もどる
菩薩のような顔をして
風が吹いてきた
はじめは
分かるか分からないかというほどの
微風だった
風の元をたどったら
永く疎遠にしたままの
妹に行きついた
妹の先は
同じ血が流れている私の血族だった
妹 四十八歳
約束されていた その 約束のままに
病床で 死の淵を覗いている
ATLウィルスは
成人T細胞白血病を起こすウィルスだ
信じられないことだが
感染してから平均五十年で発症するという
通常では ほとんど感染することはなく
感染したとしても
発症は千人以上に一人程度の
非常にまれな感染症だ
なんということだろう
そのウィルスは
生後二年ほどまでの妹に取りつき
四十八歳の
ひとつの命を食い尽くそうとしている
悪性リンパ腫
それが病理学としての妹の症名だ
発症してから
一進一退を繰り返しながら
医師の診立てを はるかに超えて
一年ほどを
なんとか永らえてはいるが
全身が腫瘍まみれの
本人はそれと知らない病体を
ついの住処になってしまった病院の
ベッドに横たえている
すでに頭髪もなく
歯の半分ほども抜け落ちてはいるが
ひところの 苦しそうな顔ではない
薄皮一枚の命をまとっただけでありながら
すべてを包み込み
すべてを許しているような
温和で 慈愛に満ちた
菩薩のような顔をして
静かな笑みをこぼしている
生地でともに過した期間は短い
人としての密度の濃い交流もないままに
四十八年に接してきたけれど
兄 妹という血のもたらす風の
まもなく 来る
ひとつの消滅が
私の今に
とても痛い
(1999.10.10)