東山の長嘯子の庵にも(秋の山)と名付けた築山があったものでしょう。

                       「以上、阿部記」