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桜花断章 1


              (花の寺幻想)

 桜の盛りの一日に勝持寺を訪ねた。
 勝持寺は京都市西京区大原野にあって、正しくは
「小塩山大原院勝持寺」といい、またの名を「花の寺」
ともいう。同寺が花の寺として洛中に喧伝されたのは、
貞治年間に佐々木道誉が観桜の宴を催してからであ
るらしい。この、ばさら大名観桜のくだりは太平記に詳
しい。それより以前、源平に代表される武家集団が
勢力を強めはじめた平安末期に『北面の武士、佐藤
義清は当寺で出家、剃髪して名を西行と改めた。
西行は一株の桜を植えて愛でていたので、その桜を
人々は西行桜といい、勝持寺を花の寺と呼ぶように
なったという。』
         (『』内は勝持寺発行の栞より引用)
 しかし今から八百年も昔のことであり、信用するに
足る第一級の資料も残存していないらしく、西行は
勝持寺で落飾したかどうか、その真相は不明のままで
あるらしい。また、西行手植えの桜は一株だったのか
(西行桜、堂前の左右にあり。「都名所図会」)と古書
にみえる。これもすでに真偽はつまびらかではない。
 ともあれ現在もやはり花の寺で、境内には三百本
以上にも及ぶという山桜があり、花の盛りの頃には
全山が花また花のすばらしい景観を見せる。堂前には
「西行桜」の呼称を受け継いだ若い枝垂れ桜もある。
正徳元年(1711)に出版された「山州名跡志」巻の十に
(西行桜、ただし、この樹今は亡し)とあるので、現在の
西行桜は呼称のみを受け継いだ何代目かの西行桜
なのだろう。公式には三代目とのことであるが・・・。

 西行の個人和歌集である「山家集」や八番目の勅撰
の新古今和歌集に収録されている歌を読むと、西行は
生得的といってよい卓越した感性の持ち主であることが
実感できる。その歌風はいたずらに技巧に走る事は
なく、むしろ芸術的虚構性などを排する位置での、感情
の自然な朗詠である。対象の具有する特殊な態様に触
れて、西行その人自身に生起する情動を極めて直裁に
披瀝する傾向の歌風である。次の二つの歌にも、それが
如実に見てとれる。

身をわけて 見ぬこずゑなく つくさばや
  よろずの山の 花の盛りを
ねがはくは 花の下にて 春死なん
     そのきさらぎの 望月のころ

ーそのきさらぎの望月のころーという語句については、
釈迦に関する歌としての解説が必要なのだが、しかし
何の知識がなくともスムーズに読める歌である。
 藤原定家は、いみじくも自身を「歌作り」と卑下し、西行
に「歌詠み」の尊称を与えたというが、先述の二つの歌
だけでもそれは充分にうなずける事である。三十一文字
の作品の中に西行固有の叙情が濃密な展開をみせて
おり、しかも言葉の流れに無駄がない。よどみがない。
乱れがない。

 強くもなく弱くもない春のやわらかな陽射しを浴びて、
私は勝持寺の満開の桜花のただなかにいた。今を盛り
と咲ききっている桜花は、それ自体が確かな生命体と
して、むせかえりそうなほどに匂いたっている。あたり
一面の世界に、晴れやかで、のどかで、そして少しばか
り淫蕩な気配がみなぎっていて、時間は止まっている
ようにさえ感じる。あるいは、爛漫の桜の樹の根方
には、夥しい時間の堆積する茫洋とした海が、ひそ
かに広がっているのかもしれない。いや、この桜の
かもし出す世界その物が、一つの海であるのかも
しれない。もしもそのように知覚するなら、西行に比肩
しうる才質を持たない凡庸な私は、この一春に、桜の
世界に酔ったままにひとり静かにこの海に沈みこん
でしまいたいと思う。何ひとつ残すこともせずに・・・・。

 「ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!『梶井
基次郎「桜の樹の下には」』そのように思わせるほどに、
桜の絢爛とした妖しさは人を狂わせる。この狂おしい
ひとときに、

 ほとけには 桜の花を たてまつれ
   我が後の世を 人とぶらはば

私もまた、この歌を詠んだ西行の心境に著しく親しい
ものを覚えている。

 若年の出家・遁世、歌を詠みながらの漂泊が西行
にとっての必然であり、それが当為の現象であったの
なら、それは彼をして時間そのものへの相対、あるい
は反逆ではなかったのか?。自身の肉体さえをも貫い
て流れて行く時間の上を漂泊する旅人として、明晰な
意識を持ちながら、同時に狂おしい海の深みにいた
のだろう。
 私も四十年という時間に犯されたままに、私だけの海
で漂ってはいるのだが、しかし、ああ・・・。           
               「八十八年四月」
           

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