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【木ゐのはし鷹】 (山、102)→「こ」の項で記述予定

【きかずがほ】

 ここは作者が主体となっていて、ホトトギスの声を聞いたけど
 聞かなかったつもりでいよう、聞かなかった顔でいよう、という
 ことです。

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01 里なるるたそがれどきの郭公きかずがほにて又なのらせむ
           (岩波文庫山家集44P夏歌・新潮181番・
         西行上人集・山家心中集・玉葉集・万代集)  

○里なるる

 ホトトギスが里に馴れることを言います。まだまだ若い鳥である
 ことが分ります。

○又なのらせむ

 もう一度ホトトギスの声を聞きたいという作者の願望です。

(01番歌の解釈)

 「ようやく私の山家に馴れて、夕方になって名告りをするように
 鳴く時鳥よ。聞かなかったふりをして、もう一回名告らせよう。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

◎あしひきの山時鳥里馴れて黄昏時に名告りすらしも
                   (大中臣輔親 拾遺集)

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【(がほ)歌について】

(がほ)のフレーズの入った歌は西行が好んで詠んだ歌とも言え
ます。
                  
いひがほ・恨みがほ・嬉しがほ・かけもちがほ・きかずがほ・
たより得がほ・つけがほ・告げがほ(2)・所えがほ・ぬるるがほ・
見がほ・見せがほ・もりがほ・わがものがほ、かこち顔。

以上15種類、16首あります。源氏物語にも「○○がほ」という記述
はありますから、西行の「がほ」歌はあるいは源氏物語の影響なの
かもしれません。
以下に歌を記しておきます。歌意については順に説明します。

01 たちかはる春を知れとも見せがほに年をへだつる霞なりける
     (岩波文庫山家集14P春歌・新潮04番・西行上人集・
                山家心中集・御裳濯河歌合)

02 よしの山人に心をつけがほに花よりさきにかかる白雲
     (岩波文庫山家集32P春歌・新潮143番・西行上人集・
                  山家心中集・新後撰集)

03 ま菅おふる山田に水をまかすれば嬉しがほにも鳴く蛙かな
     (岩波文庫山家集39P春歌・新潮176番・西行上人集・
               山家心中集・風雅集・月詣集)

04 かり残すみづの眞菰にかくろひてかけもちがほに鳴く蛙かな
      (岩波文庫山家集40P春歌・新潮1018番・夫木抄)

05 時鳥なかで明けぬと告げがほにまたれぬ鳥のねぞ聞ゆなる
          (岩波文庫山家集43P夏歌・新潮186番・
                 西行上人集・山家心中集)
  
06 里なるるたそがれどきの郭公きかずがほにて又なのらせむ
    (岩波文庫山家集44P秋歌・新潮181番・西行上人集・
               山家心中集・玉葉集・万代集)

07 をみなへし池のさ波に枝ひぢて物思ふ袖のぬるるがほなる
   (岩波文庫山家集59P秋歌・新潮284番・万代集・夫木抄)

08 きりぎりす夜寒になるを告げがほに枕のもとに來つつ鳴くなり
           (岩波文庫山家集64P秋歌・新潮455番)
                 
09 こよひはと所えがほにすむ月の光もてなす菊の白露
     (岩波文庫山家集85P秋歌・新潮379番・西行上人集・
                   山家心中集・夫木抄) 

10 月を見る心のふしをとがにしてたより得がほにぬるる袖かな
           (岩波文庫山家集149P恋歌・新潮625番) 

11 よもすがら月を見がほにもてなして心のやみにまよふ頃かな
           (岩波文庫山家集150P恋歌・新潮640番)
                   
12 身をしれば人のとがとは思はぬに恨みがほにもぬるる袖かな
     (岩波文庫山家集153P恋歌・新潮680番・西行上人集・
         山家心中集・宮河歌合・新古今集・西行物語) 

13 数ならぬ身をも心のもりがほにうかれては又帰り来にけり
            (岩波文庫山家集196P雑歌・新古今集)
                  
14 誰ならむ吉野の山のはつ花をわがものがほに折りてかへれる
                (岩波文庫山家集247P聞書集)

15 あたりまであはれ知れともいひがほに萩の音する秋の夕風
            (岩波文庫山家集57P秋歌・新潮288番)

16 なげけとて月やはものを思はするかこ顔なる我が涙かな
     (岩波文庫山家集149P恋歌・新潮628番・西行上人集・
        山家心中集・御裳濯河歌合・千載集・百人一首) 

【聞書集】

 西行には以下の私家集があります。
 
◎山家集 歌数1552首(陽明本)、1572首(版本)。

◎西行上人集(異本山家集・西行法師家集とも)歌数597首。

◎山家心中集 歌数374首(内、他者詠14首)。

◎聞書集 歌数263首(内、連歌2首、他者詠3首)。

◎残集  歌数32首(内、連歌7首)。

◎御裳濯河歌合 歌数72首。

◎宮河歌合   歌数72首。

 聞書集は昭和4年に佐佐木信綱博士によって発見された西行の
 歌集です。国宝に指定されています。

 歌数は261首。他に連歌の付句が4句で2首。計263首。
 聞書集は山家集とは一首も歌が重複していないという特徴があり、
 「たはぶれ歌」や源平争乱時の歌もあって、とても貴重な歌集
 です。

 原本の扉には藤原定家が「聞書集」としたためていて、本文は
 寂蓮法師の筆と考えられています。今宮神社の「やすらい歌」の
 歌詞も寂蓮筆と伝えられますが、彼はとても美しい文字を書く人
 です。

【きぎす】

 鳥の「キジ」の古名です。

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01 もえ出づる若菜あさるときこゆなりきぎす鳴く野の春の曙
          (岩波文庫山家集24P春歌・新潮31番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄)  

02 生ひかはる春の若草まちわびて原の枯野にきぎす鳴くなり
      (岩波文庫山家集24P春歌・新潮32番・西行上人集・
         西行上人集追而加書・山家心中集・夫木抄)  

03 片岡にしばうつりして鳴くきぎす立羽おとしてたかからぬかは
           (岩波文庫山家集24P春歌・新潮34番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)  

04 春霞いづち立ち出で行きにけむきぎす棲む野を焼きてけるかな
            (岩波文庫山家集24P春歌・新潮33番)

05 かきくらす雪にきぎすは見えねども羽音に鈴をたぐへてぞやる
           (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮524番)

06 枯野うづむ雪に心をまかすればあたりの原にきぎす鳴くなり
      (岩波文庫山家集271P補遺・御裳濯河歌合・夫木抄)

○片岡

 一方向になだらかに傾斜している小高い丘のこと。

○しばうつりして

 「しばしば」と雑草の「芝草」の掛けことばです。
 芝草の中をうろちょろと動きまくっているということです。

○立羽おとして

 「立つ羽音して」ということ。
 飛び立つ時の羽音のこと。

○野を焼きて

 春の初めに野原の枯れ草を焼くこと。そうすることによって、
 新芽の発育が良くなります。

○鈴をたぐへて

 鷹狩りの時に鷹を見失わないように鈴をつけたそうです。
 (たぐへて)は、一緒にする、付き添わせる、付ける、という
 意味です。
 新潮版では「鈴をくはへてぞやる」となっています。

(01番歌の解釈)

 「春の曙、野に鳴く雉子の声を聞くと、萌え出る若菜をあさって
 いるように聞えることだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「冬枯れのままのさびしい原に、新しく春の若草が生え変わって
 萌え出るのを待ちわびて、雉子が鳴いていることである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「片岡の芝草の中をしばしばあちらこちらへと所変えして鳴く
 雉子だが、飛び立ってゆく羽音とても高くないことがあろうか、
 高いことだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「春霞が立ったのに一体どこに飛び立って出て行ってしまった
 のか。野焼きをした野原には雉が住んでいたのだが。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「雪が降りしきって、雉の姿は見えないが、羽音のする方向に
 合わせて鷹の鈴の音を放ち遣る。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)

 「枯野を埋めて積もっている雪に、まだ雪だと思っているうちに、
 もう春になつているらしくあたりの原では雉子が鳴くよ。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

きせい→「から絵」107号参照

【きこもりなむ】
  
 不明です。
 「着籠め」の活用形だろうと思います。髪などを衣服の下に入れ
 て隠すことも「着籠む」と言っていました。
 ここでは、あまり人にわからないように隠遁生活をしたいという
 意味ですから「着籠む」の転用の「きこもりなむ」でも良いものと
 思います。

 ところが和歌文学大系21でも、新潮日本古典集成山家集でも山家
 集全注解でも「かきこもりなむ」としています。西行上人集、
 山家心中集でもそうですから、「かき+籠る」の「かきこもりなむ」
 が正しくて「きこもりなむ」はミスであろうと考えられます。

 岩波文庫山家集の底本の山家集類題でも「きこもりなむ」となって
 おり、「かきこもりなむ」ではありません。岩波文庫山家集はミス
 がたくさんありますが、この点に限れば類題本以前の書写ミス
 なのでしょう。
 ですが「かきこもりなむと」であれば初句の「おりしもあれ」と
 合わせたら33文字になります。こんなに神経が行き届いていない
 と思わせる歌を詠むのかなーとも思わせます。

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01 折しもあれ嬉しく雪の埋むかなきこもりなむと思ふ山路を
         (岩波文庫山家集112P羇旅歌・新潮1364番・
             西行上人集・山家心中集・玉葉集) 

○折しもあれ

 折も折。丁度タイミングも一番良いことに・・・ということ。

(01番歌の解釈)

 「ちょうどいい時に雪が降って山路を埋めてくれてうれしい。
 しばらく山籠もりしょうと思っていた所だった。」
              (和歌文学大系21から抜粋)

【象潟】

 出羽の国の歌枕。秋田県由利郡象潟町。現在は、にかほ市象潟。
 海沿いの町です。

 世の中はかくても経けり象潟の海人の苫屋をわが宿にして
             (能因法師 後拾遺和歌集519番)

 象潟は上記歌によって有名となりましたが、1804年の地震に
 より、風景は一変してしまいました。
            (西行の京師第二部第26号から転載)

 能因法師の歌、及び芭蕉の「奥の細道」によって有名になった
 名所です。能因法師が住んだという島は1804年の地震によって
 地続きになったようです。

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   遠く修行し侍りけるに、象潟と申所にて

01 松島や雄島の磯も何ならずただきさがたの秋の夜の月
   (岩波文庫山家集73P秋歌・新潮欠番・西行上人集追而加書) 


(参考歌)象潟や桜の波にうづもれてはなの上こぐ漁士のつり舟
             (伝承歌(継尾集)・奥の細道) 

○松島

 宮城県にある松島湾を中心とする一帯の名称。安芸の「宮島」、
 丹後の「天の橋立」とともに日本三景の一つです
 西行は松島まで行ったのかどうか分かりません。芭蕉も義経も
 多賀城→塩釜→松島→平泉のルートを採っていますので、ある
 いは初度の旅の時に同じルートをたどった可能性があります。
 
○雄島

 松島にある島の名称。松島海岸から近く、古くから仏道修行の
 地として有名でした。
 現在は橋がありますから渡渉できます。

(01番歌について)

この歌は西行上人集追而加書中の一首です。この集のみにしかない
歌です。
この集は他者の歌を西行歌として、あるいは他人詠の伝承歌を
多く含んでいますので信用できないものです。
「新潮日本古典集成山家集」「和歌文学大系21」「西行山家集注解」
にも収録されていません。
窪田章一郎氏の「西行の研究」をはじめとして、いくつかの研究
書・解説書にも記載がありません。無視されています。
安田章生氏著「西行」のように、歌が取り上げられていたとして
も「西行作とは信用できない」ということが明記されています。
佐佐木信綱氏が岩波文庫山家集に採録したのは、西行歌である
確証は無いと認めた上で、この歌が西行歌として広く人口に流布
していたという、そのことによってのみでしょう。

(参考歌について)

この歌も西行作とは認めがたいものです。でもこの歌は芭蕉が引用
しているほどですから、今日伝わっているもの以外の、何かしらの
伝本があったのかも知れません。
西行歌は散逸して今日に伝わらない歌の方が多いとも言われますし、
なぜに芭蕉がこの歌を知りえたのか知りたいものです。伝承歌を
単純に西行作とみなしたものでしょうか・・・?

【木曾】

 長野県の南西部を指す地名。木曽川上流域の総称です。
 長野・岐阜県境に標高3062メートルの御嶽山がそびえています。
 御嶽山は1979年に初めて噴火しました。

【木曾と申す武者】

 源義仲のことです。

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     木曾と申す武者、死に侍りにけりな

01 木曾人は海のいかりをしづめかねて死出の山にも入りにけるかな
           (岩波文庫山家集44P夏歌・新潮181番・
         西行上人集・山家心中集・玉葉集・万代集)


○海のいかり

 海を擬人化して、海の怒りということと、船で用いる碇とを掛け
 あわせています。
 歌には強烈な批評精神に根ざした皮肉が込められています。

(01番歌の解釈)

 「山育ちの木曽人は海の怒りを鎮めることができなくて、怒りを
 沈めて留まることもできず、死出の山にまでも入ってしまった
 なあ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)
 
 「海の怒り」は、1183年10月の備中水島での平家との海戦を指して
 いると解釈できます。平家物語に詳しいですが、この戦いは
 義仲軍の完敗と言うほどのものではありませんでした。


(源義仲=木曽義仲)

平安末期、旭日将軍とも言われた木曽義仲は信濃の国木曾の宮ノ越
で育ちました。
義仲は河内源氏源義賢の次男です。義賢は為義の子で義朝の弟。
義朝の子には鎌倉幕府を起こした頼朝、そして義平、義経などが
います。
義賢の子に仲家と義仲がいて、嫡男の仲家は源三位頼政の養子と
して、1180年、宇治川の戦いで敗死。
義賢は甥の義平に攻められて1155年に死亡しています。その時に
わずか二歳の義仲は木曽谷の中原兼遠に育てられて、13歳で京都の
岩清水八幡宮で元服しています。
1180年、以仁王の平家打倒の令旨が諸国を巡ったのを機に、義仲も
軍勢を整えて立ち上がりました。
市原の合戦、横田河原の合戦、そして1183年の倶利伽羅峠の合戦
などに大勝利をおさめた義仲軍は怒涛のように都に迫ったために、
平家は都を捨てて西海に逃れました。

華々しく都に入った義仲ですが、老獪な後白河院に良いようにあし
らわれます。おりしも飢饉が続いていて、義仲軍には兵站がなく馬
に食わす草、武士達の食料もありません。それで、糧食を洛中で
調達するための乱暴狼藉があり、都人からは嫌われます。
同年9月、瀬戸内海で再起した平氏の討伐を命ぜられて播磨に向かい
ます。しかし地理も不案内でもあり、慣れない海戦でもありして
大敗を喫したと言われます。平家物語の記述では大敗というほど
のものではありません。
ともあれ、敗軍として京に舞い戻った義仲を待ち受けていたのは、
後白河院の汚い策謀。怒った義仲は強引に後白河院や後鳥羽天皇を
幽閉し、法住寺殿を焼き討ちにしたりします。

1184年1月、鎌倉方の義経・範頼に追われて敗走。近江の国粟津で
戦死。義仲ときに31歳でした。木曽の山中にあった義仲も、時代の
波に翻弄された犠牲者の一人とも言えるでしよう。
現在、大津市膳所駅近くに「義仲寺」があります。
1694年没の松尾芭蕉は遺言して義仲寺に葬られています。
西行は義仲を嫌っていたはずですが、芭蕉は義仲に対して非常な
愛惜を覚えていたであろうことがわかります。

北野→「あせ行く」15号参照
きたのこうじみぶ卿→「あなかしこ」16号参照
北まつり→「東遊び」13号参照


【木曽のかけはし・木曽のかけ路】

 桟(かけはし)とは、川を挟んで対岸と行き来できるようにする
 通常の橋のことではありません。
 断崖などの地形の条件により、一本の道を連続して施設すること
 ができず、途中で途切れることがあります。ために道の前後に、
 やむなく板や丸木など掛け渡して通行できるようにした橋の道の
 ことです。現在ならトンネルを作れば済むことですが、当時では
 そういう工法は無理です。  

 「かけ路」は、架けた道で桟道のこと。「かけはし」と同義です。

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01 波とみゆる雪を分けてぞこぎ渡る木曾のかけはし底もみえねば
          (岩波文庫山家集100P冬歌・新潮1432番) 

02 さまざまに木曾のかけ路をつたひ入りて奧を知りつつ帰る山人
         (岩波文庫山家集229P聞書集23番・夫木抄) 

03 駒なづむ木曾のかけ路の呼子鳥誰ともわかぬこゑきこゆなり
            (岩波文庫山家集280P補遺・夫木抄)
 
04 ひときれは都をすてて出づれどもめぐりてはなほきそのかけ橋
          (岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1415番)

○駒なずむ 

 (なずむ)は、水や雪や風雨、草などによって先に進むのに
 難渋すること。行き悩むこと。(駒)は馬で、馬がなかなか
 前に進まない状態。
 
○呼子鳥

 鳴き声が人を呼んでいるように聞える鳥のこと。郭公のことだと
 みられています。
 ホトトギスは郭公とは違う鳥ですが、山家集では郭公と書いて
 ホトトギスと読みます。

○ひときれは 

 一切れのこと。一つの区切りの期間。一時的ということ。

(01番歌の解釈)

 「木曽の桟橋では、雪が積もって底も見えないので、波と見える
 雪を分けて、舟を漕ぐような格好で渡ることである。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「様々に木曽の桟道を伝って山に入り、山奥の様子を知っては
 里に帰る山人たちよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「けわしくて駒がなかなか進まない木曽山中の危険な道を行く
 と、よぶこ鳥が誰かを呼んで鳴いているが、誰をよんでいるのか
 わからぬ。そのよぶこ鳥の声がきこえるよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「一旦は都を捨てて出たけれども、巡り巡った果てにやはり
 都へ帰るべく木曽の桟橋をわたることである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(木曽の桟)

現在の国道19号線、江戸時代の中山道でもある木曽川の東岸沿いを
通る道は、820年代には完成したようです。
しかし安全に通行できる道かというと、そうではなくて、常に修復
を施さなくてはならない蔦で固定しただけの桟も多かったようです。

江戸時代に中山道のルートに組み込まれたということは、それなり
に安全な道になっていたものと思われます。
とはいえ多くの軍勢を通すには支障のありすぎる道だったものと
思われます。

芭蕉の更科紀行に「桟やいのちをからむつたかずら」の句があり
ます。芭蕉は1688年に木曽路をたどったのですが、芭蕉の句をその
まま信用するなら、江戸時代でもまだまだ通行に支障をきたす桟も
あったということでしよう。
 
現在、木曽福島町と上松町の間に「木曽桟跡」の遺構があります。

 「急峻な斜面に沿って木を組んで道としていたが、1648年に
 木曽川の縁から斜面に沿って石を13メートル積み上げ、全長
 102メートルに及ぶ石垣の山道をつくった。」
              (長野県の歴史散歩から抜粋)

芭蕉がこの桟道を通ったのは工事が完成してから40年後のことです。

(中山道木曽路)

江戸時代に定められた69箇所の宿のある中山道は木曽谷ルートを
その道程に組み込んでいます。江戸日本橋から京都三条までの
59区間533キロメートルのうち、木曽谷には11箇所の宿場があり
ます。北から順に、贄川宿・奈良井宿・薮原宿・宮ノ越宿・福島宿・
上松宿・須原宿・野尻宿・三溜野宿・妻籠宿・馬籠宿の合計11宿。
距離は80キロメートル少し。宮ノ越宿と福島宿の中ほどが京都から
と江戸からの中間地点にあたり、双方から約266キロメートル。

木曽路は谷沿いの平坦な地だけでなくて鳥居峠は標高1200メートル
ほど、馬籠峠は800メートルほどあります。とはいえ木曽福島宿でも
800メートルほどの標高がありますから鳥居峠などとの標高差は
400メートル程度です。いずれにしても標高の高い山の中の道と
いうことがわかります。

【北白河】

 京都市左京区にある地名です。現在の白川通り以東、今出川通り
 以北の一帯を指します。

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01   水邊納凉といふことを、北白河にてよみける

  水の音にあつさ忘るるまとゐかな梢のせみの聲もまぎれて
           (岩波文庫山家集53P夏歌・新潮231番)

02   松風如秋といふことを、北白河なる所にて人々よみて、
    また水聲秋ありといふことをかさねけるに

  松風の音のみなにか石ばしる水にも秋はありけるものを
           (岩波文庫山家集54P夏歌・新潮251番)

03   八月、月の頃夜ふけて北白河へまかりける、よしある様
    なる家の侍りけるに、琴の音のしければ、立ちとまりて
    ききけり。折あはれに秋風楽と申す楽なりけり。庭を
    見入れければ、浅茅の露に月のやどれるけしき、あはれ
    なり。垣にそひたる荻の風身にしむらんとおぼえて、申し
    入れて通りけり

  秋風のことに身にしむ今宵かな月さへすめる宿のけしきに
           (岩波文庫山家集85P秋歌・新潮1042番)

04   北白河の基家の三位のもとに、行蓮法師に逢ひにまかり
    たりけるに、心にかなはざる恋といふことを、人々よみ
    けるにまかりあひて
 
  物思ひて結ぶたすきのおひめよりほどけやすなる君ならなくに
              (岩波文庫山家集270P残集30番)

○まとい

 人々が集まって車座になること。

○石ばしる
 
 枕ことば。岩の上を水が勢いよく流れる意味。
 「滝・垂水・近江」などにかかります。

○よしある様

 由緒のありそうな感じの家。

○秋風楽

 雅楽の曲名。雅楽とは中国伝来の音楽で鉦、笛、ひちりき、和琴
 などで演奏するもの。ほかに千秋楽、太平楽などがある。
 秋風楽は曲に合わせての舞があり、これを舞楽といいます。
            (主に講談社の「国語大辞典」を参考)

○基家の三位

 藤原道長の子の頼宗を祖とする家系に連なります。後高倉院や
 後鳥羽院は基家の姪の子、後堀河院は孫に当たります。

○行蓮法師

 不明です。法橋行遍のことだと言れています。後述。

○おひめより

 結び目のこと。帯目のこと。

(01番歌の解釈)

 「ここ北白川では、涼しげな水の音に、集まった人々も暑さを
 忘れてしまうことだ。梢に鳴く蝉の暑苦しい声も流れの音に
 まぎれてしまって。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 (詞書)
 「吹きわたる松風は秋の感じだということを、北白河という所で
 人びとが歌に詠んで、またその上に流れる水の声にもすでに秋の
 感じがあるということを加え、つまり二つの題を重ねて詠んだ
 のであるが」
            (宮柊二氏著「西行の歌」より抜粋)

 (歌)
 「松風の音を聞くと秋の訪れを思わせられるが、そればかりでは
 なく、石の上を勢いよく流れてゆく水の音にも、秋ははっきり
 感じられることだよ。」
 『松風の音、石走る水の音と、聴覚に訴えるものに秋を感じ
 とった歌』
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 尚、日本古典全書「山家集」、新潮日本古典集成山家集、和歌
 文学大系21では「音のみなにか」は「音のみならず」と表記
 されています。

(03番歌の解釈)

 (詞書)
 『「秋風」には秋風楽をかけている。「ことに」は「殊に」と
 「琴」に、「すめる」は「澄める」と「住める」をかけている。
 秋風楽は雅楽の曲名。詞書のなかに「垣にそひたる荻の風身に
 しむらん」うんぬんとあるが、秋風に荻の葉を配するのは白楽天
 の琵琶行などから早く流行したようである。(中略)
 この配合は「更級日記」にも「かたはらなる所に先おふ車とまりて
 荻の葉、荻の葉とよばすれど答へざるなり。呼びわづらひて笛を
 いとをかしく吹きすまして、過ぎぬなり。

 <笛のねのただ秋風と聞ゆるになど荻の葉のそよと答へぬ>

 といひたれば、げにとて

 <おぎの葉の答ふるまでも吹きよらでただに過ぎぬる笛の音ぞ憂き>

 などとあって知られる。ここの荻の葉は女、外から呼んだが返事が
 なかったというのである。つまり、秋風が吹けば荻の葉はそよぐ
 ものと決められていた。
 そして靡(なび)かない、返事がないということにもなる。

 「こむとたのめて侍りける友だちの待てど来ざりければ秋風の
 涼しかりける夜ひとりうちいて侍りける

 <荻の葉に人だのめなる風の音をわが身にしめて明かしつるかな>
             (後拾遺集巻四・僧都実誓)

 <荻の葉にそそや秋風吹きぬなりこぼれもしぬる露の白玉>
             (詞花集巻三・和泉式部)

 など無数にある。つまり一種の固定化した伝統発想であってこの
 詞書の西行の行動は当時の風流であり、この場面に来合っては
 黙して通り過ぎてはならない。
 家の主人に歌を詠んで挨拶を入れたというわけである。』 
 
 (歌)
 『「秋風が今夜は格別身にしむことだ。それは琴の秋風楽のせい
 なのだが、また月までが澄んで照らすような住み方の庭を見た
 ゆえに。」』
        (『』内は宮柊二氏著「西行の歌」から引用)

(04番歌の解釈)

 「恋の物思いをして神に祈ろうと結んだ襷の帯の結び目が弱い
 のでほどけやすい。しかし恋人の心はほどけやすくないよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

02番歌と04番歌は北白河での歌会で人々と詠みあった時のものです。
01番歌も複数の人が集まっていますので歌会の席だったのかもしれ
ません。04番歌以外は主催者も場所も不明ですが、俊恵の「歌林苑」
が北白川にありましたので、あるいはその関係の歌の可能性があり
ます。
尚、西行上人集と山家心中集にはもう一首あります。

 終夜秋ををしむといふことを北白川にて人々よみ侍りしに

 をしめども鐘の音さへかはるかな霜にや露をむすびかふらし
           (岩波文庫山家集89P秋歌・新潮490番
                西行上人集・山家心中集)        

(基家の三位)

藤原基家(1131〜1214)は藤原頼宗流に連なり、父は藤原通基、
母は待賢門院の女房だった一条という女性ということです。この
女性は上西門院の乳母とも言われていて、その関係で一条という
女性は西行とも親しかったものでしょう。
基家自身が西行と親しかったかどうかは分りませんが、いずれに
しても04番歌は西行55歳以降の歌であると言えます。

基家の経歴については良く分からないというのが実情です。
従三位は1172年から1176年、正三位は1176年から1187年、以後は
従二位のようですが、確実な資料がなくて異説もあるようです。
基家は後堀川天皇の祖父に当たりますが、政治の中枢で活躍した人
とはいえません。

基家の姉か妹の休子という女性が殖子という娘を産みました。基家に
とっては姪に当たります。この殖子が高倉天皇との間に第82代後鳥羽
天皇をもうけています。また、天皇にはなっていませんが後堀川天皇
の父として院政を執った後高倉院(守貞親王)も殖子を生母として
います。
これとは別に基家の娘の陳子が後高倉院に嫁いで後堀川天皇の生母と
なっています。基家の娘と、そして姪の子供との結婚ですから非常に
近い血族間での結婚といえます。

それにしても娘と、姪の子供との結婚ということは、年代的に見て
可能なのかどうか疑問でしたが、後鳥羽院が1180年生まれ、後堀川院
が1212年生まれですから、かろうじて可能でした。後堀川院の生母で
ある藤原陳子は基家が60歳頃にできた子供だったものでしょう。
               (西行の京師第47号から転載)

(行蓮法師)

ここに出てくる行蓮法師は行遍のことだと言われています。新古今集
1548番(岩波文庫)の詞書に西行との関連性のある記述があります。
詞書と歌を転載します。作者は法橋行遍です。

『月明き夜、定家朝臣に逢ひ侍りけるに、「歌の道に志深き事は、
いつばかりよりのことにか」と尋ね侍りければ、若く侍りし時、
西行に久しく相伴ひて聞き習ひ侍りしよし申してそのかみ申しし
事など語り侍りて、朝に遣はしける』

 『あやしくぞ帰さは月の曇りにし昔がたりに夜やふけにけむ』

定家と行遍はたがいに西行をよく知っていたというふうに解釈できる
詞書です。この詞書により、山家集の行蓮法師は行遍のことと解釈
されたものでしょう。
行遍については「西行の研究」の窪田章一郎氏も「西行の思想史的
研究」の目崎徳衛氏も触れていません。日本古典全書の伊藤嘉夫氏が
「川田説」と注記した上で「行遍は勘解由次官藤原顕能の子。仁和寺
阿闍梨」としています。
渡部保氏の「西行山家集全注解」でも、この説に従っています。
仁和寺菩提院を住持し、東寺長者にもなっていた行遍は後に大僧正
にもなるのですが、西行死亡年にわずかに9歳です。1181年出生、
1264年死亡といわれています。そうすると、基家の三位の歌会の年
である1172年から1176年には出生さえしていません。従ってこの
行遍ということは確実にありえません。

ここにある行蓮法師は熊野別当行範の第六子の法橋行遍のことです。
同名異人です。西行が熊野に行った時に知遇を得たものだと思います。
このことは川田順氏の昭和15年11月発行の「西行研究録」に記述され
ています。
伊藤嘉夫氏が「川田説」として取り上げた書物は昭和14年11月発行の
「西行」であり、川田氏は翌年発行の「西行研究録」で行遍について
の記述ミスを認めて、訂正されています。
新古今集に採録されている法橋行遍の作品も仁和寺の僧の行遍では
なくて、熊野の行遍の作品といえます。行遍の作品は新古今集843番、
1289番、1839番とあわせて四首があります。
(歌番号は岩波文庫によります。)(西行の京師第47号から転載)

【北山寺】

 不詳です。どこにあったのか分りません。固有名詞ではなくて、
 北山にあるお寺を総称するとも考えられています。
 
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01   北山寺にすみ侍りける頃、れいならぬことの侍りけるに、
    ほととぎすの鳴きけるを聞きて

  ほととぎす死出の山路へかへりゆきてわが越えゆかむ友にならなむ
            (岩波文庫山家集258P聞書集235番) 

02   ある人、世をのがれて北山寺にこもりゐたりと聞きて、
    尋ねまかりたりけるに、月あかかりければ

  世をすてて谷底に住む人みよと嶺の木のまを出づる月影
           (岩波文庫山家集174P雑歌・新潮754番)

○れいならぬこと

 病気が重いこと。重篤な状態をいいます。

○死出の山路

 冥土に行く途中に死者が越えなければならないという山。
 郭公は冥界と現世を行き来する鳥だと解釈されていました。

○人見よと

 月と人の両方が見合う関係性を表しています。
 月は人を見、人は月を見るということであり、ここには静かで
 落ち着いた悟りの境地を感じさせます。

(01番歌の解釈)

 「郭公よ、死出の山路へ帰って行って、私が越えて行くだろう
 ときの友になってほしい。」
               (和歌文学大系21から抜粋)
(01番歌の解釈)

 「憂き世を捨てて出家して、北山の谷底に住み行い澄ます人をも
 見よとばかりに、峯の木の間を分けて月が光をおとしている
 ことである。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)          

きぬにきむ→「あやひねる」24号参照
行基菩薩→「あなうの世」16号参照
行者がへり→「かたく」98号参照
行蓮法師(法橋行遍)→「北白川」114号参照


【きはさ】
  
 岩波書店の古語辞典、大修館の「古語林」にも載っていません。
 和歌文学大系21や新潮日本古典集成山家集では「神馬草」と表記
 しています。
 ネットでは「神馬藻」「神馬草」として(じんばそう)と読み、
 海草のホンダワラのこととあります。
 この神馬草が(きはさ・ぎばさ)と呼ばれていたのは、東北の
 山形県などであり、庄内地方の方言とのことです。
 この方言がなぜ西行の歌に取り入れられたのかは不明です。
 それにしてもホンダワラを食用にしていたものでしょうか?

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01 磯菜つまんいまおひそむるわかふのりみるめきはさひしきこころぶと
          (岩波文庫山家集116P羇旅歌・新潮1381番)

 新潮版では以下です。読みも記述します。

磯菜摘まん 今生ひ初むる 若布海苔 海松布神馬草 鹿尾菜石花菜  

いそなつまん いまおひそむる わかふのり みるめぎばさ ひじきこころぶと
    
○磯菜

 磯に自生する海草のこと。

○わかふのり

 生えたばかりの布海苔のことです。少し赤色の海苔で、昔は接着剤
 として糊の原料にもなったようです。
 
○みるめ

 「海松」と書いて「みる」と読みます。海草の一種です。
 食用にしていました。

○ひしき

 ヒジキのことです。

○こころぶと

 心太のことです。ところてんの原料のテングサを言います。

(01番歌の解釈)

 「さあ、今生え初めた海藻を採ろう。若布海苔・みるめ・
 ほんだわら・ひじき・てんぐさ等を。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【京極太政大臣】
                         
藤原氏。中御門宗輔のこと。生年1077年、没年1162年。86歳。
「中右記」の作者である中御門宗忠は兄にあたります。
菊やボタンの栽培に詳しく、また笛の名手ともいわれています。
宗輔が中納言であった期間は1130年から1140年ほどであり、西行で
言えば13歳から23歳頃までです。したがって01番歌は西行の出家前
の歌であると解釈されます。
宗輔は、保元の乱の時に死亡した藤原頼長とも親しかったようです
が、連座することはなくて1157年に太政大臣となりました。81歳と
いう高齢になってからです。
太政大臣と言っても、保元から平治にかけては藤原信西が独裁的に
政務を執っていましたから、お飾り的な太政大臣だったものでしょう。

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01   京極太政大臣、中納言と申しける折、菊をおびただしき
    ほどにしたてて、鳥羽院にまゐらせ給ひたりける、鳥羽の
    南殿の東おもてのつぼに、所なきほどに植ゑさせ給ひけり。
    公重少将、人々すすめて菊もてなさせけるに、くははる
    べきよしあれば

  君が住むやどのつぼには菊ぞかざる仙の宮といふべかるらむ
           (岩波文庫山家集87P秋歌・新潮466番)           

○鳥羽院

 ここでは鳥羽離宮のことです。城南(せいなん)離宮ともいい
 ます。白河院と鳥羽院が院政を執った所です。
          
○鳥羽の南殿

 白河天皇が造営した鳥羽離宮の南殿御所のことです。1087年に
 初めて南殿御所に遷幸がありました。離宮の中でも最初に築造
 されました。
 鳥羽離宮には南殿のほかに泉殿、北殿、馬場殿、東殿が作られて
 います。
 鳥羽天皇は田中殿を作りました。院政を行った離宮です。
 ちなみに、それぞれに配された侍の人数は北殿75人、南殿17人、
 泉殿8人の合計100名です。1090年の記録ですから当然に佐藤義清
 は入っていません。余談ですが平清盛が1179年の冬に後白河天皇
 を幽閉したのもここでした

○公重少将

 1117年か1118年出生。60歳か61歳で1178年没。   
 徳大寺通季の子。徳大寺実能の猶子となっています。
 この時の西行の年齢は19歳から22歳頃までの、まだ出家をして
 いない時でした。
 当時、公重は少将にはなっていないことが知られています。

 あたら夜の月をひとりぞながめつる おもはぬ磯に波枕して
(藤原公重 風雅和歌集911番)

○君

 鳥羽上皇のこと。第74代天皇。1103年生〜1156年没。54歳。

○仙の宮

 「仙の宮」は、読みは(ひじりのみや)。退位した天皇が住む
 ところを仙洞御所といい、菊の花の神仙の伝説とをかけている。

(01番歌の解釈)

 「京極太政大臣、中御門宗輔が中納言であった頃に(1130〜1140)
 多くの菊を鳥羽離宮に持ってきました。それを南殿の東の中庭
 いっぱいに植えたのでした。
 藤原公重少将が菊の歌を詠むようにと人々に勧めましたが、西行
 にも加わるように言ったので・・・」以上が詞書の意味です。

 「わが君(鳥羽院)がお住みになる宿の中庭を菊がいっぱい
 かざっていることである。これこそまことに仙の宮、仙洞御所と
 いうべきであろう。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【清瀧川】

 現在の北区小野の桟敷が嶽を源流として、中川、高雄などを貫流
 し、桂川に注いでいる全長20キロほどの川です。川そのものは
 大河ではなくて、細い清流です。
 京都の東の比叡山と並んで西の雄峰として愛宕山があります。
 全国の愛宕社の総本山です。この愛宕社の登山口に「清滝」と
 いう地名の集落があります。地名としての清滝は、そこを指し
 ます。
 古来、愛宕山に詣でる人々は、この清滝を流れる清滝川で水垢離を
 してから愛宕山に参詣しました。愛宕山はそれほど神聖な山だった
 のでしょう。
 清滝川の愛宕山上り口付近では、昔からゲンジボタルが生息して
 いました。関連歌に紹介した平忠度の歌がそれを証明しています。
 平安時代には嵐山の大井川から舟で清滝川を遡っていたという
 歌もあります。また清滝川上流から木材を筏にして流していた
 ともありますが、現在の川幅や深さから考えても、信じられない
 思いがします。
 平安時代はもっと水量の多い川だったのでしょう。

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01 ふりつみし高嶺のみ雪とけにけり清瀧川の水のしらなみ
      (岩波文庫山家集15P春歌・新潮欠番・西行上人集・
    御裳濯河歌合・新古今集・玄玉集・御裳濯集・西行物語)    

○高嶺

 どこか分りませんが愛宕山を想定しての歌でしょう。
 愛宕山にも戦前はスキー場がありました。現在は積雪量は
 乏しいものです。

(01番歌の解釈)

 「三句(とけにけり)と強く言い切り、五句での体言止。(清滝)
 に対する(白波)なども印象が強くて、いわゆる(丈高い歌)でも
 あろうか。」
               (宮柊二「西行の歌」から抜粋)

「清滝川の水が、春となって青く澄んだ色の深さを増しつつ、白波を
 立てている様を見ながら、上流にある高嶺に降り積んだ雪がとけた
 ことだ、と詠嘆しているのである。第三句で強く言い切って詠嘆
 している表現は生き生きとしており、その強くさわやかなひびきを
 受けて、第四句に(清滝川)というこれまたさわやかな語を出し、
 結句を名詞止めにして、しっかりとおちつかせている。
                 (安田章生「西行」から抜粋)

この歌は「異本山家集」と「御裳濯河歌合」に収められている歌です。
西行を代表する歌の一つと言っても良いと思います。自身の心象を
花や月にからめて詠い上げるという傾向の作品ではなくして、あくま
でも自然の情景を詠った歌です。この自然詠における写実性と言葉の
用法は西行ならではのものがあると思います。特に、高嶺の雪を見た
わけでもないのに、想像するしかないものを「とけにけり」と「けり」
という断定で終えた三句の強い調子、そして「しらなみ」という体言
止めで、一首全体が格調を保って引き締っています。
全体の言葉の調子が、初句から終句まで互いに緊張をはらんだまま、
響き合い、作用しあっていると思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

◎ 清滝やせぜのいはなみ高尾やま人も嵐のかぜぞ身にしむ
                 高弁上人明恵 (新勅撰集)

◎ 明からぬ心の隈をたづぬれば清滝河の月もすみけり
                  和泉式部 (和泉式部集)

◎ いしばしる水の白玉かず見えて清滝川に澄める月かげ
                    藤原俊成 (千載集)

◎ 秋近くなりやしぬらむ清滝の河瀬涼しく蛍とびかふ
                     平忠度 (忠度集)

◎ 清滝の水汲み寄せて心太      芭蕉
 
【清水】

 京都、東山にある名刹の清水寺のことです。
 創建については諸説があるようですが、800年頃には完成していた
 ようです。征夷大将軍であった坂上田村麻呂も建立や寺の維持、
 運営に関係していました。
 清水寺は何度も罹災と再建を繰り返してきました。その原因の
 多くは南都北嶺の争いに巻き込まれたためです。南都北嶺とは
 奈良の興福寺と比叡山の延暦寺のことです。
 清水寺は奈良の興福寺の末寺であり、延暦寺の末寺である清閑寺や
 祇園感神院(現在の八坂神社)との小競り合いがほぼ常態化して
 いたようです。

 現在の建造物は徳川家光の寄進により1633年頃に完成しました。
 本尊は平安時代作の十一面観音像。西国観音霊場16番札所です。
 「音羽の滝」や懸崖造りの「清水の舞台」で有名です。

 詞書に言う「年越に籠り」は晦日籠りですが、当時は多くのお寺
 が籠りの場所として提供されていました。八月晦日籠りや7日籠り
 なども行われていました。
 「更級日記」「枕草子」「源氏物語」などにも籠りのことが書か
 れています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01  世につかへぬべきやうなるゆかりあまたありける人の、
   さもなかりけることを思ひて、清水に年越に籠りたりけるに
   つかはしける

 此春はえだえだごとにさかゆべし枯たる木だに花は咲くめり
         (岩波文庫山家集216P釈教歌・新潮1186番)
        
○此春
 
 ここでは新春のこと。新年の11日から地方官の除目(じもく=官を
 任命すること)がありますから、そのことを指して拝命されると
 良いですね、という期待のことば。

○えだえだごと

 一門一統のこと。家族をはじめとして親戚縁者の一族門葉のこと

○さかゆべし

 栄えること。絶対に栄えるべきだという強調のことば。

○枯たる木

 ある程度の時節、年齢を過ぎて寿命もつきかけていて、もう花も
 つけない木ということ。

 (1番歌の解釈)

 「新春は小さな枝々までも花が咲くように、栄えられることで
 しょう。神仏のお力で枯れた木でさえ花が咲くようですから
 (ましてあなたは)。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「今年の春の除目ではきっといい仕事が見付かるでしょう。清水
 観音に参籠なさると、枯れた木でさえ花が咲くように見えます。
 まして若いあなたは、枝ごとにいくつも花が咲きあふれて栄える
 ことになりましょう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

     東山に清水谷と申す山寺に、世遁れて籠りゐたりける
     人の、れいならぬこと大事なりと聞きて、とぶらひにま
     かりたりけるに、あとのことなど思ひ捨てぬやうに申し
     おきけるを聞きてよみ侍りける
 
  いとへただつゆのことをも思ひおかで草の庵のかりそめの世ぞ
            (岩波文庫山家集241P聞書集114番)

 この詞書に見える「清水谷」は「しみずたに」の項に記述します。
  
【きりぎりす】

 バツタ目キリギリス科に属する昆虫の総称です。
 体長は4センチメートル程度。色は緑色から褐色。夏から秋の頃
 に鳴きます。コオロギのことと言われますが異説もあり、断定は
 非常に困難です。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01 月のすむ浅茅にすだくきりぎりす露のおくにや秋を知るらむ
      (岩波文庫山家集74P秋歌・新潮393番・宮河歌合)   

02 物思ふねざめとぶらふきりぎりす人よりもけに露けかるらむ
            (岩波文庫山家集64P秋歌・新潮欠番)   

03 ひとりねの寢ざめの床のさむしろに涙催すきりぎりすかな
            (岩波文庫山家集64P秋歌・新潮欠番)  

04 きりぎりす夜寒になるを告げがほに枕のもとに来つつ鳴くなり
           (岩波文庫山家集64P秋歌・新潮455番)    

05 きりぎりす夜寒に秋のなるままによわるか声の遠ざかり行く
      (岩波文庫山家集64P秋歌・新潮欠番・西行上人集・
        御裳濯河歌合・新古今集・自讃歌・西行物語)   

06 夕されや玉うごく露の小ざさ生に声まづならす蛬かな
           (岩波文庫山家集63P秋歌・新潮445番)  

07 蛬なくなる野辺はよそなるを思はぬ袖に露ぞこぼるる
           (岩波文庫山家集63P秋歌・新潮447番) 

08 ひとりねの友にはならで蛬なく音をきけば物思ひそふ
           (岩波文庫山家集65P秋歌・新潮459番・
                西行上人集・山家心中集)  

09 我が世とやふけ行く月を思ふらむ声もやすめぬ蛬かな
           (岩波文庫山家集65P秋歌・新潮395番)   

10 かべに生ふる小草にわぶる蛬しぐるる庭の露いとふらし
      (岩波文庫山家集65P秋歌・新潮461番・夫木抄)   

11   十月初つかた山里にまかりたりけるに、
    蛬の声のわづかにしければよみける

  霜うずむ葎が下のきりぎりすあるかなきかに声きこゆなり
      (岩波文庫山家集66P秋歌・新潮493番(冬歌)・
      西行上人集・山家心中集・宮河歌合・御裳濯集)   

○人よりもけに露けかるらむ

 人とはことなり涙があふれているという意味。(け)は(異)の
 ことです。(露)は涙のことと解釈して良いものです。

○さむしろ

 幅の狭い筵のこと。(狭筵)のことで「さ」は美称では
 なく狭いことを指しています。

○夜寒になるを

 夜になって気温がさがり寒さが増すということ。

○つげがほに

 告げるような顔のことですが、キリギリスが告げ顔といっても、
 イメージが掴めないものです。

○小ざさ生

 小笹が茂っている野原のこと。

○小草にわぶる

 悲観して嘆くこと。さびしくつらく思う感情。
 キリギリスが小さな草の中で、庭が水浸しになっているのを
 嘆いている状態。

○葎が下

 葎が繁茂しているその下のこと。

(02番歌の解釈)

 「物思いのために寝覚めた私を見舞うように蟋蟀が鳴く。
 あんなに鳴くのなら、虫の寝床は人のよりずっと涙で濡れて
 いるのだろうな。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「独り寝の夜床は寒くて眠れないので、蟋蟀の声を聞いて
 泣いてしまう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「こおろぎは秋も夜寒になるにつれて弱るのだろうか、鳴く声が
 遠ざかってゆくよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(07番歌の解釈)

 「こおろぎの鳴いている露けき野辺は自分とはなんらかかわりの
 ない所であるのに、思いもよらず自分の袖にも露が置くように
 涙のかかることだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)  

(09番歌の解釈)

 「自分達だけの夜と思うのだろぅか。月に照らされて更けゆく
 空を、きりぎりすは声も休めず夜通し鳴くことだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)  

(10番歌の解釈)

 「壁に生える小草にこおろぎがわびしげに鳴いているが、それは
 時雨の降る庭の露を嫌ってのことだろう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)   

【(がほ)歌について】

(がほ)のフレーズの入った歌は西行が好んで詠んだ歌とも言え
ます。
                  
いひがほ・恨みがほ・嬉しがほ・かけもちがほ・きかずがほ・
たより得がほ・つけがほ・告げがほ(2)・所えがほ・ぬるるがほ・
見がほ・見せがほ・もりがほ・わがものがほ、かこち顔。

以上15種類、16首あります。源氏物語にも「○○がほ」という記述
はたくさんありますから、西行の「がほ」歌はあるいは源氏物語の
影響なのかもしれません。

【きりきわうの夢】

 訖栗枳王(きりきおう)は釈迦の弟子の迦葉(かしょう)の
 父親とのことです。

 訖栗枳王の夢ー倶舎論にいう「訖栗枳王十夢」を指す。その
 第一「大象」を詠む。大象の小窓からの脱出を出家に喩え、
 身体は出て尾がつかえるのを父母妻子は捨てられても名利は
 捨てきれなかった寓意とする。
                (和歌文学大系21から抜粋) 

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    きりきわうの夢のうちに三首

01 まどひてし心を誰も忘れつつひかへらるなることのうきかな
         (岩波文庫山家集221P釈教歌・新潮1533番)   

02 ひきひきにわがたてつると思ひける人の心やせばまくのきぬ
         (岩波文庫山家集221P釈教歌・新潮1534番)  

03 末の世に人の心をみがくべき玉をも塵にまぜてけるかな
         (岩波文庫山家集221P釈教歌・新潮1535番)

○ひかへらるなる

 象の尾が窓につかえるように煩悩によって俗世に引き留められる。
                (和歌文学大系21から抜粋)

 衣を引っ張られたという意味。
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
          
○ひきひきに

 それぞれが思い思いに勝手に引くこと。

○せばまくのきぬ

 (せばまく)は狭くなることを言います。衣は法衣。
 仏道を信じる社会のありようや人々の信仰心が薄れて行く事を
 嘆いているものです。
 
○末の世

 末法の支配する世のこと。1052年からだといわれています。

 「仏教の歴史観。釈迦入滅後、正法、像法に次ぐ末法の時期には
 仏教がすたれ、教えのみあって行ずる人・悟りを得る人がないと
 する思想。日本では永承七年(1052)がその始まりであるとして、
 当時の社会不安と相まって平安末から鎌倉時代に流行し、浄土教
 などの鎌倉新仏教の出現につながった。」
             (講談社「日本語大辞典」より引用)

 1052年の天皇は後冷泉天皇、関白は藤原頼道です。
 藤原頼道が宇治の別荘を平等院としたのもこの年の事です。
 末法の時代に入ったということは良く知られていて、平等院の
 鳳凰堂は死後の極楽浄土を祈念して阿弥陀如来が本尊となって
 います。

(01番歌の解釈)

 「父母妻子を捨てて出家した時のことは誰もが忘れてしまって、
 名利を思う心によって結局大象が小窓に引き留められてしまう
 ように、完全な出家を遂げられないのはつらい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「釈迦の教えを聞くまでは惑っていた心を誰もが忘れてしまい、
 その入滅後、異議をたて互いに衣を引かれて争ったということ
 の憂くつらいことよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「己が心に従って、他の人が説く、わが心に叶わぬ教義は、捨て
 てかえりみないと思いこんでいる人の心は、まことに狭量なこと
 だよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)   

(03番歌の解釈)

 「真珠の価値を塵芥と区別できないような人は、末法の世の人々
 の心を磨き上げるために必要な仏法も外法も混ぜて一緒にして
 しまっているよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

行基菩薩→「あなうの世」16号参照
行者がへり→「かため・かたく」98号参照
清見潟→「・・・潟」100号参照
公重少将→「京極太政大臣」115号参照
清水谷→「清水谷(しみずたに)」予定
きんよし→「藤原公能」予定


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