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   ○西行法師年表 
   ○佐藤氏の氏族姓について
   ○西行の出家場所は?  ○山家集中の「つる」について
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  西行法師 年表   

1118年       西行生まれる。出生地は京都と思われる。

1133年 16歳  徳大寺家の随身となった頃と考えられる。 蹴鞠、和歌を習う。
   
1135年 18歳  成功(一種の買官)により、兵衛尉となるか?

1136年 19歳  鳥羽院の北面の武士となるか?

1138年 21歳  法輪寺に空仁を訪ねる。西住同行。267ページ。

1139年 22歳  鳥羽東殿三重塔落慶。鳥羽上皇墓所。徳大寺実能に従って
            安楽寿院に行く。202ページ。鳥羽の西行邸なるか?

1140年 23歳  10月15日出家。出家場所は不明。法名は円位。西行、大宝房と号する。
            鳥羽院に出家の暇の歌を詠む。181ページ。

1141年 24歳  鞍馬、嵯峨、東山などを転々として過ごす。

1145年 28歳  待賢門院没。女房達は三條高倉第で一年間の服喪に入る。
            西行に少なからぬ心理的影響がある。  

1147年 30歳  初めての陸奥への旅をする。春に出発。喪の明けた待賢門院の女房達に
            旅立ちの挨拶をする。106ページ。陸奥の平泉まで行き、年を越す。

1148年 31歳  平泉の束稲山の桜を見る。132ページ。

1149年 32歳  高野山に移住か?

1151年 34歳  詞華和歌集に「身を捨つる・・・」の歌が読み人知らずとして入集する。

1156年 39歳  鳥羽院崩御に際し鳥羽の安楽寿院に行く。これまでもたびたび高野山から
            京都にくる。保元の乱が起こり、白河北殿に拠っていた崇徳院は敗れて、
            仁和寺に入る。西行、仁和寺に駆けつける。181ページ。崇徳院、讃岐に
            配流。   

1160年 43歳  美福門院の遺骨を高野山で迎える。寂超の子の隆信が京都から遺骨を
            携えて高野山に行く。201ページ。

1166年 49歳  院の二位の局、藤原朝子没。哀傷歌十首がある。208ページ。

1168年 51歳  四国の旅に出る。198ページ他。白峰陵、善通寺などを巡覧。

1172年 55歳  摂津和田の萬燈会に参席。108ページ

1180年 63歳  この年に高野山から伊勢に移住したと考えられる。

1186年 69歳  7月に伊勢を発ち、陸奥に向かう。8月15日に頼朝と鎌倉で会談。 

1187年 70歳  春頃に陸奥から京都に帰る。

1188年 71歳  千載集に18首が入集。

1189年 72歳  8月頃までには河内の弘川寺に移る。

1190年 73歳  2月16日、弘川寺にて入寂。    


   ◎ 没後、新古今和歌集に歌人中もっとも多くの歌が採録されて
     いて、94首を数える。

   ◎ 藤原定家卿の「小倉百人一首」第86番に下の歌が撰入する。
     「歎けとて月やは物を思はするかこち顔なる我が涙かな」
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 「社会の動き」

1118年  西行誕生地は京都と考えられる。
       紀伊の国田仲庄の出生とするとの説が、打田町にある西行像の説明版
       にはあります。しかし佐藤家は西行から数えて五代前から京都に住んで
       おり、生活の基盤は京都にあったと考えてよく、紀伊の国誕生説は
       甚だしく疑問です。

       藤原璋子、鳥羽天皇中宮となる。
             
1119年  鳥羽天皇長子の崇徳天皇誕生。

1123年  崇徳天皇践祚。源義朝生れる。数年前より延暦寺と園城寺の争闘頻発。

1124年  白河院、鳥羽院、白河で観桜の宴。 27ページの「花の行幸」のこと。

1129年  白河法皇崩御。77歳。

1130年  待賢門院、法金剛院を造営。行幸。

1137年  安楽寿院落慶。供養。

1141年  崇徳天皇譲位。近衛天皇即位。

1142年  奈良、興福寺の僧15名を陸奥に追放する。131ページ。

1145年  待賢門院璋子没。女房達は三條高倉第で一年間の喪に服す。

1147年  実能の徳大寺落慶。

1155年  近衛天皇崩御。17歳。船岡山の西野で火葬。1163年に鳥羽の安楽寿院に
        遺骨を改葬する。後白河天皇即位。

1156年  鳥羽天皇崩御。54歳。保元の乱が起こる。崇徳院、敗れて仁和寺に入る。

1159年  平治の乱が起こる。藤原信西 「院の二位の局の夫」 自殺する。
        清盛、上西門院の殿上人となり、頼朝は蔵人となる。

1160年  源義朝、尾張内海で殺される。頼朝、伊豆に流される。美福門院没。
       遺骨を成道、隆信が高野山に運ぶ。

1163年  紀伊荒川庄と田仲吉仲庄の境界を定める。

1164年  崇徳院、讃岐で崩御。白峰に火葬する。1177年に「崇徳院」の諡号を送る。
        それまでは讃岐院。

1165年  二條天皇崩御。23歳。

1166年  院の二位の局、没。

1169年  仁和寺の覺性法親王、没。

1176年  藤原俊成、病気のため出家する。法名は釈阿。

1177年  鹿ケ谷の陰謀発覚。藤原師光を殺し、俊寛、藤原成経、平康頼を鬼界島に
        配流。翌年、成経、康頼は召還される。1179年俊寛没。

1179年  清盛、後白河の院政を停止し、法皇を鳥羽院に幽閉する。

1180年  源平争乱。以仁王、源頼政挙兵。宇治で戦死。
        摂津の国、福原に遷都。185ページ。平重衡、東大寺、興福寺を焼く。

1181年  清盛死亡。後白河院の院政再開。

1183年  平氏、安徳天皇を連れて都落ちする。

1184年  征夷大将軍源義仲、近江で敗死する。256ページ。

1185年  平氏、壇ノ浦で滅びる。安徳天皇入水。 宗盛(八嶋内府)と子の
        右衛門督、近江篠原で殺される。185ページ。京都大地震。

1186年  頼朝、西行と面談する。

1189年  源義経、平泉で藤原泰衡に殺される。上西門院没。

1190年  重源、東大寺を再興する。 
  
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佐藤氏の氏族姓について

1140年10月15日、23歳にて出家、落飾して西行法師(法名は円位)
と名乗った佐藤義清は、藤原氏魚名流の佐藤氏の系譜に連なる人です。
義清は1118年の出生だといわれています。

藤原鎌足から義清までの血脈を記してみます。

藤原鎌足→不比等→房前→魚名→鷹取→藤成→村雄→
秀郷→千常→公脩→文行→公光→公清(佐藤)→季清→
康清→仲清→能清→光清→成清

以下、主なできごとです。

○ 782年、桓武天皇治世下、氷上川継事件勃発。
  藤原浜成、大伴家持らが罰せられる。その後、
  家持は嫌疑が晴れる。
  左大臣、藤原魚名が罷免される。失脚。

○ 魚名流藤原氏没落。藤原藤成、関東下向、下野に土着。

○ 秀郷、下野田原郷に居館を構える。916年、罪を犯して
  配流。929年、罪を犯して処罰される。940年、新天皇を
  自称していた平将門を滅ぼし、その恩賞として従四位下、
  下野、武蔵の国主となる。
  室町時代に「俵藤太絵巻」ができる。近江三上山のムカデ
  退治伝説が作られる。

○ 秀郷の子に千常、千晴がおり、千常、千リ、968年、信濃の国で乱を起こす。
  千リは天皇廃位を図るという安和の変に連座して、
  隠岐に配流となる。左大臣源高明、大宰府に左遷。

○ 1022年、文行、下野から一家で京師に移住。大夫判官、
  従五位下となる。この時に藤原文行の京都の邸宅がなった
  ものと考えられる。

○ 公光、剣非違使庁の長官の娘を娶り、佐伯氏を名乗ったと
  いう説あり。公光、相模の守となる。

○ 公清、始めて左藤姓を名乗る。佐藤姓の祖となる。
  相模の守となる。鎮守府将軍源頼信の軍監役となる。
  公清、佐渡守となる。

○  康清、左衛門尉となる。
   義清は左兵衛尉、北面の武士となる。
   能清は左衛門尉、北面の武士となる。 
   
  康清は正六位上、康清の後は義清ではなくて、仲清が伝領する。
  仲清の子に男子二人あり。能清は田仲庄の荘園拡充を図って
  押妨を繰り返していた記録あり。もう一人は基清で後藤家に養子にいく。
  平家物語に養子に行った基清の名前が出ています。西行は能清
  と親交があったことが知られています。 

簡単に、藤原鎌足からの血脈を見てみました。

次に官職名を記します。

秀郷ー武蔵守・鎮守府将軍
千常ー鎮守府将軍。左衛門尉
文脩ー鎮守府将軍・内舎人
文行ー左衛門尉
公光ー相模守
公清ー佐渡守・左衛門尉  (佐藤氏祖)
季清ー左衛門尉
康清ー左衛門尉ーー義清(左兵衛尉)ーー隆聖(権律師)
          |
          ーー仲清(内舎人)ーー能清(内舎人・左衛門尉)
                     |
                      ーー基清
                         

義清(西行)ー 康清の子。左兵衛尉・鳥羽天皇の北面・徳大寺家の随身
仲清ー内舎人
隆聖ー義清の子。権律師
能清ー仲清の子。内舎人。左衛門尉
基清ー仲清の子。後藤実基の養子になる。後鳥羽院の北面
    頼朝の御家人、義経に従って平氏追討。采女城城主となる) 
光清ー能清の子。

京都に住んでいた公Cがなぜ藤原姓から佐藤姓に変えたのかという
疑問が残ります。
これまで、先達に研究され尽くしているのですが、その根拠は以下です。

 1 左衛門尉という官職名と藤原の合体説
 2 秀郷の本拠地、栃木県佐野からの地名由来説

以上が二大由来説です。
ところが、上の二つでは厳密には説明ができません。
まず、官職名との合体説を考えて見ます。

義清は左兵衛尉でしたが、佐藤家は代々左衛門尉です。これは律令の
官位で言えば四等官のうちの三等官で従六位下です。
ちなみに、1=かみ(守、督など)2=すけ(介、佐など)
3=じょう(尉、判官など)4=さかん(目、志など)
つまり左衛門尉はそのまま用いると佐藤にはなりません。
左と佐は違います。位階でも違います。尉でしかないのに
位が上の佐と自称するのは、インチキもいいところだと指摘
がされてきました。
左よりも佐の方が文字としてバランスが良く、それで左ではなく、
佐を勝手に用いたなどということは
あると思いますが、この官職名由来説は説得力がないと思います。

ついで佐野の地名由来説についてですが、これも佐野を離れて
ずいぶん経ってから佐野と藤原の合併である佐藤氏を名乗っても、
説得力はありません。佐藤氏初代は公清で、京都に来てから佐藤氏を
名乗っているのです。秀郷時代をなつかしみ、記念するために、
時代を遡って佐藤としたのだろうという見解もあります。
これは、なるほどと思わせますが、確たるものには遠い気もします。
この地名の佐野、藤原合併説も納得させるに足るものでは
ないと思います。

もう二つ、可能性としての説があります。
一つは公清の官職である佐渡守の佐渡と藤原の合併説です。
これは私には魅力的な説ですが、あくまでも可能性としてです。
もう一つは、公清の父、公光が佐伯氏の娘を娶り、佐伯藤大夫を
名乗ったがために公清の代に佐藤としたという婚姻由来説。
以上四つの説がありますが、今となっては子孫の現在の
佐藤氏にしても、どれか特定することは不可能です。
まあ、だいたいその四つの説のうちのどれか・・・という
ことで良いと思います。

西行の佐藤家が裕福であったのも紀伊に田仲庄を持ち、かつ
公清の佐渡守のように国司を勤めていたことも大きな原因でしょう。
ところが、康清は国司とはなっていないようです。
この点については康清が若年にて死亡したらしいことも原因かも
しれません。死亡年齢は不明です。

仲清時代は平家の台頭とも関係があるように思われます。
平家一門がもっとも威勢を誇っていた時代は、日本の半分以上が
平氏一族の領有でした。
その時代、他の貴族層は、国司にもなれなかった人々が
多かったものと思います。

国司=律令制下の地方官。一国の行政、司法、警察、軍事という
幅広い領域にわたって権限を持った。中央で任命される。任期は
4年から6年。

受領(ずりょう)=国司の別称。国司の大部分は任地に赴かず京都に
在住して(信濃守)などと名乗っていました。この国司のうち、実際に
任地に赴いて、一国を取り仕切った国司を受領と呼びます。

 参考文献

尊卑分脈
西行の心月輪  高橋庄次著
中央公論社    日本の歴史 別冊5
新人物往来社   歴史読本

       
  西行の出家場所は勝持寺か