もどる


【水鶏】 (山、50・260)

 (くいな)と読みます。
 水辺の草むらに住むクイナ科の鳥の総称です。
 体色は黄褐色で30センチほど。ミミズや昆虫などを捕食します。
 北海道で繁殖し、冬は本州以南に渡ってくる渡り鳥です。

 和歌に詠われている水鶏は、クイナ科の一種のヒクイナであり、
 20センチ強。このヒクイナは東南アジアやインドなどに分布して
 おり、日本には夏に飛来して繁殖します。
  
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 杣人の暮にやどかる心地していほりをたたく水鷄なりけり
           (岩波文庫山家集50P夏歌・新潮232番)    

02 竹の戸を夜ごとにたたく水鷄かなふしながら聞く人をいさめて
            (岩波文庫山家集260P聞書集250番)      

03 夜もすがらささで人待つ槇の戸をなぞしもたたく水鷄なるらむ
            (岩波文庫山家集273P補遺・雲葉集)     

○杣人

 きこりなどの杣木を切り出すことを職業とする人のこと。

○暮にやどかる

 暮れは年の暮れではなくて、一日の夕暮れを意味します。
 きこりが夕ぐれに一晩の宿を貸して欲しいと庵に来たのか・・・
 ということです。

○ふしながら

 臥せたままの状態です。

○ささで人待つ

 (閉ざさないで人を待っている)ということです。
 (ささで)は(然々で)のことで、自然に、あるがままにという
 ことを意味します。

○なぞしも

 (なぜ、どうして?)という疑問符の付く状態をいう言葉です。
 (何にぞ)に副動詞の(しも)が接続して、(なぜ、どうして)
 を強調します。

(01番歌の解釈)

 「杣人が一夜の宿を借りようと戸を叩いている―そんなふうに水鶏
 の鳴く声が聞えることである。人の訪れとて稀な深山の庵に。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「竹の戸を夜毎に叩くように鳴く水鶏だなー、横になりながら
 聞く私を戒めて。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「一晩中、戸を閉ざさないで来る人を待つ槇造の戸をなんで開けて
 くれとたたく水鶏なのであろうか。戸はすでにあけてあるのに。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

空海→大師、予定

【空仁法師】

 生没年未詳。俗名は大中臣清長と言われます。
 西行とはそれほどの年齢の隔たりはないものと思います。西行の
 在俗時代、空仁は法輪寺の修行僧だったということが歌と詞書
 からわかります。
 空仁は藤原清輔家歌合(1160年)や、治承三十六人歌合(1179年)
 の出詠者ですから、この頃までは生存していたものでしょう。
 俊恵の歌林苑のメンバーでもあり、源頼政とも親交があったよう
 ですから西行とも何度か顔を合わせている可能性はありますが、
 空仁に関する記述は聞書残集に少しあるばかりです。
 空仁の歌は千載集に4首入集しています。

 かくばかり憂き身なれども捨てはてんと思ふになればかなしかりけり
                (空仁法師 千載集1119番)
  
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01    いまだ世遁れざりけるそのかみ、西住具して法輪にまゐ
     りたりけるに、空仁法師経おぼゆとて庵室にこもりたり
     けるに、ものがたり申して帰りけるに、舟のわたりのと
     ころへ、空仁まで来て名残惜しみけるに、筏のくだりけ
     るをみて                 

   はやくいかだはここに来にけり (空仁)

     薄らかなる柿の衣着て、かく申して立ちたりける。優に
     覚えけり

   大井川かみに井堰やなかりつる (西行)
               (岩波文庫山家集267P残集22番)

02    京より手箱にとき料を入れて、中に文をこめて庵室にさ
     し置かせたりける。返り事を連歌にして遣したりける   

   むすびこめたる文とこそ見れ    (空仁)

     このかへりごと、法輪へまゐりける人に付けてさし
     置かせける

   さとくよむことをば人に聞かれじと (西行)

03    申しつづくべくもなき事なれども、空仁が優なりしこと
     を思ひ出でてとぞ。この頃は昔のこころ忘れたるらめど
     も、歌はかはらずとぞ承る。あやまりて昔には思ひあが
     りてもや
               (岩波文庫山家集267P残集26番)

○いまだ世遁れざりける

 西行がまだ出家をしていない頃のことです。

○西住

 俗名は源季政。醍醐寺理性院に属していた僧です。西行とは若い頃
 からとても親しくしていて、しばしば一緒に各地に赴いています。
 西住臨終の時の歌が岩波文庫206ページ、新潮版805番にあります。

○法輪

 京都市西京区にあるお寺です。虚空蔵山法輪寺といい、渡月橋の
 西詰めからすぐの所に位置します。713年、元明天皇の勅願寺と
 して行基の開基によると言われますから、京都でも有数の古刹
 です。十三参りで有名なお寺です。

○柿の衣

 渋柿の渋で染めた衣です。茶色っぽい色になります。
 
○とき料

 (斎料)と書き、斎とは食事のことです。
 僧侶の食事の料となるお金のことです。

○昔のこころ忘れたるらめ

 空仁奉仕が、出家当時の純真な気持ちを忘れ果てたことを批判
 した言葉です。

○あやまりて昔には思ひあがり

 西行の時代は当然に句読点がありません。この文章もあるいは
 現在では(あやまりて)の次に読点が来て、(昔には思ひあがり)
 とは文脈が変わるのかも知れません。
 和歌文学大系21では(あやまりて)と(昔には思ひあがり)は別個に
 解釈されています。
 (あやまりて)は前述の(昔のこころ忘れたるらめ)にかかる言葉の
 可能性に言及されています。
 (昔には思ひあがり)は、出家者として昔より自負しているのだ
 ろうか・・・という解釈をされています。

(01番歌の解釈)

 おやまあ、もう筏はここにやって来たよ。(前句・空仁)

 大堰川の川上にこの筏を堰く井堰はなかったのかね。(付句・西行)
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 ひそかに結びこめたお手紙と見えます。(前句・空仁)

 里中が大騒ぎするような内容を人に聞かれまいとしてね。
                   (付句・西行)
                (和歌文学大系21から抜粋)

和歌文学大系21では(里とよむことをば人に聞かれじと)となって
いて、(さとくよむことをば人に聞かれじと)とは異なっています。
原文では(さとと)になっているとのことです。

(連歌)

 「詩歌の表現形態の一つです。古くは万葉集巻八の大伴家持と尼に
 よる連歌が始原とみられています。平安時代の「俊頼髄脳」では
 連歌論も書かれています。
 以後の詩歌の歴史で5.7.5.7.7調の短歌が、どちらかというと停滞
 気味であるのに対して、連歌は一般の民衆にも広まって、それが
 賭け事の対象ともなり爆発的な隆盛をみます。
 貴族、公家も連歌の会を催し、あらゆる物品のほかに金銭も賭け
 られたということです。
 「連歌師」という人たちまで出て、白川の法勝寺、東山の地主神社、
 正法寺、清閑寺、洛西の西芳寺、天龍寺、法輪寺などでも盛んに
 連歌の興行がされました。
              (學藝書林刊「京都の歴史」を参考)

 後にこの連歌の形式が変化して、芭蕉や蕪村の俳諧、そして正岡
 子規によって名付けられた俳句にと引き継がれます。


(ゐせぎ・井堰)

 原意的には(塞き)のことであり、ある一定の方向へと動くもの
 を通路を狭めて防ぐ、という意味を持ちます。
 水の流れをせきとめたり、制限したり、流路を変えたりするため
 に土や木材や石などで築いた施設を指します。現在のダムなども
 井堰といえます。
 今号の西行歌は、当時の大井川で井堰の設備が施されていたこと
 の証明となります。この当時の井堰が現在も渡月橋上流にあります。

【九月十三夜】

 陰暦9月13日の夜のこと。この日の月は陰暦八月十五夜の月に
 対して「後の月」と言われます。芋名月、豆名月などとも言い、
 平安時代に月見の風習が始まったようです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01    九月十三夜

  こよひはと所えがほにすむ月の光もてなす菊の白露
           (岩波文庫山家集85P秋歌・新潮379番・
             西行上人集・山家心中集・夫木抄)

02 雲消えし秋のなかばの空よりも月は今宵ぞ名におへりける
           (岩波文庫山家集86P秋歌・新潮380番・
                 西行上人集・山家心中集)

03  御跡に三河内侍さぶらひけるに、九月十三夜人にかはりて

  かくれにし君がみかげの恋しさに月に向ひてねをやなくらむ
          (岩波文庫山家集205P哀傷歌・新潮793番)   

 「かへし」として三河内侍の歌があります。

  我が君の光かくれし夕べよりやみにぞ迷ふ月はすめども
    (三河内侍歌)(岩波文庫山家集205P哀傷歌・新潮794番)

○所えがほ

 自分がいるべき場所を見つけたかのように・・・ということ。

○秋の半ばの空

 陰暦では1月から3月までが春、4月から6月までが夏、7月から
 9月までが秋、10月から12月までが冬です。
 従って秋の半ばとは8月のことであり、十五夜の空を指して
 います。

○名におへりける

 (おへりける)は(負へりけり)で、ふさわしい、似つかわしい、
 という意味です。

○三河内侍

 生没年未詳。大原三寂(常盤三寂)の一人の寂念(藤原為業)の娘。
 二条天皇の女房になって三河の内侍と名乗っていました。
 千載集に3首入集しています。

 いかで我ひまゆく駒を引きとめてむかしに帰る道を尋ねん
             (二条院内侍参河 千載集1087番)

○さぶらひけるに

 側で仕える、側でじっと待機し、見守る、などの意味です。

○かくれにし君・わが君

 二条天皇の逝去を言います。第78代天皇である二条天皇は1165年
 7月28日崩御。23歳でした。

○ねをやなくらむ

 声を出して泣くことをいいます。

(01番歌の解釈)
 
 01番歌は新潮版と岩波文庫版と和歌文学大系でそれぞれに少しの
 異同があります。

 今夜(こよひ)はと所得がほに住月の光もてなす草の白露
                  (和歌文学大系21)

 今宵はと 心得顔に すむ月の 光もてなす 菊の白露
              (新潮日本古典集成山家集)

 「九月十三夜である今夜こそ名月と、本領を発揮して美しく澄む
 月光を地上では秋草の白露が一面に煌いて触発し合っている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「重陽の節句の後一段と色のまさった菊に置く白露が、今宵は
 後の名月と心得顔に住む月の光をひきたたせ宿していることだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「雲が消えて晴れわたった仲秋八月十五夜の空よりも、少し月の
 欠けた今夜九月十三夜の方が、実は名月だったのだ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「あまりの月の美しさに、亡き天皇の面影が恋しくなって、月に
 向かって声を上げて泣いていらっしゃるのでしょうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
(04番歌の解釈)

 「我が天皇が崩御されたその夕方から、私は光を失って闇路に
 迷っております。どんなに月が美しくても、天皇の光には及ぶ
 べくもありません。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【九月ふたつありける年・後九月】

 九月が閏月で二回あった年ということです。後の九月とは閏月の
 後のほうの九月ということ。陰暦はしばしば閏月がありました。
 西行在世中の九月の閏月は1137年、1156年、1175年の三度あり
 ました。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01   九月ふたつありける年、閏月を忌む恋といふことを、
    人々よみけるに

  長月のあまりにつらき心にていむとは人のいふにやあるらむ
          (岩波文庫山家集145P恋歌・新潮613番)

02   後九月、月を翫ぶといふことを

  月みれば秋くははれる年はまたあかぬ心もそふにぞありける 
          (岩波文庫山家集86P秋歌・新潮381番・
                西行上人集・山家心中集)

○長月

 陰暦で九月のことです。

○いむとは人の

 (忌むとは人の)のことで、9月は正月や5月と共に忌み月ですから
 このように言います。
 忌み月とは、穢れや厄災を避けるために行いを慎しんだ方が
 良いとする月のことです。

○あかぬ心
 
 飽かぬ心ということ。飽きることはないということ。
 むしろ名残惜しい気持をいいます。

(01番歌の解釈)

 「九月あまりの閏月である今月、恋しいあの人はあまりにも
 つれない心で「忌月なので慎んでお逢いしないのです」という
 のであろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
             
(02番歌の解釈)

「月を見ていると、秋がひと月多くあった今年はその分、もっと
 見ていたくなってしまう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

草とりかふ→「神楽」89号参照
くすだま→「あやめ草」24号参照

【公卿勅使】

 (公卿=くぎょう)とは朝廷の位階で参議以上の人を言います。
 参議はほぼ三位以上の人を言いますが、四位であっても参議で
 あれば公卿です。
 公卿は「公」と「卿」に分けられます。
 「公」は太政大臣、右大臣、左大臣、内大臣など。
 「卿」は大納言、中納言、少納言、参議などを言います。
   
 「勅使」とは天皇の命令を伝える使者のことです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

    公卿勅使に通親の宰相のたたれけるを、五十鈴の畔にて
    みてよみける
  
01 いかばかり凉しかるらむつかへきて御裳濯河をわたるこころは
          (岩波文庫山家集261P秋歌・聞書集257番)

02 とくゆきて神風めぐむみ扉ひらけ天のみかげに世をてらしつつ
               (岩波文庫山家集261P聞書集)

○通親の宰相

 村上源氏。内大臣源雅通の長男として1149年出生。1202年、54歳
 で死亡。
 久我(こが)及び、土御門(つちみかど)とも称しました。
 後白河院、後鳥羽院などに仕えて活躍しています。ことに通親の
 養女が産んだ土御門天皇の外祖父として権勢をふるいました。
 平氏全盛期では平氏にべったりで、初めの妻を離縁して清盛の姪を
 めとり、平氏が凋落する間際には、後白河院にすり寄っています。
 清盛の姪とも離縁して、後白河院近臣貴族の娘を妻にしています。
 権謀術数に長けた独裁政治家として、政敵の九条兼実も失脚させ
 ました。非常にいやらしい政治家としての印象を受けます。

 源通親が公家勅使として都を立ったのが寿永二年(1183年)4月
 26日のこと。通親35歳。西行66歳。
 この月、伊勢神宮の主な祭りもなく、皇室にも特に慶事もあり
 ませんでしたので、何のための勅使であるか不明です。源平の
 争乱期でもあり、国家安泰の祈願のためであるのかもしれません。
 通親の立場からすれば、平氏戦勝の祈願とも考えられます。
 その平氏もこの年7月には都を捨てて西海に遁走、後白河院や
 通親は比叡山に逃れています。
 この後、壇ノ浦の合戦で平氏滅亡。1185年3月のことです。

○つかへきて

 朝廷に仕えること。この年に通親が仕えていたのは後白河法皇です。

○御裳濯河

 五十鈴川の別称です。伊勢神宮内宮を流れていますので、内宮の
 象徴として解釈されます。

○とくゆきて

 「疾く行きて」の意味。勅使の通親に早く行きなさい、と、
 進めていることば。

○み扉ひらけ(みとひらけ)

 「み」は美称の接頭語。神殿の扉を開く・・・ということ。

○天のみかげ

 「あめ」は天(あま)の転化した読み方。
 「天のみかげ」は、下に紹介する「日のみかげ」とともに、対を
 なしていて、大祓えの祝詞の中にもある用語です。
 「御蔭」の漢字をあてています。
 伊勢神宮内宮に祀られている「天照大神」を指して「天の御陰」
 というものなのでしようが、伊勢神宮は天皇家のものでもあり、
 同時に天皇家をも指して「天のみかげ」と言っているはずです。

(01番歌の解釈)

 「どれほど涼しいことだろう、廷臣として仕えてきて今、御裳濯川
 を渡る勅使の心のうちは。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
(02番歌の解釈)

 「勅使よ早く行って神風をお恵み下さる御戸を開け、そうすれば
 大神は神殿に鎮座しながら世を照らし続けるよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【葛の葉】

 文字通り葛の葉のことです。
 葛の葉は風に裏返ると白く目立ちます。葉裏を見せるということ
 から、主に恋の恨みを詠むときに使われる言葉です。

 秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみ顔には見えじとぞ思ふ
       (和泉式部 新古今集1821番・和泉式部集366番)

【葛まき】

 葛の葉っぱの先の方が巻き込んでいる状態のこと。

【まくず】

 真葛と表記して植物の「葛」のこと。真(ま)は美称です。
 初秋に赤紫色の花が咲きます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 吹く風に露もたまらぬ葛の葉のうらがへれとは君をこそ思へ
          (岩波文庫山家集163P恋歌・新潮1335番)

02 すがるふすこぐれが下の葛まきを吹きうらがへす秋の初風
      (岩波文庫山家集56P秋歌・新潮1013番・夫木抄)

03 玉まきし垣ねのまくず霜がれてさびしくみゆるふゆの山里
          (岩波文庫山家集103P冬歌・新潮515番)

04 山里はそとものまくず葉をしげみうら吹きかへす秋を待つかな
           (岩波文庫山家集55P夏歌・新潮252番・
            西行上人集・山家心中集・続後撰集)

○すがる

 古今集では「じが蜂」と説明がありますが、ここでは鹿の
 異名です。

○こぐれが下

 樹が繁茂していて、その地面近くは暗くなっていること。

○玉まきし

 葛の葉の葉先が巻いていて、玉のように見える状態のことです。

○そとも

 (外面)と表記して、家のすぐ外のことを言います。

(01番歌の解釈)

 「葛の葉は風が吹くと露も消えれば、すぐに裏返ってしまうが、
 あなたもそのように、心を翻して私に本当の優しさを見せて
 くれませんか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「鹿の伏す木の下闇の葛巻きの葉を、初秋の風が吹いてうら
 がえしているよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「玉のように先端を巻いて茂っていた垣根の真葛が、霜にあって
 枯れてしまい、人目も草もかれはて、まことに寂しく見える
 冬の山里であるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「私の山家では、草庵の外に葛の葉が生い茂り、秋風が吹いて
 葉が裏返る日を心待ちにしている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「葛」は「くず・かずら・つづら」と読みます。以下の歌にある
「正木のかづら」は蔦「つた」のことと解釈できますので、葛とは
関係ないものと思います。しかし一応はここに出しておきます。

01 松にはふまさきのかづらちりぬなり外山の秋は風すさぶらむ
          (岩波文庫山家集89P秋歌・御裳濯河歌合・
               新古今集・御裳濯集・玄玉集)

02 神人が燎火すすむるみかげにはまさきのかづらくりかへせとや
            (岩波文庫山家集279P補遺・夫木抄) 

    かつらぎを尋ね侍りけるに、折にもあらぬ紅葉の見え
    けるを、何ぞと問ひければ、正木なりと申すを聞きて

03 かつらぎや正木の色は秋に似てよその梢のみどりなるかな
         (岩波文庫山家集119P羇旅歌・新潮1078番・
                   夫木抄・西行物語) 

「参考歌」
04 つららはふ端山は下もしげければ住む人いかにこぐらかるらむ
          (岩波文庫山家集166P雑歌・新潮961番)

 新潮版では「つらら」は「葛=つづら」となっています。
 この歌の「葛=つづら」も「葛=くず」とは断定できません。

(かづら)

 「まさきのかずら」の古名は蔦蔓(蔦。ブドウ科の落葉植物)です。
 和歌文学大系21では蔦蔓の一種の「サンカクヅル」としています。
 サンカクヅルは「行者の水」という別名があります。

 一説にテイカカズラのことを指すとも言われています。しかし
 キョウチクトウ科のテイカカズラは常緑であり、紅葉しません。

【くだす御門】
  
 御門は白河天皇を指しています。白河天皇が自然現象である雨に
 対してさえも禁獄したという児戯を揶揄しつつ、その古事をふま
 えた上で、西行の花を惜しむ感情を表しています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 勅とかやくだす御門のいませかしさらば恐れて花やちらぬと
          (岩波文庫山家集35P春歌・新潮106番・
            西行上人集・山家心中集・夫木抄)

○勅

 天皇の命令のことです。
 勅命、勅願、勅裁、勅撰などの「勅」を用いた言葉があります。

○いませかし

 (います)の活用形に終助詞(かし)の接合した言葉。
 おいでになられたらなー、いてもらったらなーというほどの意味。

(01番歌の解釈)

 「桜の花に対して散ってはならぬと勅を下される帝がおいでに
 なってほしい。そうしたら桜も勅に背くことをおそれて散らない
 かと思われるから。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

くだもの→「折櫃」84号参照

【くちなし】

 アカネ科の常緑低木植物。高さ二メートル程度。
 初夏に芳香のある白い花をつけます。
 和歌ではくちなしの花そのものを詠んだ歌は皆無と言ってもよく、
 実を染めた黄色い「くちなし色」を詠んだり、花名から「口無し」
 と重ね合わせて詠まれています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01 秋きぬと風にいはせてくちなしの色そめ初むる女郎花かな
            (岩波文庫山家集276P補遺・宮川歌合)

○女郎花

 植物名。オミナエシ科の多年草。高さは1メートル程度。
 夏から秋に淡黄色の小花を傘状にたくさんつけます。
 秋の七草の一つです。オミナメシの別称もあります。

(01番歌の解釈)

 「秋が来たということは風にいはせて、くちなし色に、色をそめ
 はじめるおみなえしの花よ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎ 見ぬ人にいかがかたらんくちなしのいはでの里の山吹の花
              (詠み人知らず 新勅撰集126番)

◎ 山吹の花色衣ぬしやたれ 問へどこたへずくちなしにして
                 (素性法師 古今集1012番)

【くつわ虫】

 キリギリス科の昆虫で体長は三センチ前後。体色は緑色から
 褐色。夏から秋に鳴きます。
 馬の口に噛ませる金具を轡(くつわ)と言いますが、クツワムシの
 名称は、鳴く音が轡の鳴る音に似ているからと言われています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 うち具する人なき道の夕されば聲立ておくるくつわ虫かな
            (岩波文庫山家集65P秋歌・新潮463番)

○うち具する

 一緒にうちそろって行動すること。
 (人なき)とありますので、単体での行動を指します。

○夕されば

 夕方になったということ。

(01番歌の解釈)

 「従者もなく一人で歩く道も夕暮れになると、轡虫ががちゃ
 がちゃ声を振り立てて見送ってくれる。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「誰一人として通らなくなった夕方の路では、くつわ虫が馬の
 くつわの響きにも似た音をたて、あたかも騎馬の人が通る
 ごとくに鳴いているよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)
   
【久能の山寺】

 久能山は静岡市の清水港の少し西に位置し、駿河湾を望む標高216
 メートルの山。
 久能山のすぐ北に標高308メートルの有度山があり、その山裾付近
 を「日本平」といいます。有名な景勝地です。

 詞書にある「久能の山寺」とは、久能山の山頂にあった補陀落山
 久能寺のことです。1568年、武田信玄がこの地に久能山城を築く
 ことになり、ために、お寺は清水港近くに移転させられました。
 明治になってからの廃仏毀釈の暴挙の影響を受けて、すっかり荒廃
 していたお寺を山岡鉄舟が再興しました。以後は「鉄舟寺」と寺名
 を変えています。
 信玄の久能山城は武田氏滅亡後に徳川氏の支配となります。
 1616年、徳川家康が駿府城で死亡すると久能山城は壊されて、
 その後に「久能山東照宮」が造られました。

 真偽は別にして、久能寺は推古天皇の時代に建立されたとの言い
 伝えがあります。奈良時代の僧である行基が旅の途上に立ち寄り、
 千手観音像を作って安置して、その像がこの寺の本尊となったよう
 です。その本尊は現在は鉄舟寺にあります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01   駿河の國久能の山寺にて、月を見てよみける

  涙のみかきくらさるる旅なれやさやかに見よと月はすめども
         (岩波文庫山家集128P羇旅歌・新潮1087番) 

○駿河の國

 現在の静岡県中東部を指す地名。東海道の国です。

○かきくらさるる

 (掻き暗らさるる)こと。空を暗くする、とか、心が悲しみで
 暗くなる、という意味があります。
 古典的な用い方ではないはずですが、日本語大辞典では
 「掻き暮れる」「掻き昏れる」ともあって、「掻き暗す」とほぼ
 同義です。

(01番歌の解釈)

 「毎日泣いてばかりいる旅になってしまった。旅の月は
 美しく誇らしげに澄んでいるのを見るにつけても感涙で
 月が曇るのだが。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

この歌は初度の陸奥への旅のときの歌と断定していいのかもしれ
ません。再度の旅では、旅の途上のお寺で逗留する時間的な余裕
などはないと解釈するべきだと思います。ただし断定してしまう
だけの材料もありません。陸奥までの旅以外にもこのあたりまで
来た可能性がありますが、その検証は不可能です。

【くま】

 もともとの意味は、道や川が曲がりくねった、その曲がり目の
 こと。
 奥まっていて目立たない所。物陰。隅の方のこと。
 隠していること。秘密のことごと。
 はっきりと明瞭でないこと。曇っていること。

 などのたくさんの意味合いを合わせ持つ言葉です。

 「心のくま」とは、自分の心の奥底にある秘めた感情のことです。
 心の中にしまってある秘密のことをいいます。
 同時に自分でもはっきりとわからない、もやもやとした得体の
 知れない感情をも指すのでしょう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01 思ひとけば千里のかげも数ならずいたらぬくまも月はあらせじ
          (岩波文庫山家集84P秋歌・新潮1477番)

02 もの思ふ心の隈をのごひすててくもらぬ月を見るよしもがな
          (岩波文庫山家集150P恋歌・新潮645番)

03 天の原さゆるみそらは晴れながら涙ぞ月のくまになるらむ
          (岩波文庫山家集148P恋歌・新潮623番)

04 隔てたる人のこころのくまにより月をさやかに見ぬが悲しさ
          (岩波文庫山家集150P恋歌・新潮642番)

05 こよひこそ心のくまは知られぬれ入らで明けぬる月をながめて
             (岩波文庫山家集264P残集13番)

○のごひすてて

 (のごひ)は(拭う)ことです。心の隈を拭い取って、きれいな状態
 にするということ。

○天の原

 神話世界では神々の住む天上界のこと。
 大空のことをも指しています。

(01番歌の解釈)

 「よくよく思い解き納得すれば、千里をも照らす月光といえども、
 ものの数ではない。この明るい月の光には、照らさないほんの
 僅かの隈もないようにさせたいものだ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「物思いをして生じた心の影を、汚れを拭うようによく拭き
 取って、曇りのない清澄な月を見られたらいいな。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「今宵こそ心に秘めていたことはわかったよ。西の空に入らない
 うちに夜が明けてしまった有明の月をじっと見つめて。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

【くまもなき】

 影となる部分が一切ないということ。すべてが明瞭であると
 いうこと。

 (くまもなき月)
 月が煌々と輝いて雲もかかることなく、澄み切っている状態。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 くまもなき月の光にさそはれて幾雲井まで行く心ぞも
          (岩波文庫山家集75P秋歌・新潮327番・
                西行上人集・山家心中集)

02 くまもなき月のおもてに飛ぶ雁のかげを雲かと思ひけるかな
      (岩波文庫山家集81P秋歌・新潮366番・夫木抄)

03 くまもなき月のひかりをながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき
          (岩波文庫山家集81P秋歌・新潮375番)

04 くまもなき折しも人を思ひ出でて心と月をやつしつるかな
         (岩波文庫山家集150P恋歌・新潮644番・
        西行上人集・新古今集・玄玉集・西行物語)

05 思ひしるを世には隈なきかげならず我がめにくもる月の光は
          (岩波文庫山家集85P秋歌・新潮1480番)

06 涙ゆゑ隈なき月ぞくもりぬるあまのはらはらねのみなかれて
          (岩波文庫山家集149P恋歌・新潮637番)

07 待ち出でてくまなき宵の月みれば雲ぞ心にまづかかりける
          (岩波文庫山家集79P秋歌・新潮338番・
                西行上人集・山家心中集)

08 初春をくまなく照らす影を見て月にまづ知るみもすその岸
         (岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1531番・
               西行上人集追而加書・夫木抄)

○幾雲井

 いくつもの雲のあるところを超えて・・・ということであり、
 実際的な距離ではなくて心理的な距離です。遥か彼方のあたり、
 遠方という意味で使われている言葉です。
 
○姨捨の山

 長野県更埴市にある「冠着山」のことだと言われています。
 標高1252メートル。
 月の名所であり、また、棄老伝説のある山です。

○やつしつる

 見た目が悪くなること。みすぼらしく貧弱なこと。
 身分などが落ちること。その状態。出家すること。

 この歌では月が曇って見える状態を言います。

○我がめにくもる

 涙目になっているから月が曇って見えるということです。

○あまのはらはら

 天の原に涙の雨がはらはらと落ちているイメージです。

○ねのみなかれて
 
 新潮版では「ねのみなかれて」は「とのみなかれて」となって
 います。「ね」は「音」のことですから「ね」が良いと思い
 ます。「と」は歌のリズムを少し阻害するように思います。
 「音のみ泣かれて」ですが、歌に少し説得力がないようにも
 思います。

○みもすその岸

 伊勢神宮内宮の五十鈴川(御裳濯川)の岸辺のこと。

(01番歌の解釈)

 「すみずみまで隈なく照らす月の光に誘われて、遥かな雲井の
 彼方、何処まであくがれて行く心であろうか。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「曇りなく明るい月光を見ると、真っ先に恋しくなるのは
 姥捨山である。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「隈なく照らす月光ではなく、曇っている……。しかしこれは
 自分の眼が涙に曇っているからと、十分に思い知っているの
 だが。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(06番歌の解釈)

 「涙のせいで澄み切っていた月までが曇ってしまった。音を立て
 て空から雨が降るように、声を上げてはらはらと泣いてしまった
 ので。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(08番歌の解釈)

 「新春の日本の国土すべてを至らぬ隈なく照らし出す月の光を
 見ると、まずは何より伊勢神宮の神威を知ることができる。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

【隈になる】

 陰になる、照らし出されない部分がある、どんなにあからさまに
 しょうとしてもできない部分があるという意味ですが、この歌は
 結句の「隈になるらむ」は「秋の月」に照応していないと思います。

 新潮日本古典集成山家集では以下のようになっております。新潮
 版の歌もしっくりと来ないのですが、新潮版のほうが良いかなー
 という気もしています。

 秋の月 信太の杜の 千枝よりも 繁きなげきや くまなかるらん
             (新潮日本古典集成山家集651番)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー          
01 秋の月しのだの森の千枝よりもしげきなげきや隈になるらむ
          (岩波文庫山家集150P恋歌・新潮651番)

○しのだの森

 旧国名の和泉の国(現在の大阪府和泉市)信太村にある森のこと。
 神社は「信太の森神社」、通称は「葛葉稲荷神社」があります。
 安倍清明の「葛の葉伝説」として名高い神社です。
 楠の大樹の下に白狐が住んだという洞窟があるそうです。
 
 「恋しくば尋ねきてみよ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」

 私が和歌を覚えた初めの一首です。当時、私は小学生だったと
 思います。私には特に愛着のある歌です。

○千枝

 花山天皇が信太の森神社にある楠を「千枝の楠」と命名したよう
 です。花山天皇の時代からは、すでに1000年以上が過ぎています。

○しげきなげき

 嘆きが深いこと。悲しみに打ちひしがれていること。

(01番歌の解釈)

 「私はしきりに恋の嘆きをしていて、その繁きこと信太の森の
 楠の千枝にも負けない程なので、どんなに明るい秋の月でも
 照らし出せないであろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【熊野】

 和歌山県にある地名。熊野三山があり修験者の聖地ですが、特に
 平安時代後期には皇室をはじめ庶民も盛んに熊野詣でをしました。
 京都からは往復で20日間以上かかりました。

【熊野御山】

 熊野にある山のことです。熊野本宮かとも思いますが、もちろん
 特定はできません。熊野三社のある山とみなしてよいでしょう。

【熊野詣】

 熊野三社に参詣することを言います。熊野本宮大社、熊野速玉
 大社、熊野那智大社の順に参詣して、帰路も同じ道順を経るのが
 普通でした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01   五月会に熊野へまゐりて下向しけるに、日高に、宿に
    かつみを菖蒲にふきたりけるを見て

  かつみふく熊野まうでのとまりをばこもくろめとやいふべかるらむ
    (岩波文庫山家集48P夏歌・新潮欠番・西行上人集119番)

02   承安元年六月一日、院、熊野へ参らせ給ひけるついでに、
    住吉に御幸ありけり。修行しまはりて二日かの社に参り
    たりけるに、住の江あたらしくしたてたりけるを見て、
    後三條院の御幸、神も思ひ出で給ふらむと覚えてよめる

  絶えたりし君が御幸を待ちつけて神いかばかり嬉しかるらむ
         (岩波文庫山家集118P羇旅歌・新潮1218番・
                 西行上人集・山家心中集)

03   夏、熊野へまゐりけるに、岩田と申す所にすずみて、
    下向しける人につけて、京へ同行に侍りける上人の
    もとへ遣しける

  松がねの岩田の岸の夕すずみ君があれなとおもほゆるかな
         (岩波文庫山家集119P羇旅歌・新潮1077番・
         西行上人集・山家心中集・玉葉集・夫木抄)

04   熊野へまゐりけるに、やかみの王子の花面白かりければ、
    社に書きつけける

  待ちきつるやかみの櫻咲きにけりあらくおろすなみすの山風
          (岩波文庫山家集119P羇旅歌・新潮98番・
        西行上人集・山家心中集・夫木抄・西行物語)

05   熊野へまゐりけるに、ななこしの嶺の月を見てよみける

  立ちのぼる月のあたりに雲消えて光重ぬるななこしの嶺
         (岩波文庫山家集120P羇旅歌・新潮1403番)

06   寂蓮、人々すすめて、百首の歌よませ侍りけるに、いな
    びて、熊野に詣でける道にて、夢に、何事も衰へゆけど、
    この道こそ、世の末にかはらぬものはあなれ、猶この歌
    よむべきよし、別当湛快三位、俊成に申すと見侍りて、
    おどろきながら此歌をいそぎよみ出だして、遣しける奧に、
    書き付け侍りける

  末の世もこの情のみかはらずと見し夢なくばよそに聞かまし
      (岩波文庫山家集187P雑歌・新潮欠番・新古今集)

07   熊野ニ首

  三熊野のむなしきことはあらじかしむしたれいたのはこぶ歩みは
         (岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1529番)

08 あらたなる熊野詣のしるしをばこほりの垢離にうべきなりけり
         (岩波文庫山家集225P神祇歌・新潮1530番)

09   熊野御山にて両人を恋ふと申すことをよみけるに、
    人にかはりて

  流れてはいづれの瀬にかとまるべきなみだをわくるふた川の水
        (岩波文庫山家集243P聞書集122番・夫木抄)

10 みくまのの濱ゆふ生ふる浦さびて人なみなみに年ぞかさなる 
          (岩波文庫山家集189P雑歌・新潮1023番・
                 西行上人集・山家心中集)

11    熊野に籠りたる頃正月に下向する人につけて遣しける文
     の奥に、ただ今おぼゆることを筆にまかすと書きて

  霞しく熊野がはらを見わたせば波のおとさへゆるくなりぬる
          (岩波文庫山家集279P補遺・寂蓮法師集)

12 霞さへあはれかさぬるみ熊野の濱ゆふぐれをおもひこそやれ
   (寂蓮法師歌) (岩波文庫山家集279P補遺・寂蓮法師集)

13   熊野へまかりけるに、宿とりける所のあるし、夜もすから
    火をたきてあたりけり。あたりさえてさむきに柴をたかせ
    よかしとおもひけれとも、人には露もたかせすして、たき
    あかしけり。下向しけるに、猶そのくろめに宿とらむと
    申しけるに、あるしはやうなくなり侍りにき。ないり給ひ
    そと申しけれは柴たき侍りし事おもひいてられて、いと
    あはれにて

  宿のぬしや野へのけふりに成にける柴たく事をこのみこのみて
                    (松屋本山家集)

14    後の世のものがたり各々申しけるに、人並々にその道に
     は入りながら思ふやうならぬよし申して     

   人まねの熊野まうでのわが身かな (前句・静空)

      と申しけるに

   そりといはるる名ばかりはして  (付句・西行)
          (岩波文庫山家集205P残集15番)       
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○五月会

 五月五日の菖蒲の節句の日のこととみられます。邪気を払うと
 いう菖蒲を軒先に吊るしたり、菖蒲の葉を入れた湯に浸かると
 いう風習があります。
 あやめの節句、端午の節句とも言います。

○下向

 熊野詣でを済ませて帰途についている人を指しています。

○日高

 和歌山県にある地名。現在の和歌山県日高郡日高町です。

○かつみ

 (まこも=真菰)の別称とみられています。

○こもくろめ

 不明です。菰にくるまっているような感覚をいうか?と和歌文学
 体系21にはあります。

○承安元年

 1171年の元号。高倉天皇の治世です。院は後白河院。
 西行は54歳です。

○住吉に御幸

 この時の後白河院の熊野御幸は5月29日出発、6月21日に帰着と
 なっています。6月19日頃に住吉大社参詣だと思います。

○後三條院

 後三條院が住吉大社に参詣したのは1073年2月とのことです。
 後三條院は弟71代天皇。1034年出生。1068年、35歳にて即位。
 公正な親政を執り英邁な天皇でしたが1073年、40歳で崩御。
 1072年末に白河天皇に譲位して、崩御の少し前に住吉大社に
 参詣したことになります。

○岩田

 紀伊の国にある地名。和歌山県西牟婁郡上富田町岩田。
 白浜町で紀伊水道に注ぐ富田川の中流に位置します。中辺路経由
 で熊野本宮に詣でる時の途中にあり、水垢離場があったそうです。
 岩田では富田川を指して(岩田川)とも呼ぶようです。

○同行に侍りける上人

 俗名は源季政。醍醐寺理性院に属していた僧です。西行とは若い
 頃からとても親しくしていて、しばしば一緒に各地に赴いていま
 す。西住臨終の時の歌が岩波文庫山家集206ページにあります。

○松がね

 松の根のこと。

○やかみの王子

 八上王子と表記されます。熊野九十九王子のひとつです。
 和歌山県西牟婁郡上富田町にあります。
 現在の八上神社が八上王子跡と言われます。
 九十九王子は熊野参詣道にある王子「社・祠」のことで、実際
 には九十九社にはならないようです。多くあるということの例え
 です。

 尚、「王子」とは、平安時代になって熊野参詣が流行したために、
 皇族、貴顕の熊野詣での案内役をした熊野修験の人たちによって、
 作られ組織された社(祠)を言います。参詣者は各王子に拝し
 ながら熊野本宮を目指しました。

○みすの山風

 和歌山県田辺市に三栖の地名が残っています。
 三栖王子跡もあります。八上王子は三栖王子の次にあります。

○ななこしの嶺

 葛城山近くに七越峠があります。その峠を下れば紀ノ川に出ます。
 新潮日本古典集成山家集では「和泉・河内・紀伊三国の国境に
 ある。」と解説していますから、この峠のことでしょう。
 他方、和歌文学大系21では熊野本宮のすぐ北に位置する七越山の
 ことと解釈しています。
 この歌はおそらくは熊野本宮から七越山を見て詠ったものと解釈
 するほうが自然ですから、私は和歌文学大系の解説の通りと思い
 ます。

○寂蓮

 生年は未詳、没年は1202年。60数歳で没。父は藤原俊成の兄の
 醍醐寺の僧侶俊海。俊成の猶子となります。30歳頃に出家。
 数々の歌合に参加し、また百首歌も多く詠んでいます。御子左家
 の一員として立派な活動をした歌人といえるでしょう。
 新古今集の撰者でしたが完成するまでに没しています。家集に
 寂蓮法師集があります。

○いなびて

 拒絶、否定を表すことば。
 (いな)は否。(び)は接尾語。(て)は助詞。

○別当湛海三位、俊成に

 岩波文庫山家集にたくさんあるミスのひとつです。
 西行の時代は句読点はありませんでした。別当湛海は三位では
 なく俊成が三位ですから、ここは「別当湛海、三位俊成に」と
 なっていなくてはなりません。
 
○別当

 官職の一つで、たくさんの別当職があります。さまざまな職掌に
 おける長官が別当です。
 寺社で言えば、東大寺、興福寺、法隆寺、祇園社、石清水八幡宮
 などの最高責任者を別当といいます。醍醐寺や延暦寺は別当の
 変わりに「座主」という言葉を用いていました。
 熊野別当は熊野三山(三社)を管轄していました。

○別当湛快(べっとうたんかい)

 第18代熊野別当。1099年から1174年まで存命と見られています。
 1159年の平治の乱では、熊野参詣途上の平清盛に助勢しており、
 平治の乱で清盛が勝利した原因の一つでもありました。
 21代熊野別当となる湛快の子の湛増は、初めは平氏の味方でした
 が、後に源氏側について熊野水軍を率いて平氏追討に活躍して
 います。
 西行は熊野修行などを通じて湛快、湛増父子とは面識ができた
 ものと思われます。西行高野山時代に湛増も住坊を持っていた
 とのことですので、湛増とは親しくしていた可能性もあります。

○三熊野

 「み」は美称の接頭語としてではなくて、「三」と理解した方が
 良いと思います。
 熊野本宮大社、熊野早玉大社(新宮)、熊野那智大社の三社を
 言います。

○むしたれいた

 苧麻(からむし)の繊維で作った垂れ衣で、周囲を覆われた板。
 別説として和歌文学大系21では「むし垂衣(苧の繊維で織った布。
 笠から垂らす)を付けた熊野神社の巫女。熊野では巫女のことを
 イタという」とあります。
 
○こほりの垢離

 滝の水も凍りそうな中で身を清める水垢離をすること。
 寒垢離と言われます。

○両人を恋ふ

 二人を同時に恋するということ。今も昔も人のすることは同じ
 ですね。

○ふた川

 固有名詞か普通名詞か不詳です。紀伊の国有田郡と牟婁郡に
 「二川」があるそうです。

○あたりさへて

今いる所がとても寒いということ。寒さが「冴える」こと。
厳しい寒さを言います。

○くろめに宿とらむ

不明です。菰にくるまっているような感覚をいうか?と和歌文学
体系21にはあります。
48ページ夏歌にある「こもくろめ」は宿の別称のようにも思えます
が、この「くろめ」は地名のようにも感じられます。

○やうなくなり

死亡したということ。

○ないり給ひ

和歌文学大系21では、「おはいりなさいますな」としています。
死亡時におけるお悔やみのことば、挨拶語のようにも思います。

○そりといはるる

 当時、熊野では僧侶を指して「そり」とも言っていたようです。
 たくさんの僧侶が参詣したようです。

(01番歌の解釈)

 「かつみを屋根に葺く、熊野詣での人々のための泊り宿を、
 こもくろめというべきだろうよ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)
 
(02番歌の解釈)

 「後三條院の親拝以来絶えていたが、この度の後白河院の御幸を
 待ち迎えられ、住吉明神はどんなに嬉しく思っておいでのことだ
 ろうか。」
           (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

 「熊野詣での途中、岩田の岸で夕涼みをして、あなたと一緒で
 あったらなあと、しきりに思われることですよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(04番歌の解釈)

 「心待ちにしてきた八上王子の桜が咲いた。荒くは吹き
 下ろすな、三栖の山風よ。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

 「立ちのぼるにつれ、月の辺りにはいつしか雲も消えて、七越の
 峯は光を重ねたように月光に浮き立って見える。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)

 「衰えて行く末の世でも、この風流の道のみは変わらないと見た
 夢がなかったならば、この百首のこともよそ事に聞き流して
 しまったであろう。」
         (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(07番歌の解釈)

 「熊野三山は、祈願をすれば必ずかなえられ、むなしく終ると
 いうことはないだろう。むしたれぎぬで周囲を覆われた御神体
 が動座される折の人々の歩みを見ているとそう思うよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(08番歌の解釈)

 「霊験あらたかな熊野詣の効験をば、那智の滝にこもり氷で垢離
 をとって、得ることができるのだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(09番歌の解釈)

 「流れてゆけば、どちらの瀬に落ち着くことになっているのか、
 私の涙を両方に分けるかのような二川の水は。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
            
(10番歌の解釈)

 「み熊野の浜木綿が生えている浦がさびしいように、自分の心中
 もさびしく、浜木綿の葉が重なるように自分も人並みに年だけは
 重ねることだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(11番歌の解釈)

 「霞が一面にたなびいている熊野の海面を見わたすと春になった
 と見えて波の音までものんびりときこえてくる。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(12番歌の解釈)

 「霞までもあわれな気持を重ねているみ熊野の浜の浜ゆふ
 (夕ぐれをかける)の茂っている夕暮のあわれなけしきを思い
 やることだ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

(13番歌の解釈)

「この宿のあるじはなくなって野辺に送られ、なきがらは
荼毘に付されて煙となってしまったのか。柴を炊くことを
ひどく好んだ末に。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
(14番連歌の解釈)

 「思い合っている仲でも背中合わせになってしまったよ。」
                   「前句、静空」

 「君が心変わりしてしまったからね。」
                   「付句、西行」

【くま山嶽】

 どこにある山か不明のままです。夫木抄では紀伊の国にある山と
 しています。海もしくは川の側にある山なのでしょう。
 この歌は後鳥羽院詠歌説もありますが、西行上人集や山家心中集
 にある以上は西行詠と断定できるのではないかと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01 ふもと行く舟人いかに寒からむくま山嶽をおろすあらしに
         (岩波文庫山家集168P雑歌・新潮978番・
         西行上人集・山家心中集・万代集・夫木抄)

○おろすあらしに

 山から吹き降ろしてくる寒く強い風のこと。
 雑歌に部分けされていますが冬の情景を詠ったものです。

(01番歌の解釈)

 「山麓を航行する舟人はどんなに寒かろう。熊山嶽から嵐が
 吹き下ろしている。」
               (和歌文学大系21から抜粋)

【雲井】

 空のこと。雲のあるあたりという意味。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 さみだれの晴間尋ねて郭公雲井につたふ聲聞ゆなり
         (岩波文庫山家集46P夏歌・新潮1468番)

02 秋はただこよひ一夜の名なりけりおなじ雲井に月はすめども
    (岩波文庫山家集71P秋歌・新潮334番・西行上人集・
  山家心中集・御裳濯河歌合・玄玉集・御裳濯集・西行物語)

03 くまもなき月の光にさそはれて幾雲井まで行く心ぞも
          (岩波文庫山家集75P秋歌・新潮327番・
                西行上人集・山家心中集)

04 秋風や天つ雲井をはらふらむ更け行くままに月のさやけき
          (岩波文庫山家集79P秋歌・新潮339番・
                西行上人集・山家心中集)

05 さやかなる鷲の高嶺の雲井より影やはらぐる月よみの森
       (岩波文庫山家集125P羇旅歌・御裳濯河歌合・
              新古今集・玄玉集・西行物語)

06 都にも旅なる月の影をこそおなじ雲井の空に見るらめ
        (岩波文庫山家集125P羇旅歌・新潮1094番)

07 むれ立ちて雲井にたづの聲すなり君が千年や空にみゆらむ
         (岩波文庫山家集142P賀歌・新潮1173番)

08 しらざりき雲井のよそに見し月の影を袂に宿すべしとは
    (岩波文庫山家集168P雑歌・新潮978番・西行上人集・
      山家心中集・御裳濯河歌合・千載集・西行物語)

09 めづらしなあさくら山の雲井よりしたひ出でたるあか星の影
        (岩波文庫山家集224P神祇歌・新潮1523番)

10 秋になればくもゐのかげのさかゆるは月の桂に枝やさすらむ
    (岩波文庫山家集275P補遺・御裳濯河歌合・雲葉集)

○鷲の高嶺

 インドにあって、釈迦が無量寿経、法華経などを説いた山とされて
 います。鷲の形をした山で原名「グリゾラ・クーター(鷲の峰)」
 と呼ばれていたそうです。そこから、霊鷲山(りょうじゅせん)とも
 言われます。
 ブッダ(釈迦)が創始した仏教は、インドでは13世紀にほぼ消滅
 しました。以来、霊鷲山も風化、荒廃して、その所在地さえも
 分からなくなっていました。
 1903年に日本の本願寺の大谷探検隊がジャングルに埋もれていた
 山を発見して、その山を釈迦が説法していた霊鷲山と断定したもの
 だそうです。

 比叡山も鷲峰の別称がありますが、これもインドの霊鷲山から
 名付けたものなのでしょう。また、東山三十六峰の27番「霊鷲山」
 は、インドの霊鷲山をそのまま山号にしています。山の名前から
 でさえも仏教的な背景を感じとることができます。日本という国
 に住む我々は、やはり宗教的な要素が強い国に住んでいると言って
 よいようです。

○月よみの森

 伊勢市中村町にある内宮の別宮。月読宮のこと。外宮にも
 月夜見宮がありますが、この歌は御裳濯河歌合にある歌ですから
 内宮の月読宮の歌だとわかります。

○たづ

 歌のための言葉で「鶴」のことです。

○あさくら山

 九州筑前の国の歌枕。現在の福岡県朝倉市を指すようです。
 朝が暗いという意味で朝倉山の名詞が使われています。

 歌に詠まれる朝倉山とは九州にある地を指す場合と、神楽歌の
 「朝倉」を指す場合とがあります。この歌にある詞書は「神楽歌
 二首」ですので、神楽歌の「朝倉」を念頭に詠われています。
 神楽歌には別に「明星」もあり、この西行歌は「朝倉」よりも
 「明星」に拠っていると言えるでしょう。「明星」は夕方から
 始まる神楽が次第に進行して、実際の明星が出る頃に奏される
 とのことですから、歌意と合致します。
 下は「朝倉」の地名を詠った歌です。

 朝倉や木のまろ殿にわがをれば名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
               (天智天皇 新古今集1687番)

○あか星

 明けの明星を言い、金星のことです。

○月の桂

 日本では月に兎ですが、中国では月の中に大きな桂の樹があると
 信じられているようです。

 (02番歌の解釈)

 「秋月の名声は八月十五夜たった一夜に極まる。月は一年中同じ
 空に出続けているのだけれど。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 (04番歌の解釈)

 「秋風が大空の雲を吹き払ったのであろうか。夜の更けゆくに
 つれ月の光が一層さやかになったことだよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 (05番歌の解釈)

 「明らかな霊鷲山(印度、釈迦の法華経を説いた所)の空の月で
 ある。仏の位地から、光を和らげて月読の森(月読の社のある森)
 の神としてあらわれている。その月読の神の尊さよ。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

 (06番歌の解釈)

 「旅先の伊勢において空を旅行く月を自分が今仰いでいるように、
 都でも同じ雲井の月をながめていることであろう。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 (09番歌の解釈)

 「珍しいな。朝倉山の雲の辺りから神楽歌を慕うように明けの
 明星が出てきた。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 (10番歌の解釈)

 「秋になると雲居のあたりの月の光が美しくさかえるのは、
 月の中の桂の木、その桂の木の紅葉した枝の数がふえるためで
 あろうか。」
          (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

【くもで】

 蜘蛛が四方八方に糸を掛けた状態を指します。

 蜘蛛の足のように放射状に分岐したもの。
 01番歌では橋脚を補強する筋交いのこと。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01 五月雨に水まさるらし宇治橋やくもでにかかる波のしら糸
     (岩波文庫山家集49P夏歌・新潮213番・西行上人集・
         山家心中集・西行上人集追而加書・夫木抄)

02 ささがにのくもでにかけて引く糸やけふ棚機にかささぎの橋
           (岩波文庫山家集57P夏歌・新潮263番)

○宇治橋

 宇治川にかかる橋の一つです。宇治橋北詰に「橋寺」があります。
 ここには宇治橋が始めて架橋された時のことを記した石碑があり
 ます。
 1791年に上部三分の一が発見され、後年に下部が補刻されたもの
 で、「宇治橋断碑」といいます。それによると646年に奈良元興寺
 の僧の「道登」が架橋したという事です。
 その後、何度も流失して、その都度架けかえられました。現在の
 宇治橋は平成八年の完成。長さ155メートル、幅は25メートルあり
 ます。
 宇治橋には橋姫伝説があります。
 宇治橋の橋合戦、宇治川先陣争いでも有名です。

○ささがに

 (細蟹)と表記。形が小蟹に似ている所からの言葉で、「蜘蛛」
 のことです。「蜘蛛手」を導き出すための言葉です。

○棚機

 (たなばた)と読みます。たなばたとは、節句の七月七日の
 イメージが強いかと思いますが、原意としては布を織る道具の
 ことです。
 
 1 織機。また、それで布を織ること。織る人。
 2 はたを織る女性。
 3 織女星。ベガ。
 4 五節句の一つ。七月七日。また、その日の行事。
             (日本語大辞典から抜粋)
 
 とあるように本来は機織り(はたおり)の道具そのもの、そして
 その道具を用いて、はたを織ること自体が棚機(たなばた)でした。
 
○かささぎの橋
 
 スズメ目カラス科の鳥の名称。ハト程度の大きさで腹部が白い。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に移入されて北九州に住み着いたと言わ
 れています。福岡県の県鳥に指定されています。

 陰暦七月七日の牽牛星と織女星が一年に一度逢うという七夕伝説
 があります。この時、天の川にかかる伝説上の橋が「かささぎの橋」
 と言われます。かささぎが翼を連ねて掛け渡すといわれています。
 なお、壬生忠岑の歌によって、御所の階段をも「かささぎの橋」と
 いうこともあったようです。

 「かささぎの渡せる橋の霜の上を夜半に踏み分けことさらにこそ」
                  (壬生忠岑 大和物語)

 日本書紀の推古六年夏四月の条に以下の記述があります。

 「六年夏四月。難波吉士磐金至自新羅、而献鵲二隻。乃俾養於難波杜。
 因以巣枝而産之。」

 これにより、推古朝に朝鮮半島の新羅の国からカササギが献上されて、
 難波社(森之宮神社)に放鳥されたことがわかります。

(01番歌の解釈)

 「五月雨のために水かさがまさったらしい。うち橋の蜘蛛手に
 川の水が当り、白糸をひいたごとくに白波をたてていることで
 ある」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 新潮版では宇治橋は「うち橋」とあります。「うち橋」とは、
 簡単に板をかけ渡し、取りはずせるようにした橋を指すとのこと
 ですが、しかし「うち橋」と表記する用例は無いそうです。 

(02番歌の解釈)

 「蜘蛛が達者に掛けた巣を見ると、蜘蛛も裁縫の上達を願って
 糸を織女に貸し供えたのかと思ってしまう。なぜなら今日は織女
 が鵲の橋を渡る七夕の日なので。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 「蜘蛛が糸を四方八方にひきわたして巣をかけているが、あの糸
 は今日鵲の橋を渡って行く織女に貸す(供える)ための願いの糸
 であろうか。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

雲の林の寺→「雲林院」68号参照

【雲鳥】
 
 山名です。秩父多摩甲斐国立公園にも「雲取山、小雲取山」は
 ありますが、ここでいう「雲鳥」は和歌山県にある「雲取山」を
 言います。標高966メートルの大雲取山は和歌山県の熊野那智大社
 の少し北に位置します。小雲取山(別名は妙法山)は609メートルの
 標高で、雲取山のさらに北にあります。
 熊野本宮大社と熊野那智大社を結ぶ中辺路のルートで、勾配の
 激しい、険しい道が続いていて熊野参詣道の最大の難所と言われ
 ています。
 那智大社から本宮大社までは約35キロメートルほどあるようです。
 通常は二日の道程とのことですが、一日でたどる人たちもいた
 ようです。
 1201年10月の後鳥羽院一行の熊野往還では那智大社から本宮大社
 まで一日で踏破しています。この時に同行した藤原定家も次の
 ように書き残しています。

 「終日険阻を越え心中夢の如し、未だ此の如き事に遇わず、
 雲トリ紫金峰手立てるが如し」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01 雲鳥やしこき山路はさておきてをくちるはらのさびしからぬか
        (岩波文庫山家集166P雑歌・新潮977番・夫木抄)

 新潮版では以下のようになっています。

 雲取や 志古の山路は さておきて 小口が原の さびしからぬか
              (新潮日本古典集成山家集977番)

○しこき山路

 「しこき山路」は新潮版では「志古の山路」と成っています。
 「志古」とは前述した定家の「雲トリ紫金峰」のことだといわれ
 ています。私は「紫金峰」を縮めた言葉ではないかと推測して
 います。
 これと関係あるのかどうか分かりませんが東牟婁郡熊野川町に
 「志古」という地名があります。

 地名とは関係なく、醜いこと、凶悪なことなどを指す「醜=しこ」
 の転化であり、険阻で悪路である道を「しこ」と言い表したのでは
 ないかという思いも私にはあります。この方が自然な気がします。

○をくちるはら

 「小口」とは参詣道にある集落です。
 那智大社から本宮大社のルートをたどる時、この小口という集落
 を通ります。標高は60メートル程度。雲取山の峠から一気に下ると
 あります。西行も、ここで一泊したのかも知れません。

(01番歌の解釈)

 「雲取山の志古の山路がさびしいのは当然のこととしてさて
 おいて、小口が原はさびしくないことがあろうか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)  

 「雲取越をして那智に向かう。志古の山路(小雲取越)が寂しい
 のは当然としても、やっと人里に下りたと思いきや、その谷間に
 開けた小口が原の寂しさは想像を絶していたよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【くらぶ山】

 所在地は不明ですが、一説に鞍馬山のことと見られています。
 片桐陽一氏著作の「歌枕・歌ことば辞典」では、くらぶ山は鞍馬
 山の古名の可能性があると見ており、かつ、歌に詠む場合はくらぶ
 山、実際の日常語としての呼称は鞍馬山ではなかろうか・・・
 としています。
 しかし「くらぶ山」と「鞍馬山」は同一のニュアンスであろうはずは
 なく、別個のものとして解釈する方が良いと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 くらぶ山かこふしば屋のうちまでに心をさめぬところやはある
 (岩波文庫山家集229P聞書集22番・西行上人追而加書・夫木抄)

○かこふしば屋

 柴の木で葺き囲った粗末な小屋のこと。

○心をさめぬ

 気持ちがしっくりとおさまること。とりたてて心配事がなく、
 こころが静かで平安であること。

(01番歌の解釈)

 「暗部山に囲う柴屋の内に至るまで、心を摂めえない所が
 あろうか。
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「くらぶ山(京都府愛宕郡鞍馬山、暗い意をかける)にかこって
 いる柴葺きのさびしい家の内までも心をしづかにおさめない
 ところがあろうか、全ては思をおさめるによいところばかりで
 ある。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎梅のはなにほふ春べは くらぶ山やみに越ゆれど しるくぞありける
                  (紀貫之 古今集39番)

◎秋の夜の月の光しあかければ くらぶの山もこえぬべらなり
                 (在原元方 古今集195番)

【鞍馬の奥】

 鞍馬の奥とは具体的にはどこを指すのか不明です。
 鞍馬よりは奥の花背なども想定できますが、鞍馬という、京域
 よりは奥深い所という風にも解釈できます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

    世をのがれて鞍馬の奧に侍りけるに、かけひの氷りて
    水までこざりけるに、春になるまではかく侍るなりと
    申しけるを聞きてよめる

01 わりなしやこほるかけひの水ゆゑに思ひ捨ててし春の待たるる
       (岩波文庫山家集94P冬歌・新潮571番・西行物語) 

○わりなしや

 理屈に合わないこと。道理に合わないこと。普通ではないこと。

○かけひ

 水を流すための設備です。当時は生活用水も、竹などを割って
 泉や池から水を導いていたものでしょう。
 
(01番歌の解釈)

 「どうにもならないよ。筧の水が凍るものだから、出家して未練
 を捨てたはずの俗世の春がこんなに待ち遠しくなるなんて。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「道理に合わないことだな。春の花のことも思い捨てて鞍馬の
 奥に世を遁れたのに、筧の水が凍って流れて来ないため、春が
 待たれるとは。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

くれ舟→「いぶき・伊吹」41号参照
くれは鳥→「おぼつかな」81号参照
 
【くらら】

 マメ科の多年生植物の名称。根をかじるとクラクラするほど苦い
 ことから「くらら」の名前になったという説があります。
 根は「苦参=くじん」と言って、漢方薬の材料となります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01  荒にける澤田のあぜにくらら生ひて秋待つべくもなきわたりかな
         (岩波文庫山家集55P夏歌・新潮981番・万代集)

○わたり

 集落などの住んでいる場所のこと。
 平面的に広がっている空間を指すことば。

(01番歌の解釈)

 「私の山家の沢田はすっかり荒れてしまって、畦道にただ苦い
 ばかりで食料にならないくららが生い茂っている。このあたり
 では、秋になっても収穫も望めなければ、誰も来そうにない。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「すっかり荒れた沢田の畦にくららが生えて、秋の収穫など期待
 できそうもないこの辺りの景色だなあ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【くれなゐの雪】

 天変地異のサイトによると、赤い雪が降ったという記述は以下の
 ようになります。

 742年(天平14年)
 01月  陸奥黒川郡以北11郡に赤雪降る。平地で2寸。(続日本紀)
 11月  陸奥に丹雪が降る。(吾妻鏡)

 1104年 (長治元年)
 06月  北方で紅雪が降る(翌年か?)。(本朝年代記)

 1105年 (長治二年)
 06月  北方で紅雪が降る。(和漢合運指掌図)

 雪がなぜ赤く見えたのか謎のままです。また1104年か1105年の
 六月の雪とは信じがたく何かの間違いとは思いますが、古書に
 記述がある以上は当時の人々に信じられていたものと思います。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 くれなゐの雪はむかしのことと聞くに花のにほひにみつる春かな
  (岩波文庫山家集249P聞書集183番・西行上人集追而加書・夫木抄)

(01番歌の解釈)

 「紅の雪が降ったのは昔のことと聞くが、花の色つやの中にその
 色を見たこの春だよ。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 「紅の雪が降ったということは昔あったことと聞いているが、
 今、現実に緋ざくらの花が散り敷いて、匂いにみちて、紅の
 雪のごとくに見える春よ。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
   
【くれ竹】

 中国古代の「呉」から伝来した竹です。淡竹(はちく)の一種で、
 葉が細く節が多く高さは10メートルにもなります。
 内裏の清涼殿の東庭に植えられていたものが有名だったそうです。

 竹には節があり、節と節の間を(節=よ)と言います。「呉竹の」
 という言葉は(世)(夜)(伏し)などの言葉を導き出すための枕言葉
 としてあります。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01 くれ竹の今いくよかはおきふしていほりの窓をあけおろすべき
           (岩波文庫山家集193P雑歌・新潮1428番)

02 くれ竹のふししげからぬ世なりせばこの君はとてさし出でなまし
           (岩波文庫山家集192P雑歌・新潮1420番)

03 雪埋むそのの呉竹折れふしてねぐら求むるむら雀かな
           (岩波文庫山家集98P冬歌・新潮535番・
                   西行上人集・玉葉集)

○今いくよかは

 これから何夜か・・・という意味。「かは」は反語で、将来の
 不透明な漠然とした不安みたいなものを表しています。

○おきふして

 朝に起床することと夜に就眠すること。転じて日常であり、
 日常の連続である人生を言います。

○この君

 竹の異名です。それを踏まえたうえで特定の個人を指している
 とも取れる歌です。讃岐に配流された崇徳院を念頭に置いている
 歌とも解釈できます。

○さし出でなまし

 (なまし)は助動詞で「きっと・・・しただろうに」という意味。
 「この君に自分を差し出しただろう」という意味になります。

○折れ伏して

 竹は雪の重みに反発して跳ね返りますので、折れることはそんなに
 ありません。それでも折れたということで豪雪を意味します。

(01番歌の解釈)

 「この無常の世中で遁世生活に踏み切ったとて、これからいくつの
 夜を眠り、いくつの朝に山家の窓を上げ下ろしできるだろうか。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

 「これから先、幾夜起き臥しして、この庵の窓を上げ下ろす
 ことができようぞ。この無常の世に。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

 「もしも呉竹の節の数が多くなく、世の中に憂きことが少ない
 ならば、この君こそは、といってさし出てお仕えするものを。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

 「もしもこの世に憂き折節がこんなになかったなら、この主君に
 こそはと、我が身を進んで差し出しましたものを。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)
(03番歌の解釈)

 「雪が降り積もって埋めてしまった園の呉竹が、雪の重みに堪え
 かねて折れ伏してしまい、群雀は他にねぐらを求めることだよ。」
             (新潮日本古典集成山家集から抜粋)      
               
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎夢かよふ道さへ絶えぬくれたけの伏見の里の雪のしたおれ
                (藤原有家 新古今集673番)

◎くれたけのしげくもものをおもふかなひと夜へだつるふしのつらさに
             (よみびとしらず 新勅撰集941番)

【黒髪山】

 黒髪山の山名は佐賀県や奈良県にもあります。
 歌に詠われる「黒髪山」は万葉集では奈良県の黒髪山とも受け
 止められますが、平安時代中期以降では栃木県日光市の男体山
 を指すようになったようです。
 男体山を間近に見たことがありますが、四月の半ばでも冠雪して
 いました。
 西行が実際にこの山を見たかどうかは資料がありません。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

01 ながむながむ散りなむことを君もおもへ黒髪山に花さきにけり
          (岩波文庫山家集235P聞書集59番・夫木抄) 

○散りなむこと

 死亡するということ。

○花さきにけり

 髪が白くなったということ。年を重ねて白髪が増えたということ。

(01番歌の解釈)

 「よくよく眺めて、この花が散るだろうことをあなたも思って
 下さい。黒髪山に花が白く咲いてしまったよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「くりかえしよくよく眺めて(充分にながめて)やがて、この花の
 散るだろうことを君も考えてみよ。黒髪山(備中叉、下野にあり
 という、佐賀県武雄の近くにも)に花が白く咲いてしまったよ。
 黒髪がいつか白髪になって、老をむかえたのだよ。(死も近いの
 だよ。)」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

【くろがねのつめのつるぎ】

 「くろがね」は鉄のことです。「つるぎ」は剣のこと。
 鉄で爪状に作った器具を剣に例えています。

【くろがねのしもと】

 「しもと」は鞭のこと。鉄で作った鞭をいいます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 くろがねのつめのつるぎのはやきもてかたみに身をもほふるかなしさ
             (岩波文庫山家集251P聞書集203番) 

02   かくて地獄にまかりつきて、地獄の門ひらかむとて、罪人
    を前にすゑて、くろがねのしもとを投げやりて、罪人に
    に対ひて、獄卒爪弾きをしかけて曰く、この地獄いでし
    ことは昨日今日のことなり。出でし折に、又帰り来まじ
    きよしかへすがへす教へき。程なく帰り入りぬること人
    のするにあらず、汝が心の汝を又帰し入るるなり、人を
    怨むべからずと申して、あらき目より涙をこぼして、地
    獄の扉をあくる音、百千の雷の音にすぎたり

  ここぞとてあくるとびらの音ききていかばかりかはをののかるらむ
              (岩波文庫山家集254P聞書集219番)

○はやきもて

 「早きを以って」で、素早く行われること。

○かたみに身をも

 (かたみ)は(片身)のことであり、二つに分けたうちの、どちらか
 の片方を言います。
 このことから、それぞれ・各自という意味を持ち、そして、それ
 ぞれを並列的に比較したときに「互いに」という意味になります。
 「互に=かたみに」は平安時代の女流仮名文に用いられた言葉で、
 漢文訓読体では「たがいに」と読まれていたそうです。

○ほふる

 身体などを切り裂くこと。殺害すること。滅ぼすこと。

○対ひて

 「対ひて」は「対して」のことです。相対することです。
 和歌文学大系21では「対ひて」は「むかひて」と読ませています。

○獄卒

 地獄で閻魔大王に仕えている役人(鬼)のこと。

○爪弾きを

 指鳴らしのことです。親指の腹に中指をあてて強く弾けば大きな
 音がします。不平不満や非難を表しているそうです。

○あらき目

 獄卒自体は容貌怪異なのかどうか分かりませんが、地獄の役人で
 あり、(鬼)とも解釈される以上は、もとから荒く猛々しい目を
 しているのかもしれません。

(01番歌の解釈)

 「手に生えた剣のような鉄の爪の、鋭く素早い動きで、互いに
 身をつかみ裂く悲しさよ。
                (和歌文学大系21から抜粋)

 「鉄の鈎のある剣の鋭くはげしいものでお互いの身を切りきざみ
 あう悲しさよ。」

           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)
(02番歌の解釈)

 「獄卒がここだといって開ける地獄の扉の音を聞いて、罪人は
 どれほど恐れおののかれるだろうか。」
                (和歌文学大系21から抜粋)   

 「ここが地獄だぞと言って開ける扉のはげしいすさまじい音を
 きいて、どんなに、そのおそろしさにおのずからおびえおのの
 かれることであろうか。」
           (渡部保氏著「山家集全注解」から抜粋)

************************************************************