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          西 行 M L 春 の オ フ 会

                 2006年4月9日 (日)        

                 場所 京都  花園・御室



          仁和寺

               撮影   2005年4月10日 桜はソメイヨシノ


                       
コース

    (往)JR花園駅→上西門院陵→待賢門院陵→長泉寺→仁和寺

    (復)仁和寺→双が丘遊歩道(つれづれの道)→法金剛院→花園駅→京都駅


  
 ○ 上記コースで花園駅から歩いて仁和寺まで行きます。花園駅から
      仁和寺までの距離は往路で1200メータ程度、帰路で1300メータ
      程度です。

      花園駅   10時10分集合、出発。遅れた方はおいかけて
        ↓     きてください。

     上西門院陵 10時20分頃着。中に入れません。道路から見るだけです。
        ↓
     待賢門院陵 10時25分頃着。上西門院陵と同様です。
        ↓
      長泉寺   10時35分頃着。拝観はできず、兼好法師の墓に詣でる
        ↓    だけになりそうです。
   
      仁和寺   11時20分頃着。12時過ぎから食事。15時頃、仁和寺発。  
        ↓    食事までに時間がありますので境内を見て回りましょう。
             
     法金剛院   仁和寺から双が丘東麓の遊歩道(つれづれの道)を
        ↓    通る予定です。双が丘の頂上に上がられる方は二の丘
              がお勧めです。法金剛院着15時40分頃。約30分拝観。

      花園駅  16時25分発か、遅くても16時39分発に乗りたいと思います。
        ↓   京都駅着は16時37分か16時52分になります。 
  
                  花園駅発     京都駅着
                 16時25分  →  16時37分
                 16時39分  →  16時52分

      京都駅  解散。希望者で少しの時間、懇談会をしたいと考えています。
             時間も場所も、どういう風にしたらいいかも未定です。

      花園駅発時刻表
        http://www.jr-odekake.net/eki/time_04/Hanazono260106.htm

上西門院陵 

 五位山東麓にあります。五位山とは景色が良いということで任明天皇が
 847年に五位の位階を授けたことに由来します。通称は内山。

 花園駅から一番近い信号を渡って、道路を北上してすぐにあります。
 花園東陵といいます。
 宮内庁の管轄する皇室の陵墓は入ることが出来ないことがほとんどですし、
 ここでも中にまで入ることはできません。

上西門院 

(じょうさいもんいん)
  
 鳥羽天皇を父、待賢門院を母として1126年に出生。統子(とうこ・むねこ)
 内親王のこと。同腹の兄に崇徳天皇、弟に後白河天皇がいます。1189年没。
 幼少の頃に賀茂斎院となるが、6歳の時に病気のため退下。1145年に母の
 待賢門院が没すると、その遺領を伝領します。
 1158年8月に上西門院の一歳違いの弟の後白河天皇は、にわかに二条天皇
 に譲位して上皇となります。統子内親王は、後白河上皇の准母となり、1159年
 2月に上西門院と名乗ります。それを機にして、平清盛が上西門院の殿上人と
 なり、源頼朝が蔵人となっています。
 同年12月に平治の乱が起こり、三条高倉第にいた後白河上皇と二条天皇、
 そして上西門院は藤原信頼・源義朝の勢力に拘束されています。1160年
 1月に義朝は尾張の内海で殺され、3月には頼朝が伊豆に流されています。
 上西門院は1160年に出家していますが、それは平治の乱と関係があるのかも
 知れません。生涯、独身で過ごしています。楊梅油の小路御所で1189年に
 没しました。西行没の一年前です。
 西行とは極めて親しかったことが山家集からもわかります。

 待賢門院陵 

 上西門院陵から北西に位置する所に待賢門院陵があります。花園西陵と
 
いいます。上西門院陵から歩いて数分のところにあります。
 ここでも中に入って見ることは出来ません。 

 待賢門院 

(たいけんもんいん)

 藤原公実の娘の璋子のこと。1101年から1145年まで存命。白河天皇の猶子。
 鳥羽天皇皇后。崇徳天皇・後白河天皇・上西門院などの母です。ほかには
 三親王、一内親王がありますので、七人の母ということになります。
 幼少から白河天皇の寵愛を受けていた彼女は1117年に入内し翌年、鳥羽天皇
 の中宮となります。そして1119年に崇徳天皇を産んでいます。末っ子の本仁
 親王(仁和寺の覚性法親王)が1129年の生まれですから、ほぼ10年で七人の
 出産ということになります。このうち、崇徳天皇は白河院の子供という風説が
 当時からあって、それが1156年の保元の乱の遠因となります。
 白河院は1129年に崩御しました。それからは、鳥羽院が院政を始めました。
 1134年頃に藤原得子(美福門院)が入内すると、鳥羽院は得子を溺愛します。
 得子は1139年に近衛天皇を産みます。鳥羽院は1141年に崇徳天皇を退位
 させ、まだ幼い近衛天皇を皇位につけました。
 この歴史の流れの中で鳥羽院の皇后、崇徳天皇の母であった待賢門院の
 権威も失墜してしまって、1142年に法金剛院で落飾、出家しました。同時に、
 女房の中納言の局と堀川の局も落飾しています。
 1145年8月22日崩御。法金剛院の三昧堂の下に葬られ、現在は花園西陵と
 呼ばれています。
 待賢門院の女房達は三条高倉第で一年間の喪に服しました。
 
  
待賢門院の女房達

 待賢門院の女房には以下の人達が知られています。

○中納言の局
  
 藤原定実の娘。215Pの「さだのぶ入道=藤原定信=世尊寺定信」の兄弟。
 川田順氏の「西行研究録」では、(藤原俊成が養子に行っていた葉室家の
 ゆかりの人で、俊成の姪にあたる俊子という女性ではなかろうか)と
 あります。年齢的に見て、中納言の局は西行や俊成よりはるかに年配だと
 思えますので、俊成の姪という人ではないでしょう。
 待賢門院没後、ほどなく没したと見られています。
 出家した西行は一品経の勧進をしていますが(実際は待賢門院中納言の局
 による勧進で、西行は折衝の役割りを果たしただけと見るべき。 出家
 直後の西行は自力で勧進をする立場にはなかったはずです。)

○堀川の局

 神祗伯源顕仲の娘。兵衛の局や260Pの忠季の兄弟。西行との贈答歌が
 山家集の中に四首あります。

○兵衛の局

 堀川の局の妹。待賢門院のあとに上西門院に仕えています。西行との
 贈答歌が山家集の中に三首あります。

○帥の局
  
 備後前司季兼の娘といわれます。中納言の局が小倉の庵を出て
 天野に隠棲したときに尋ねて行き、西行と共に粉川や吹上の浜に
 同行したことが135Pに書かれています。
 帥の局は待賢門院のあとに上西門院、その後に建春門院に仕えています。

○加賀の局 

 西行より13歳の年長ということです。母は新肥前と言うことですが、詳し
 くは不明です。千載集に一首採録されています。
 この人は待賢門院の後に近衛院の皇后だった藤原多子に仕えて、大宮の
 女房加賀となります。有馬温泉での贈答歌が135Pに二首あります。ただし、
 西行の歌は他の人の代作としてのものです。
 寂超長門入道の妻、藤原俊成の妻、藤原隆信や藤原定家の母も加賀の局
 と言いますが、年齢的にみて、この美福門院加賀とは別人とみられて
 います。

○紀伊の局  

 紀伊守藤原兼永の娘の朝子のこと。父親の官職名で「紀伊」と呼ばれます。
 藤原通憲(入道信西)の後妻。藤原成範、脩範の母。
 後白河院の乳母。従ニ位になり、紀伊ニ位、院の二位とも呼ばれます。
 1166年1月に没して、船岡山に葬られました。(208P)

○安芸の局
  
 橘俊宗の娘といわれますが、詳しい事はわかりません。
 詞花集、新古今集、千載集に作品があります。
 
○尾張の局

 橘為遠の娘で琵琶の名手といわれます。あとに大原の来迎院の良忍上人に
 帰依して大原に住みましたが、266Pに西行は寂然とともに尾張の尼を訪ねた
 ことが記述されています。
  
○新少将

 源俊頼の娘。新古今集・新拾遺集に作品があります。

 他に数名いたようですが、詳しくはわかりません。

 長泉寺 

 浄土宗。吉田兼好を偲んで、兼好没後330年以上を経て(1688〜1704)
 建てられた寺です。兼好の住んだところは双が丘の西麓説(二の丘)、が
 ありますが、東麓説もあるとのことです。長泉寺建立のときに兼好の墓を
 移して、木像を安置したということです。

 兼好法師 

 生没年不詳。1283年頃から1353年ごろ存命。70歳ほどで没したと
 見られています。没した場所は双が岡ではなくて三重県ということです。
 俗名は卜部兼好(うらべのかねよし)。法名の兼好(けんこう)は俗名を音読
 したもの。
 後二条院の時代に従五位下左兵衛佐のようであったが、1308年の後二条院の
 崩御を機に勤仕を退き、1313年頃には出家しています。動機は不明。
 冷泉為定、為世などから歌を学ぶ。それ以前に続千載集に一首入集。
 足利尊氏の執事である高師直とは特に親しく、武家との関係も深かったようです。
 歌285首、連歌二句を収める「兼好法師家集」がありますが、なによりも
 「徒然草」によって、不朽の名を残しています。

契りおく花とならびの岡のへに あはれ幾世の春をすぐさむ 
                  兼好法師

 上の歌の碑が長泉寺にあります。

 仁和寺 

 双が丘の北に位置し、大内山の南麓にあります。阿弥陀三尊を本尊とする
 真言宗御室派の総本山で、御室御所や仁和寺門跡とも呼ばれます。
 第58代光孝天皇の御願寺として886年に起工され、887年に完成しました。
 始めての門跡寺院として知られています。
 御室という地名は、仁和寺一世の宇多法皇が仁和寺の内に御座所(室)を
 建てた事から御室御所と呼ばれ、その後、付近は御室という地名になりました。
 904年のことです。以来、仁和寺は代々、皇族が住持してきました。鳥羽天皇
 と待賢門院の五男である覚性法親王(
1129年生)は7歳の時に仁和寺に入り、
 1153年に第五世として住持しています。1156年に保元の乱が起こり、敗れた
 崇徳上皇は弟の覚性法親王のいる仁和寺に入りました。その時に西行は
 仁和寺に駈けつけています。
 この頃の仁和寺の寺地は広く、二里四方の寺地に100ほどの子院があったと
 伝えられています。法金剛院や遍照寺も仁和寺の子院でした。
 1119年と1153年に火災により大きな打撃を受けています。応仁の乱では山名
 氏によって、ほぼ焼き尽くされてしまいした。以後の仁和寺は双が岡西麓に
 ごくごく小さな堂宇を建てて、宝燈だけを守っていました。
 元の地に戻っての本格的な復興は、徳川家光の援助により1646年に成され
 ました。家光は21万両の寄進をしています。
 ニ王門(仁和寺の場合は「仁王門」と表記しないという資料もあります。)や
 五重の塔はこの時のものです。
 1887年(明治20年)にも大火。1913年(大正2年)に、現在の仁和寺となりました。

 仁和寺御殿・境内 

○二王門
 徳川家光の寄進によるもので1646年に完成。左右に金剛力士像を配置。
 この山門は築造当時は朱塗りでしたが、現在は朱がはげてしまっています。

○五重塔
 これも家光の援助によるもので国指定の重要文化財。高さは36メータです。


○金堂
 桃山時代の遺構です。内裏の紫宸殿を移築したものです。光孝天皇と
 家光像を安置。

○庭園
池泉廻遊式庭園。内裏を模して左近の桜、右近の橘もあります。

○宝物

火災、その他により壊滅的な打撃を受けた仁和寺ですが、国宝の文化財は
とても多いものです
火急に際しての寺宝を守ろうとする先人たちの執念さえ
感じます。木像なども多いのですが、日本最古の医学書である「医心方
(平安時代)」などもあります。

 仁和寺の御室桜 

 仁和寺には有名な御室桜があります。お多福桜とも呼ばれています。仁和寺の
 ある大内山は固い岩盤でできており、ことに御室桜のあるあたりは樹木の根が
 下に伸張できないということで、樹高も高くはならないそうです。少しはずれれば
 高い杉の木などもあります。 

 「わたしゃ御多福、御室の桜、はなはひくとも人が好く・・・」と歌にも
 歌われたそうです。樹高がとても低くて、かつ、遅く咲くことで有名です。通年、
 ソメイヨシノよりは10日ほど遅く咲き始めます。 
 桜の種類は有明、八重有明が中心です。昔から人々が集う遊園の場で
 ありました。


 もともと仁和寺は桜の御所でした。1700年代の記述では「八重桜多くありて、
 一重は少也。霧が谷、江戸、塩釜、楼間、芝山、曙など多し・・・」と桜の種類
 まで記述されています。

 仁和寺・八十八カ所巡り 

家光の援助により再建を果たした時に作られた霊場です。しかし堂宇などの
荒廃が著しく、1827年に再建したという記録があります。都名所図会は
1780年初版ですから、下の「近年御再建」の記述とは整合しません。1827年
以前にも何かしらの改変が行われたと見るべきかもしれません。

 成就山の麓より一理余のわたりに、四国の霊場遥拝のため八十八カ所を
 近年御再建ある。
 元来それぞれの御本尊、大師御安置あり。しかのみならず、金剛界、胎臓界、
 諸尊の種字、一石に一字を写し、四方の廻りに建てたれたればこの山内は
 両界の曼荼羅界といふ。(略)
 巡拝の山路遠謀絶景。種々に転じ目を歓ばしめ、実に勝地といふべきなり。
                           (都名所図絵、第三巻から引用)


 仁和寺の乾門を出て西に向かったところに第一番札所、最後の八十八番は
 乾門の北にあります。距離は三キロ程度。所要時間は約二時間です。

 仁和寺と西行の歌 


○  遠く修行することありけるに、菩提院の前の斎宮にまゐりたりけるに、
   人々別の歌つかうまつりけるに
                          (106P 離別歌)

さりともと猶あふことを頼むかな死出の山路をこえぬ別は

○  堀川局仁和寺に住み侍りけるに、まゐるべきよし申したりけれども、
   まぎるることありて程へにけり。月の頃まへを過ぎけるを聞きて、
   いひ送られける                (174P 雑歌)
    

西へ行くしるべとたのむ月かげの空だのめこそかひなかりけれ
             堀川の局
    
さし入らで雲路をよきし月影はまたぬ心や空に見えけむ

○  ある人さまかへて仁和寺の奥なる所に住むと聞きて、まかりて尋ね
   ければ、あからさまに京にと聞きて帰りにけり。其のち人つかはして、
   かくなんまゐりたりしと申したる返りごとに
                         (176P 雑歌)

立ちよりて柴の烟のあはれさをいかが思ひし冬の山里

  「かへし」として西行の下の歌があります。

山里に心はふかくすみながら柴の烟の立ち帰りにし

  ある人との贈答歌が、まだ続けてありますが、割愛します。この贈答は
  やはり兵衛の局と見るほうが自然のように思います。 

○  阿闍梨兼堅、世をのがれて高野に住み侍りけり。あからさまに
   仁和寺に出でて帰りもまゐらぬことにて、僧綱になりぬと聞きて、
   いひつかはしける
                         (178P 雑歌)

けさの色やわか紫に染めてける苔の袂を思ひかへして

○  仁和寺の宮にて、道心逐年深といふことをよませ給ひけるに
                         (214P 釈教歌)

浅く出でし心の水やたたふらむすみ行くままにふかくなるかな
     
○  仁和寺の御室にて、山家閑居見雪といふことをよませ給ひけるに
                            (98P 冬歌)

降りつもる雪を友にて春までは日を送るべきみ山べの里

○ 世の中に大事出できて、新院あらぬさまにならせおはしまして御ぐし
   おろして、仁和寺の北院におはしましけるに参りて、けんげんあざり
   出であひたり。月あかくてよみける
                            (181P 雑歌)
   
世の中をそむく便やなからましうき折ふしに君があはずば

 双が丘 

 京都の岡で「神楽岡」「船岡山」「双が岡」はことに風情のある岡として、古来、
 都の人に好まれたようです。
 仁和寺の南に位置して、北から一の岡、二の岡、三の岡と並んでいます。
 一の岡が一番高くて116メータ、順に低くなっています。総距離は約700メータ。
 山頂から山腹部分は6世紀から7世紀にかけての古墳時代後期の古墳が
 たくさんあります。一の岡にある円墳は清原夏野の墓ということが定説ですが、
 太秦の広隆寺を作った秦河勝の墓という説もあります。

いろいろにならびの岡の初紅葉秋の嵯峨野の行き来にぞ見る 
                     後宇多院

鳴きつづく蝉のもろ声ひまもなしならびの岡の夏の日ぐらし  
                     藤原為家


おぼつかなならびの岡のなのみしてひとりすみれの花ぞ露けき 
                  建礼門院右京太夫

 つれづれの道 

 双が岡東麓の遊歩道のことです。「つれづれの道」という名称のようです。
 一の岡から三の岡まで全長は600メータほど。沿道には
アラカシ、ソヨゴ、
 カクレミノ、
イヌサクラ、ハゼ、アオジ、タカノツメ、ヒサカミ、リョウブなどの
 樹木が茂っています。

 法金剛院 


 法金剛院は京都には珍しい律宗寺院です。律宗とは教義上の厳しい戒律を
 実践することに本義をおく宗派で、鑑真和上が苦難の果てに日本にたどり
 ついて伝えたものです。鑑真創建の奈良の唐招提寺を総本山とします。
 法金剛院が律宗になったのは律宗の別格本山、壬生寺を再興した円覚上人
 が1276年に住持してからの事だといわれます。この上人は聖徳太子から
 夢告を受けたといい、融通念仏を広めました。法金剛院も融通念仏の道場
 になりました。上人はたびたび念仏会を催し、嵯峨の清凉寺などでは参集
 する人々が10万人にもなったそうで「十万上人」とも呼ばれています。
 謡曲の「百万」は、円覚上人と清凉寺大念仏会の功徳について書き表した
 ものです。
 
 法金剛院のもともとの創建は右大臣、清原夏野が830年頃に山荘を建てた
 のが始まりといわれています。夏野の死後、山荘はお寺に改められ双丘寺
 と号しました。857年には伽藍も整えられて、元号そのままの天安寺と改称。
 しかし、壮観を誇っていた天安寺も974年に火災が起きてからは、歴史から
 消えました。
 この天安寺の跡地に、待賢門院が法金剛院を建てました。1130年のことです。
 この時代は浄土信仰が盛んな時代で、本尊は阿弥陀仏とし、庭園も浄土思想
 に基づいて造られています。待賢門院は1142年にここで落飾して、1145年に
 三条高倉第にて崩御。遺骸は法金剛院の三昧堂の下に納められました。
 その後の法金剛院は、娘の上西門院が伝領しました。1171年に南御堂、
 1172年には東御堂も建てられています。
 以後、衰退に向かいますが、先述した円覚上人が再興。それも応仁の乱の
 戦火や、地震などにより荒廃に向かいます。
 江戸時代初期に再建され、近世を通じて四宗兼学寺院として続いていました。
 明治になって、山陰線の鉄道施設のために境内の真中で二分され、1968年
 には丸太町通り拡幅のためにも寺域が削られています。その時に本堂も移築
 しています。したがって法金剛院が現在の寺観になったのは、わずか35年ほど

 前のことです。
 本尊の阿弥陀如来は1130年の作。待賢門院も毎日見て過ごしたことでしよう。
 十一面観世音菩薩は1316年造立とありますから、当然に待賢門院時代の
 ものではありません。
 このお寺には待賢門院画像もあるのですが、見せていただけません。

 境内には堀川の局の百人一首第八十番の歌碑があります。

長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ

 法金剛院と西行の歌  

 ○ 寄紅葉懐舊といふことを、法金剛院にてよみけるに
                           (194P 雑歌)

いにしへをこふる涙の色に似て袂にちるは紅葉なりけり

 ○ 十月中の十日頃、法金剛院の紅葉見けるに、上西門院おはしますよし
    聞きて、待賢門院の御時おもひ出でられて、兵衛殿の局にさしおか
    せける
                           (194P 雑歌)

紅葉見て君がたもとやしぐるらむ昔の秋の色をしたひて

 ○ 待賢門院かくれさせおはしましにける御跡に、人々、又の年の御はて
   までさぶらはれけるに、南おもての花ちりける頃、堀川の女房のもと
   へ申し送りける
                          (201P 哀傷歌)

尋ぬとも風のつてにもきかじかし花と散りにし君が行方を
 
  
堀川の局と兵衛の局

 二人ともに生没年不詳です。村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘と
 いわれています。姉が堀河、妹が兵衛です。二人の年齢差は不明ですが、
 ともに待賢門院璋子(鳥羽天皇皇后)に仕えました。堀川はそれ以前に、白河
 天皇の令子内親王に仕えて、前斎院六条と称していました。
 1145年に待賢門院が死亡すると、堀川は落飾出家、一年間の喪に服したあと
 に、仁和寺などで過ごしていた事が山家集からも分かります。
 兵衛は待賢門院のあとに上西門院に仕えました。1160年、上西門院の落飾
 に伴い出家したという説があります。それから20年以上は生存していたと
 考えられています。
 上西門院は1189年の死亡ですが、兵衛はそれより数年早く1184年頃に
 亡くなったようです。
 
 窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で兵衛は80歳は超えていたのではないか
 と推定しています。ちなみに、川田順氏「西行研究録」では、西行と堀川の
 局の年齢差は約20歳としています。「西行の研究」の中の森本元子氏説では
 西行と堀川は39歳の差があります。それから勘案して兵衛は西行より年長で
 あることは確実です。
 いずれにしても西行の生まれた1118年には兵衛の局は14.5歳だったはずです。
 1124年の白河殿の花見に兵衛も同行していますので、それまでには待賢門院
 の女房となったものでしょう。
 二人ともに歌には秀でていて、西行とはとても親しかった女性歌人であったと
 いえます。
              
 
崇徳天皇(1119〜1164)

第74代鳥羽天皇と藤原公実の娘の待賢門院璋子を父母として、1119年5月
18日に出生し、1123年1月に第75代天皇となりました。1141年12月まで在位
しました。
白河院の寵愛を受けていた藤原璋子が鳥羽天皇の中宮になったのは1118年
です。翌年、崇徳天皇は生まれましたが、当時から崇徳天皇は白河院の子供
という風説があったそうです。鳥羽天皇も、崇徳天皇は白河院の子供と認識して
いたらしくて、「叔父子」として生涯にわたって嫌っていたことがわかります。
実際には、白河天皇は鳥羽天皇の祖父にあたります。
このことが保元の乱の遠因です。
1129年、白河院崩御。以後10年以上も崇徳天皇が天皇位にとどまっていたのは、
鳥羽天皇に待賢門院以外の女性との子供がいなかったからでしょう。
1139年、美福門院との間に近衛天皇が生まれると、1141年、鳥羽院は崇徳天皇
を強制的に退位させ、近衛天皇を第76代天皇とします。この近衛天皇が1155年
に早世すると、なんと崇徳院の弟の後白河天皇が即位して、皇太子は二条天皇
となります。これによって崇徳院の血筋の者が天皇になる可能性が完全になくなり、
崇徳院の不満は高まります。この時、藤原忠通は崇徳院の血筋が皇位につくこと
に反対し、後白河即位を画策しました。また後白河天皇の乳母だった紀伊の二位
の局も、そして二位の局の夫である藤原信西も後白河即位に向かって暗躍した
ようです。二位の局は終生、西行と親しかった女性です。
1156年7月2日鳥羽院崩御。崇徳院は鳥羽院の遺体との対面も拒絶されていました。
そして同月10日からの保元の乱にと続きます。
白河北殿に拠っていた崇徳院は敗れて12日以降に仁和寺の覚性法親王を頼って
仁和寺に入ります。同月23日に讃岐に配流。1164年8月に讃岐にて崩御しました。

 
崇徳院と西行の関係

崇徳院は西行とは、もっとも親しい天皇でした。もちろん身分の差があります
から、日常的に対等な交流があったわけではありません。
崇徳院は和歌に秀でていました。久安百首などが知られますが、藤原顕輔に
詞花集の撰集を命じたのも崇徳院です。
この詞花集に西行の歌は一首のみ、読人知らずとして撰入しています。

身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ

崇徳院の歌のサロンに西行も関係していたのは183Pの次の贈答歌からも明白です。

最上川つなでひくともいな舟のしばしがほどはいかりおろさむ
                        崇徳院

つよくひく綱手と見せよもがみ川その稲舟のいかりをさめて   

二人の間には、この種の歌を贈りあえる関係性が構築されていました。
崇徳院は待賢門院所生の長子として、西行にも、ある思い入れがあったもので
しょう。だからこそ、身分の差を越えて保元の乱後に仁和寺にも駆けつけまし
たし、また、讃岐にいた崇徳院とも「女房」を介して歌の贈答をしています。
崇徳院が1164年に讃岐で没してから数年後、西行は白峰の墓所に詣でています。
1168年秋のことだとみられています。下はその時の歌です。

よしや君昔の玉の床とてもかからむ後は何にかはせむ  
                        
尚、134Pの「宮の法印」とは、崇徳院の第二皇子にあたる元性法印のことです。
この法印とも親しく交流していたのは西行らしいと思います。

 
保元の乱 1156年

保元の乱とは藤原摂関政治の終わりを告げる象徴的な出来事でした。
表面的には崇徳院と後白河天皇の皇位をかけての相克、そして藤原忠通と藤原
頼長の兄弟の権力争いといえます。ですがこの事変によって一挙に時代は動いて、
貴族の王朝の時代から武家政権の樹立に向かって進みます。続く平治の乱で平
清盛が実権を握って、この国の政治を欲しいままにしました。源平の争乱を経て、
鎌倉幕府成立は1192年のことです。保元の乱から36年後のことです。
以後、江戸時代まで武家政権が続くことになります。
貴族政治は終焉し、天皇の王権も弱体化していきます。
                                    
以上                 
                     2006年3月28日入力
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