もどる


  双林寺・袖の浦・外の濱・そとば・外面・そのきさらぎ・そのみはいかに・そばえて


       其のことわざ→第154号「さること」参照  
       其駒になる→第53号「うし」参照 
       其のをりの御供→第129号「高野 (3)」参照  
       杣の斧→第98号「かため・かたく・かたき」参照
       其力ね→第111号「観音寺・観音寺入道生光」参照
       そぼちぬる→第178号「寂超長門入道・隆信」参照 
       杣木→第165号「死出の山」参照
       杣くたす→第134号「苔」参照 
       杣のおほぢ→第161号「しがらき」参照 
       杣人→第135号「心地」参照  
       その江にあらふ→第107号「唐錦・から絵」参照 
       そむく習の→第53号「うさ」参照 
       そよや→第166号「篠・しの」参照 
       空にはあらじ→第49号「院の少納言の局」参照 
       そらになる→第25号「あらじ」参照 
       そりといはるる→第177号「寂然 (04)」参照  
       そりのはや緒→第139号「越の白雪」参照 
       そり橋→第136号「心地」参照  

【双林寺】

双林寺は西行とは格別にゆかりのあるお寺です。出家してしばらくは
東山のこのお寺あたりに庵を構えてもいました。
円山公園の南、高台寺の北に位置します。
  
桓武天皇の勅願により、最澄が開基として創建したという由緒ある
お寺です。広大な寺域に多数の塔頭がありました。1141年には鳥羽
天皇内親王の「あや御前」が住持し、1196年には土御門天皇の
「静仁親王」が住持していましたので、その盛時が偲ばれます。
そういう時代の双林寺の敷地内か、その付近に西行は庵を結んで
いたということです
  
元弘の乱で戦場となって荒廃し、国阿上人が中興しましたが、応仁の
乱でも焼亡しています。1605年の高台寺造営の時に寺域を削られ、また、
明治3年(1870)及び、円山公園造営のために明治19年(1886)にも
大幅に削られました。現在は小さな本堂一宇を残すのみです。

鹿ケ谷の変で、平家打倒を企てて鬼界が島に流された平康頼は、
許されて都に戻ってから、ここで「宝物集」を書いたそうです。
「西行物語」では、西行はこのお寺で入寂したと書かれています。
西行と頓阿と平康頼の小さな墓があります。
「都名所図絵」によると、西行は宮城野萩を持ち帰って高台寺
辺りに植えていたようです。
                
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     野の邊りの枯れたる草といふことを、双林寺にて
     よみけるに

01 さまざまに花咲きたりと見し野邊の同じ色にも霜がれにけり
           (岩波文庫山家集93P冬歌・新潮506番)

     双輪寺にて、松河に近しといふことを人々のよみけるに

02 衣川みぎはによりてたつ波はきしの松が根あらふなりけり
         (岩波文庫山家集260P聞書集251番・夫木抄)

○松河に近し

「松の木が川に近い」という事を題にして詠み合ったということです。
松河は地名の可能性がないかと、いろんな資料にあたったのですが、
固有名詞にはありません。当時は句読点を表記する制度自体がなくて、
文字は続けて書いていました。
日本古典全書山家集では、「雙林寺にて、松汀に近し…」とあります。

○衣川

岩手県南西部にある土地名及び川名のこと。
陸奥の国の歌枕。(衣)を掛けて詠われます。
衣川は平泉の中尊寺の北側を流れている小流で、北上川に注いでいます。
土地名としては「岩手県胆沢(いさわ)郡衣川村」のことです。
古代、安倍氏の「衣の関」がありました。 
源義経はここの「衣川の館」で藤原泰衡に攻められて敗死しています。

(01番歌の解釈)

「さまざまな色に秋草の花が咲き乱れていると見えた野辺は、
霜にあって同じ色に枯れてしまったことである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(02番歌の解釈)

「衣河の汀に寄って立つ波は、そうか岸の松の根を洗うの
だったよ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

【袖のうら】

出羽の国の歌枕。現在の山形県酒田市の海岸あたりを言うようです。
他の歌人には「袖の浦」という固有の地名を意識して詠んだ歌も
ありますが、西行のこの歌の場合は歌枕としての「袖の浦」とは
直接的な関係はありません。

尚、千葉県に袖ヶ浦市がありますが、歌枕の地としては能因歌枕も
初学和歌抄も出羽の国の「袖の浦」としています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 忍びねのなみだたたふる袖のうらになづまず宿る秋の夜の月
           (岩波文庫山家集149P恋歌・新潮631番)

○忍びね

人に知られないように忍んで出す涙声のこと。

○なづまず

「なずむ」の反語です。
「なづむ」は魅力ある事々に対して執着する、固執する、捉われる
などの意味があります。
行き悩むこと、苦しむこと、こだわる事なども意味しています。
「なづまず宿る」で、何もこだわらずに、何思うことなくごくごく
自然に月は袖の浦にあると解釈できます。

(01番歌の解釈)

「人目を忍んで泣いた私の涙は袖の浦まで染み通っていたが、出羽の
国袖の浦では、秋の夜の月が人目も憚らず、悠々と宿っている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

************************************************************

【そとの濱】

青森県津軽郡に外ヶ浜町があります。
01番歌にある「そとの濱」は地名の外ヶ浜町を指し、陸奥の歌枕です。
陸奥の最奥の青森県津軽半島の東岸にあたります。

「平安和歌歌枕地名索引」では「外の浜」歌は、西行歌一首のみです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 むつのくのおくゆかしくぞ思ほゆるつぼのいしぶみそとの濱風
         (岩波文庫山家集173P雑歌・新潮1011番・
              西行上人集追而加書・夫木抄)

○おくゆかしく

「おくゆかしい」という言葉は現在では「上品で慎ましやかである」
「心根が美しく暖かで深みがある」などの意味で用いられます。
しかし西行の時代は「興味のある事々に心惹かれる、知りたい、
見たい」という意味です。「おく」は陸奥の最果てのことです。

○つぼのいしぶみ

普通は宮城県多賀城市にある多賀城碑のことです。ただし西行の
時代は津軽にあるという碑の事と解釈できます。後述。
     
(01番歌の解釈)

「陸奥の更に奥の方は、行ってよく知りたいと思われることだよ。
壷の碑(いしぶみ)とか、外の浜の浜風とか。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

「陸奥平泉に来て、更に奥があると知って行ってみたくなった。
津軽には壷の碑があるという。外の浜風が吹くという。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(壷の碑)

陸奥の国府であった多賀城にある石碑のことです。高さ2.48メートル、
幅1.03メートル。(宮城県の歴史散歩から抜粋)
しかし(平泉への道 工藤雅樹氏著)や多賀城市のホームページ
などでは、高さ1.96メートル、幅は0.92メートルとなっており、
かなりの違いがあります。(宮城県の歴史散歩)の記述はあるいは
誤りなのかもしれません。

この多賀城碑は江戸時代初期の1658年以前には発見されていて、
当時から歌枕の「壷の碑」に当たるとみなされていたようです。
1689年には芭蕉もここに立ち寄ってこの碑を見ています。

 「(前略)ここに至りて疑ひなき千歳の記念、今眼前に古人の心
 を閲す。行脚の一徳、存命の喜び、羇旅の労を忘れて、涙も落つ
 るばかりなり」
             (芭蕉 おくのほそ道 角川文庫)
 
芭蕉の感動が如実に伝わってくる記述です。

石碑には以下の文面が彫られています。

 「多賀城 京を去ること一千五百里    
      蝦夷の国の界を去ること一百廿里
      常陸の国の界を去ること四百十二里
      下野の国の界を去ること二百七十四里
      靺鞨の国の界を去ること三千里」 

他には「多賀城は神亀元年(724)年に大野東人が置いたもので
あり、天平宝字六年(762)に藤原朝かりが修造した」という
説明文が彫られています。
 
ところがここに一つ大きな問題があります。
「壷の碑」と目されているものは青森県上北郡東北町にもあり
ます。昭和24年(1949)6月に発見されたものです。
ここには現在、日本中央の碑歴史公園が整備されています。
碑文は「日本中央」とのみあります。坂上田村麻呂が弓を用いて
彫ったということが、西行と同時代人の藤原顕昭の「袖中抄」に
記述されているようです。

◎ 石ぶみや津軽の遠にありと聞く えぞの世の中を思い離れぬ
                   (藤原清輔 清輔集)

◎ 思ひこそ千島の奥を隔てねど えぞかよはさぬつぼのいしぶみ
                   (藤原顕昭 夫木抄)

西行の時代の壷の碑は青森県にある石碑を指していると断定して
良いと思います。

西行も壷の碑は多賀城にあるものではなく、青森県にある碑と理解
していたと解釈した上で、「むつのくの・・・」歌は若い時代に
詠んだものであると思います。少なくとも初めての奥州行脚の旅に
立つまでのものであり、都にあって、陸奥に対してのあこがれめいた
気持が詠ませたものでしょう。
「西行」の白州正子氏も同様に解釈しています。
和歌文学大系21では初度の旅の時の平泉での詠歌と解釈しています。
            
************************************************************

【そとば】

墓などに立てる木製の塔をかたどった細長い板のことです。
死者の追善の供養のために経文や戒名などを書きます。
「卒塔婆・卒都婆」などと表記します。

02番歌の場合の「そとば」は行尊僧正の大峯入山を記念しての、
その日付などを書きつけた板を指しています。
この板碑(卒塔婆)は洞川の竜泉寺に伝存しているようです。 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     父のはかなくなりにけるそとばを見て、帰りける人に

01 なき跡をそとばかりみて帰るらむ人の心を思ひこそやれ
          (岩波文庫山家集204P哀傷歌・新潮欠番)

     平等院の名かかれたるそとばに、紅葉の散りかかりけるを
     見て、花より外にとありけむ人ぞかしと、あはれに覚えて
     よみける

02 あはれとも花みし嶺に名をとめて紅葉ぞ今日はともに散りける
    (岩波文庫山家集123P羇旅歌・新潮1114番・西行物語)

○なき跡

「亡き跡」で、墓所のことです。

○平等院

ここでいう平等院は10円玉の意匠にもなっている鳳凰堂で有名な
宇治市の平等院ではありません。
行尊大僧正が滋賀県の三井寺(園城寺)にいた時の自坊である平等院を
指しています。平等院は現在も三井寺にある塔頭の一つで円満院の
別号です。
「平等院」と書かれていることによって平等院を住持していた行尊
大僧正のことだと特定できます。

○花より外にとありけむ人

「人」とは行尊僧正のこと。僧正が「もろともに・・・」と詠った
歌のフレーズを引用して、僧正を偲ぶ気持ちを表しています。

○花みし嶺

紀伊山地の中心部にある山群の一峰を指しています。山群は大峰と
言い、主峰は1915メートルの仏経が岳。その一峰で「大天井岳」の
付近が行尊の「花みし嶺」と伝承されているようです。

(01番歌の解釈)

「御親父が亡くなった跡を卒塔婆に見届けるだけでお帰りに
なられましたが、あなたがどんなに悲しんでいらっしゃるか、
お察しいたします。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「あまりの美しさに感動してしまったあの花を見つけた大峰に、
行尊は名声を残したが、今日はまたその卒塔婆に紅葉が美しく
散りかかって、更に評判を高めるであろう。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(行尊僧正)

1055年から1135年まで存命。81歳没。第67代三条天皇のひ孫にあたり、
源基平の子。12歳で出家。三井寺(園城寺)、天王寺、平等院の
別当職を歴任。1123年、天台座主となるも、数日で辞退。
山伏修験の行者として著名。家集に「行尊大僧正集」があります。

  もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし
               (行尊僧正 百人一首第66番)

西行の02番歌は行尊僧正を偲んで詠われたものです。山家集には
もう一首行尊歌の本歌取りと言える歌があります。

 草の庵をなに露けしと思ひけんもらぬ窟(いはや)もそではぬれけり
                (行尊僧正 金葉集533番)  

 露もらぬ岩屋も袖はぬれけると聞かずばいかにあやしからまし
         (岩波文庫山家集121P羇旅歌・新潮917番・
           西行上人集・山家心中集・西行物語)

【そとも・外面】

「外面=そつおも」の変化した言葉で「そとも」と読みます。
後ろ側、背面、北側などを指すと同時に、外側、家の外、外周
などを意味します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 山里はそとものまくず葉をしげみうら吹きかへす秋を待つかな
         (岩波文庫山家集55P夏歌・新潮252番・
          西行上人集・山家心中集・続後撰集)
 
02 山里の外面の岡の高き木にそぞろがましき秋の蝉かな
         (岩波文庫山家集63P秋歌・新潮295番・
             西行上人集追而加書・夫木抄)

03 ながむれば袖にも露ぞこぼれける外面の小田の秋の夕暮
         (岩波文庫山家集196P秋歌・新潮464番)
 
○まくず

蔓性の植物の「葛」のことです。「ま」は美称の接頭語。
葛の根から抽出した澱粉を「葛粉」と言い、「葛きり」「葛餅」
「葛餡」などの食品、また根は解毒薬にもなり、蔓の繊維は
布にもなります。

○葉をしげみ

葉をおびただしく繁らせている状態。

○うら吹きかへす

葛の葉裏は表側よりはやや白っぽい色です。その葉が秋風に
盛んに裏返っている情景がよく詠まれています。
「秋風に翻る」ことを「飽きて心変わりする」こと「葉裏を見せる」
ことを「恨みする」と掛けて詠まれた歌が多くあります。

○そぞろがましき

なんとなく落ち着かない気持ちを引きずっていること。
そわそわした気持のこと。心が、なんとなく訳もなく浮ついている
ような状態のこと。わけもなく心が引かれる状態のこと。
ほぼ「すずろ」と同義です。
 
(01番歌の解釈)

 「私の山家では、草庵の外に葛の葉が生い茂り、秋風が吹いて
 葉が裏返る日を心待ちにしている。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

「山里の外面の岡の高い木に、そぞろに秋のあわれをかきたてる
かのように、秋蝉の鳴く声が聞こえてくることだ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(03番歌の解釈)

「秋の夕暮、家の外側の田をもの思いにふけりながらながめていると、
田面に露がこぼれるのと同じく、袖にも涙がこぼれたことである。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

【そのきさらぎ】

「きさらぎ=如月」は二月の別称です。
「その」については歌では明示されていませんが、仏教の創始者で
ある釈迦の入寂日を指していると解釈されています。
釈迦の入寂日については諸説あったように思いますが、一般的には
2月15日として涅槃会が行われます。
ちなみに4月8日は釈迦誕生日として灌仏会が行われます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃
     (岩波文庫山家集31P春歌・新潮77番・西行上人集・
      西行心中集・御裳濯河歌合・新古今集・続古今集・
               長秋詠藻・拾玉集・西行物語)

○花の下にて

「花」は桜のこと。「下」はここでは正しくは「した」ですが、
御裳濯歌合などは「もと」となっています。
どちらで読んでも良いものと思います。

○もち月

二月一五夜の月で満月の事。

(01番歌の解釈)

「望むところは花の下で春死にたいということ。釈迦の命日と同じ
二月十五日なら、花は満開、月も満月。往生満願。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

「どうか、春の、桜の花咲く下で死にたいものだ。あの釈迦が
入滅なさった二月十五日頃に。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

(ねがはくは歌について)

普通に考えれば辞世の歌のように解釈できますが、この歌は山家集
の成立時期から考えて西行50歳代の詠歌と断定できます。
だから辞世の歌ではありません。73歳で没するよりもかなり早くに
こんな歌を残したということは、死そのものへの達観が西行その
人に早くから内在していたということなのでしよう。

意図的に装飾性や技巧を排して、情動と言うよりも作者の思いを
平易な言葉で連ねた歌になっています。言葉のリズムも良くて知らず
知らずの内に口ずさめる、親しみやすい歌です。
こういう傾向も西行歌の特性の一つと言いきって良いものと思います。

この歌のように西行は1190年2月16日に河内の国弘川寺で73歳の生涯
を閉じました。没後、慈円、定家、俊成、寂蓮、良経などが惜別の
哀傷歌を詠みました。
西行は意図的に2月15日頃になるように即身成仏を願って、希望通り
に立派に往生したという説もあります。

************************************************************

【そのみはいかに】

西行法師歌集に「述懐の心を」とある歌ですが、不可解な歌である
とも言えます。
渡部保氏は「その身はいかに」としていますが、初句、二句、三句
のどれかに誤植、誤伝があるものと思わせます。
「その」は「其の」なのでしよう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 笠はありそのみはいかになりぬらむあはれなりける人のゆく末
          (岩波文庫山家集283P補遺・西行法師歌集)
           
○笠はあり

菅などで作った笠を思わせます。
何か自然災害などがあって、ある個人が使っていた笠だけが残されて、
人は行方知れずである・・・ということがあったのかも知れません。

(01番歌の解釈)

「笠はあるのだが、そのみは(笠に対する蓑の(み)と人の(身)とを
かけている)どんなになってしまったのか。(笠はあるが蓑はどう
なったのか、人の身はどうなったのか)考えてみれば人の身の行く
末ほどはかないものはないのだ。あわれであった人の行く末よ。
(笠と蓑、縁語、世間無常をよめる歌)」
        (渡部保氏著(西行山家集全注解)から抜粋)

************************************************************

【そばえて】

「戯へて」と書き、(戯れる)(ふざける)(じゃれる)などの意味を
持つ言葉です。(戯ふ=そばふ)のハ行の活用形ですが、室町時代に
なってからは「戯ゆ=そばゆ)とも用いられたようです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01 初花のひらけはじむる梢よりそばえて風のわたるなるかな
          (岩波文庫山家集33P春歌・新潮148番・
                西行上人集・山家心中集)

(01番歌の解釈)

「桜の初花が開き始める梢から、もうすぐ散ることを思わせる
風が戯れるかのごとく吹きわたって行くよ。」
            (新潮日本古典集成山家集から抜粋)

「今年一番に咲いた花が開き始めたその梢から、花に戯れる
ように早くも風が吹き渡って行った。」
                (和歌文学大系21から抜粋)
          
************************************************************