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【内宮】 (山、125)
【苗代水にせきくだせ】 (山、136)
【長月】 (山、145)
【ながのり】 (山、209)
【長柄】 (山、197)
【渚の院】 (山、186)
【なきを送りて】 (山、204)
【なこその關】 (山、280)
【なごろ】 (山、168・231)
【なごろわづらふ】 (山、156・264)
【なせそ】 (山、169)
【那智・奈智】 (山、29・72・119)
【なづさひけりな】 (山、22)
【なづさはりつつ】 (山、191)
【なづまず宿る】 (山、149)
【なでしこ】 (山、52)
【名取川】 (山、130)
【七くさ、ななくさ】 (山、18・242)
【ななこしの嶺】 (山、120)
【難波】 (山、13・50)
【難波江】 (山、51・92)
【難波潟】 (山、73・153)
【七日の数】 (山、209)
【なべてにも似ぬ】 (山、226)
【なべてみな】 (山、177)
【波をかづきて】 (山、120)
【涙川】 (山、151)
【なら】 (山、54)
【奈落が底】 (山、255)
【ならすすさび】 (山、173)
【ならの柴】 (山、97)
【奈良の僧】 (山、131)
【成道】 (山、181)
【なる瀧の川】 (山、151)
【なるを】 (山、56)
花園、双が丘の北に位置し、大内山の南麓にあります。阿弥陀三尊
を本尊とする真言宗御室派の総本山で、御室御所や仁和寺門跡とも
呼ばれます。
第58代光孝天皇の御願寺として886年に起工され、887年に完成
しました。始めての門跡寺院として知られています。
御室という地名は、仁和寺一世の宇多法皇が仁和寺の内に御座所
(室)を建てた事から御室御所と呼ばれ、その後、付近は御室と
いう地名になりました。904年のことです。
以来、仁和寺は代々、皇族が住持してきました。鳥羽天皇と待賢
門院の五男である覚性法親王は7歳の時に仁和寺に入り、1153年に
第五世として住持しています。1156年に保元の乱が起こり、敗れた
崇徳上皇は弟の覚性法親王のいる仁和寺に入りました。その時に
西行は仁和寺に駈けつけています。
この頃の仁和寺の寺地は広く、二里四方の寺地に100ほどの子院が
あったと伝えられています。菩提院はもちろん、法金剛院や遍照
寺も仁和寺の子院でした。
1119年と1153年に火災により大きな打撃を受けています。応仁の乱
では山名氏によって、ほぼ焼き尽くされてしまいした。本格的な
復興は、徳川家光の援助により1646年に成されました。ニ王門
(仁和寺の場合は「仁王門」と表記しません)や五重の塔はこの時の
ものです。
1887年(明治20年)にも大火。1913年(大正2年)に、現在の仁和寺と
なりました。
仁和寺には有名な御室桜があります。お多福桜とも呼ばれています。
(平凡社(京都市の地名」を参考)