<地である。付近には葛城古道が麓づたいに通って
いて、それは点在するいくつかの古刹を巡っている。
それらの古刹は天皇家が王権を確立するよりもはる
かに上代からのものが多く、純朴で、俗化することを
自ら拒んで、凛然とした気配をあたりにみなぎらせて
いる。
 夕刻。見渡す金剛山の山容は、紫紺のうちに沈ん
でいる。刻々と深まる色調。それは山水画の世界で
あり、どっしりとして静かなトーンに満ちている。
荘厳で幽玄な世界である。金剛山は別名を高天山
(たかまやま)といい、伝説上の高天原は一説には
この山にあるともいわれている。その古事やあまた
の古い社が指し示すように、俗化することなく永い
時間を堆積させた歴史性と、それゆえに持つ霊性
を感じさせる山である。歴史と、歴史的風土の持つ
特殊性が、形容しがたいある異様な息吹を放って
いるようでもあり、それは私の魂をも引きずりこん
でしまいそうなほどにノスタルジックな魅力に満ちた
ものである。

 風の森を風が吹いていく。風は意のままに走り
来て、とどまることなく走りすぎていく。時にやさしげ
に、あるいは反転してやくざな表情で駆け抜けて
いくなかに、その秘める悲哀のようなものを、そして
また矜持のようなものを直截に伝えてくる。ただ
一片の虚飾の被膜で自身を包むこともせずに、
時間の持つ法則性を超越した線上で永劫をさす
らう旅人。つまるところ風は風でしかないが、極め
て透明でありながら、その表情、あるいは紋様と
呼べるものはなんという多彩なものなのだろう。
何かと同化したりすることもなく、ただ吹いていく
より他にないという大いなる黙契のなかで、豊かに
かなでる風のシンフォニー。
 私は夕刻の風の森で風に吹かれながら、しばし
の時をとどめていた。私は今まで風を見たことが
なかった。が、やっと風の声を聞けたような気が
する。
 人が時間の大河に沿って歳を重ねて行くという
ことは、おそらくは風化としての意味も持つのだろ
う。聴覚を全て失した21歳の時から、私の中では
時間は止まったままである。私の肉体は確実に
時間の支配のうちにありながら、私という個体の
心理の深層にあるものは、時間に比例した歩みを
続けていないのだ。停滞、もしくは無化。日常的に
恥辱を味わう生活の中で、明白に欠落したものの
放つ痛痒感が、私の奥深いところから立ち上り、
私をさいなむ。
 それでも、私もまた、今を駆け抜けていく一陣の
風である。俯仰天地に愧じるが、「我、いかなる時
も主たらむ」という風の覚悟を、風が私に伝えて
くるここは「風の森」という名で呼ばれている。
                     (1988/09)

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