もどる


  辞典 て   天王寺

     てをたてたるよう→第204号「大師」参照
       手かし首かし→第163号「地獄・地獄菩薩」参照
         手づから→第50号「陰陽頭」参照
         てなる氷→第180号「上西門院・前斎院」参照
         手ぬきれ→第99号「籠「かたみ」」参照
         出羽の国→第210号「たぐひなき・たぐひ」参照
         寺つくる→第111号「観音寺・観音寺入道生光」参照
         てりうそ→第136号「心地(02)」参照
      伝奏せさせる事→第208号「高倉院」参照
       転法輪のたけ→第173号「釈迦・世尊・大師の御師」参照
          鴫立庵→第161号「鴫」参照


【天王寺】

摂津の国にある地名。現在の大阪市の行政区の一つです。
歌にある「天王寺へまゐり」というフレーズは、お寺の四天王寺を
指しています。四天王寺は大阪市天王寺区にあります。
もともとは物部氏の本拠地に近く、排仏を主張した物部氏が崇仏
派の蘇我氏や聖徳太子との戦いに敗れたために創建されたお寺とも
言えるでしょう。
四天王寺は593年に創建されたと伝えられていて、国家で建立した
最古のお寺です。西の門は極楽に向かうための東門として、尊崇を
受け続けてきました。
空海や最澄、皇室とのゆかりも深く、どの時代を通しても為政者
だけでなく庶民の信仰も集め続けた日本有数のお寺です。
現在の堂宇は昭和になってからのものです。
天王寺歌は西行に7例があります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

01  天王寺へまゐりけるに、片野など申すわたり過ぎて、見はる
   かされたる所の侍りけるを問ひければ、天の川と申すを聞き
   て、宿からむといひけむこと思ひ出だされてよみける

 あくがれしあまのがはらと聞くからにむかしの波の袖にかかれる
           (岩波文庫山家集107P羇旅歌・新潮欠番・
                  御裳濯河歌合・雲葉集)

02  天王寺にまゐりけるに、雨のふりければ、江口と申す所に
   宿を借りけるに、かさざりければ

 世の中をいとふまでこそかたからめかりのやどりを惜しむ君かな
      (西行歌)(岩波文庫山家集107P羇旅歌・新潮752番・
             西行上人集・新古今集・西行物語)

02−2 家を出づる人とし聞けばかりの宿に心とむなと思ふばかりぞ
   (江口の君歌)(岩波文庫山家集107P羇旅歌・新潮753番・
             西行上人集・新古今集・西行物語) 

03  中納言家成、渚の院したてて、ほどなくこぼたれぬと聞きて、
   天王寺より下向しけるついでに、西住、浄蓮など申す上人
   どもして見けるに、いとあはれにて、各述懷しけるに

 折につけて人の心のかはりつつ世にあるかひもなぎさなりけり
     (岩波文庫山家集187P雑歌・新潮欠番・西行上人集)

○片野

現在の大阪府交野市です。古い時代は河内の国交野郡として、
現在の交野市だけではなく「枚方市」などを含めた広い範囲を
指していました。
詞書で漢字が(片野)であるのは、岩波文庫山家集の校訂者で
ある佐佐木信綱博士が(片)の漢字を当てたからです。底本の
松本柳斎校訂の山家集の当該箇所は「かた野」です。佐佐木博士
が当てた(片)の文字も間違いではありません。
平安時代の交野は桓武天皇時代以来の禁野でした。皇室の狩猟地
ということを意味しています。伊勢物語第82段でも交野が詠まれ
ています。
現在も枚方市に「禁野町」の地名が残されています。
 
○わたり

集落などの、ある特定の空間を表すための言葉です。

○天の川

河内の国の歌枕。生駒山を源流として大阪府枚方市で淀川に注いで
いる川の名です。
交野(かたの)市に(天野が原町)、枚方市に(天之川町)があり、
地名ともなっています。
交野市には、天空の天の川になぞらえての天の川伝説があります。

御裳濯川歌合では二十九番左です。詞書はなくて歌は以下のように
なっています。
 
 かりくれし天の川原と聞くからに昔の波の袖にかかれる

二十九番右は
 
 津の国の難波の春は夢なれやあしのかれはに風わたるなり

俊成の判は、ともに幽玄の体として「持」です。 
 
○宿からむ

一夜の宿を求めたことが過去にあったということではなくて、
詞書では下の業平の歌の「宿からむ」という言葉を思い出して
いるということを意味しています。

 狩暮らしたなばたつめに宿借らむ天の河原に我は来にけり
          (在原業平 伊勢物語82段・古今集418番)

○あくがれし

かねて(あこがれて)いたということですが、ただ漠然とあこが
れていたわけではなくて、この背景には伊勢物語、在原業平、
そして惟喬親王などがはっきりと存在しています。彼らの時代を
偲んで感慨もひとしおだったものでしよう。
詞書と歌は明らかに上記の業平の歌を意識して詠まれたものです。

○むかしの波
 
業平のいた王朝の時代を偲んで・・・ということ。波は時代の
変遷、彼らの人生、そして彼我にあるさまざまな意味の涙をも
表しているもののはずです。

○ 江口と申す所

地名の江口は大阪市東淀川区にあります。淀川のすぐそばに
「江口の君堂」の寂光寺があります。

○かたからめ

困難なことでしょう、難しいことでしょう、という多少の揶揄なり
皮肉なりをこめた言葉になっています。

○かりのやどり

原義的には一時的な宿のことです。
仏教においては現世のことを指しています。
それは承服できるのですが、現世を穢土として、仏教を信じ
奉じなければならないとする感覚は、現在の人々からは共感を
受けないだろうと思います。

○中納言家成

藤原家成。1107年〜1154年。48歳。美福門院の従兄弟で、その
縁故によって鳥羽院の寵臣となっていたことが「台記」や
「愚管抄」に見えます。

家成の子に家明がいます。西行の女子は葉室家の出である冷泉殿の
養女として養育されていました。冷泉殿の妹と家明が結婚して、
西行の娘は家明の邸に移ることになりました。西行の娘はそこで
召使のように扱われていたそうです。
それを知って、西行は娘を出家させたという話が発心集にあるそう
です。それが事実だとすれば西行は家成、家明親子に対して良い
印象は持っていなかったものと思います。

○渚の院したてて

「渚の院」は摂津の国交野にあった惟喬親王の別業で、在原業平
ともゆかりのある所でした。家成が、渚の院を再興したのですが、
すぐに取り壊してしまいました。そのことを批判的に詠っています。

○こぼたれぬ

壊されたということ。破却されたということ。

なお186ページの詞書にある「渚の院」は初めは55代文徳天皇の
離宮、後に惟喬親王の別荘となったものです。現在の大阪府枚方市
渚元にあったといわれます。
               (和歌文学大系21を参考)

○西住

俗名は源季政。醍醐寺理性院に属していた僧です。西行とは若い
頃からとても親しくしていて、しばしば一緒に各地に赴いています。
西住臨終の時の歌が岩波文庫山家集206ページにあります。

○浄蓮

不詳ですが、静蓮法師という説もあります。
静蓮法師とするなら、千載集1015番の作者であり、60ぺージの
「鹿の音や・・・」歌の忍西入道と同一人物の可能性も指摘
されています。(和歌文学大系21を参考)

(01番の詞書の解釈)
 
「天王寺に参詣したとき交野(大阪府枚方市一帯の地。古代の皇
室領の狩猟地。桜の名所)などという渡り(渡しば)を過ぎて、
はるかに見渡す所のあったのを、どこかと聞いたところが、あれ
は天の川というのを聞いて、在原の業平が、「かりくらしたなば
たつめに宿からむ天の川原にわれは来にけり」(古今巻九、伊勢
物語、古今六帖、業平集)という歌をよんだことが思い出されて
詠んだうた」
         (渡部保氏著「西行山家集全注解」から抜粋)

(01歌の解釈)

「ここがあの業平の逍遥した天の川原だと聞いただけで、川波の
ように涙が袖に落ちかかってしまった。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)

(02番歌の解釈)

(俗世を穢土と厭離して、現世の執着を捨て去ることはさすがに
遊女のあなたには難しいでしょうが、一時の雨宿りを恵むこと
までもあなたは惜しむのですか。ちょつと宿を貸して下さい。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(02−2番歌の解釈)

「あなたが出家の方とうかがってお断りしたまでです。現世の
執着であれ、一時の雨宿りであれ、出家のあなたには仮のもの
ならそのままご放念になるのがよろしいかと思ったまでです。」
                 (和歌文学大系21から抜粋)      

(03番歌の解釈)

「その時その時につけて人の心も様々に変わってしまうので、
この世に生きていることも甲斐ないと思わせる渚の院だなあ。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

04    同行に侍りける上人、月の頃天王寺にこもりたりと
     聞きて、いひ遣しける

  いとどいかに西にかたぶく月影を常よりもけに君したふらむ
           (岩波文庫山家集174P雑歌・新潮853番)

05    天王寺へまゐりたりけるに、松に鷺の居たりけるを、
     月の光に見て

  庭よりも鷺居る松のこずゑにぞ雪はつもれる夏のよの月
         (岩波文庫山家集108P羇旅歌・新潮1076番)

06    俊恵天王寺にこもりて、人々具して住吉にまゐり
     歌よみけるに具して

  住よしの松が根あらふ浪のおとを梢にかくる沖つしら波
          (岩波文庫山家集223P神祇歌・新潮1054番・
        西行上人集・山家心中集・続拾遺集・西行物語)

07    天王寺へまゐりて、亀井の水を見てよめる

  あさからぬ契の程ぞくまれぬる亀井の水に影うつしつつ
         (岩波文庫山家集108P羇旅歌・新潮863番)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

○同行に侍りける上人

西住上人のこと。前述。

○常よりもけに

いつもとは異なってということ。いつもとは違って格別に、ことに、
の意味。「け」は「異」の文字を用います。

○俊恵

1113年出生、没年は不詳ですが1191年頃とみられています。
西行より5年早く生まれ、1年は遅く没しています。
父は源俊頼、母は橘敦隆の娘です。早くに出家して東大寺の僧と
なったのですが、脇目もふらずに仏道修行一筋に専念してきた僧侶
ではありません。僧の衣をまとっていたというだけで僧侶らしい
活動はほとんどしなかったようです。自由な世捨て人という感じ
ですが、多くの歌人との幅広い交流がありました。

白川の自邸を「歌林苑」と名付け、そこには藤原清輔・源頼政・
殷富門院大輔など多くの歌人が集って歌会・歌合を開催しました。
歌林苑サロンとして歌壇に大きな影響を与えたともいえます。
「詞花和歌集」以降の勅撰集歌人。
家集に「林葉和歌集」があります。

小倉百人一首第85番に採られています。

 よもすがらもの思ふころは明けやらぬ 閨のひまさへつれなかりけり
       (俊恵法師「千載和歌集」765番・百人一首85番)

○天王寺にこもりて

摂津の国の四天王寺にこもっていたということです。
四天王寺の本尊は救世観世音菩薩ですから観音信仰による堂籠り
をしたということです。
四天王寺は日本最初の官製のお寺です。

○住吉

摂津の国の住吉大社そのもの、または住吉の地をいいます。
航海安全などを祈願する海の神様であり、同時に歌の神様としても
崇敬されていました。

○梢にかくる

松の梢にまで波がかかりくる、海の荒れた情景を言います。当時は
海のすぐ側に住吉大社はありました。

『天王寺こもりのこと』

平安時代中期には観音信仰が高まり、滋賀の石山寺、奈良の長谷寺
などの観音を本尊とするお寺などは、観音の縁日である十八日などに、
籠る風習があったそうです。奈良の長谷観音への参詣は「初瀬詣」
として、京都からも頻繁に行っていたことが「源氏物語」でも描か
れています。また、晦日籠りなども盛んに行われていました。
           「平凡社 (京都市の地名) より抜粋」

山家集では清水寺や広隆寺の堂籠りの時の歌があります。
清水寺本尊は十一面千手観音、広隆寺は阿弥陀如来坐像を本尊と
しています。

○あさからぬ契

仏教との宿縁が深いことを言います。自分を納得させ、そして
勇気付けるための言葉なのでしょう。

○亀井の水
  
摂津の国にある四天王寺境内から湧出する清水を言います。
金堂の龍池より出ている水とのことです。
聖徳太子が自身の姿を映したという伝説があって、この歌は
その伝説をふまえたものです。

余談ですが京都の松尾大社にも「亀井の水」があります。
こちらは元号の「霊亀(715年〜717年)」のもととなりました。

(04番歌の解釈)

「天王寺の月は、いつもよりどんなにか見る者の心までも、西方
浄土へ引きこむように傾いてゆくのでしょうが、あなた自身も
いつもより殊更に月に心を惹かれておいででしようね。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(05番歌の解釈)

「庭も白く見えるが、それ以上に白鷺がとまった松の梢の方が、
夏の月夜なのにまるで雪が積もったように白く見える。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

(06番歌の解釈)

「普段は住吉の松の根を洗うように波が寄せているが、沖に風が
立つと下枝どころか梢にまで白波がかかるのが聞こえる。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

この歌は俊恵の祖父の源経信の下の歌を参考にして詠んでいます。
俊恵に対しての礼儀みたいな気持ちが西行にあったものでしょう。

◎ 沖つ風吹きにけらしな住吉の松の下枝を洗ふ白波
                (源経信 後拾遺集1063番)

(07番歌の解釈)

「仏縁が決して浅くはないことが推察できた。亀井の水を汲むと
そこに私が居るのが影に映ったので。」
                (和歌文学大系21から抜粋)

「西方極楽浄土に真直ぐに対する天王寺にお参りし、亀井の水に
姿をうつして水を汲むことであるが、前世からの深い契りの
ほどが思われるよ。」
            (新潮日本古典集成山家集より抜粋)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー