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   西 行 M L 秋 の オ フ 会

        2008年11月29日 (土)

           京都・嵯峨野  

         大覚寺・天龍寺・清涼寺など

    

                  大覚寺の紅葉

2008年西行ML関西地区秋のオフ会

日時      11月29日(土)

集合場所    JR嵯峨嵐山駅改札口

集合時間    嵯峨嵐山駅、午前11時頃
        もしくは「味生」前で11時20分から30分頃

行き先     嵯峨野です。大覚寺・天竜寺などを予定。

会費       なし
        (拝観料・交通費・食事代は各自ご負担願います)

昼食      「味生=みしょう」 にて11時30分から
              予約しています。
        http://r.gnavi.co.jp/k163000/menu1.htm

        点心弁当(2000円)をテーブル席にしています。
            
            「味生」は渡月橋を渡って、そのまま天竜寺沿いの
             道をまっすぐに北上。嵯峨野線の線路を越えてから
             丸太町通りの交差点手前、向かって西側にある小さな店です。

解散時間    未定。午後五時頃?

大覚寺

真言宗大覚寺派の総本山です。仁和寺と並び第一級の門跡寺院。

第50代桓武天皇の子で52代嵯峨天皇の皇子時代に山荘として

造営され、後に離宮として利用されたために嵯峨御所ともいわれ

ました。嵯峨天皇は834年から842年まで檀林皇后(橘嘉智子)と、

ここで過ごしています。

後にお寺となり、後宇多法皇はここで院政を行っています。

また、1392年の南北朝の講和はこの寺で行われました。

庭湖としての大沢の池があります。庭は百済川成の作庭と伝えられ、

境内北方に「名古曽の滝」跡があります。観月の名所です。

大沢の池の島に咲いていた菊は嵯峨菊と呼ばれていて、この花をもとに

しての生け花の嵯峨御流が生まれました。

(名古曽の滝の歌)

あせにけるいまだにかかる滝つ瀬の
        早くぞ人は見るべかりける
              (赤染衛門 後拾遺集・源氏物語)

滝の音は絶えて久しく成りぬれど
         名こそ流れてなほ聞えけれ
               (藤原公任 拾遺集)

(大覚寺に関する西行歌)

   大覚寺の、金岡がたてたる石を見て

 庭の石にめたつる人もなからまし
           かどあるさまにたてしおか
       
(岩波文庫山家集195P雑歌・新潮1424番)

瀧のわたりの木立、あらぬことになりて、松ばかりなみ立ちたる

けるを見て

ながれみし岸の木立もあせはてて
           松のみこそは昔なるらめ

(岩波文庫山家集195P雑歌・新潮1425番)

大覚寺の滝殿の石ども、閑院にうつされて跡も無くなりたりと

聞きて、見にまかりたりけるに、赤染が、今だにかかるとよみ

けん折思ひ出でられて、あはれとおもほえければよみける

今だにもかかりといひし滝つせの
            その折までは昔なりけむ 
           (岩波文庫山家集195P雑歌・新潮1048番)

  やどしもつ月の光の大澤は
            いかにいづこもひろ澤の池
           (岩波文庫山家集72P秋歌・新潮321番) 

清涼寺「嵯峨釈迦堂」

大覚寺の少し西に位置していて浄土宗のお寺です。

通称は「嵯峨釈迦堂」といいます。 釈迦如来を本尊としています。

お寺の起源は源氏物語の光源氏のモデルとみなされている「源融」の山荘

「棲霞観」です。融の没後に「棲霞寺」と号しました。棲霞寺の釈迦堂を

清涼寺と号していましたが、「清涼寺」が融通念仏の大道場となって寺勢が

高まったために、棲霞寺から清涼寺と改名いたしました。

毎年、四月中旬に「嵯峨大念仏狂言」が行われます。

天龍寺

嵯峨天皇皇后の橘嘉智子の「壇林寺」、ついで、後嵯峨法皇の「亀山殿」

の跡地に建てられた臨済宗天竜寺派総本山です。

この亀山殿は後醍醐天皇が伝領していたのですが、後醍醐天皇と対立して

いた足利尊氏が後醍醐天皇没後に天皇の菩提を弔うために建立しました。

一応の完成は1339年。上棟式は1345年8月です。

建立費用の多くは幕府による対明貿易の利潤が当てられました。この時の

遣明船が「天龍寺船」で、貿易の形を「勘合貿易」といいます。

天竜寺は応仁の乱や蛤御門の変などによって焼失しています。これまで、

八回もの焼亡があり、そのつど再建されていて、現在の堂宇は明治になって

からのものです。

法堂の天井には加山又造画伯の「八方にらみの龍」図があります。

平成11年「1999年」に描かれたものです。

嵯峨野の西行歌一覧

「大井川」

大井河をぐらの山の子規ゐせぎに声のとまらましかば
          (岩波文庫山家集45P夏歌・新潮191番)

大井河ゐせぎによどむ水の色に秋ふかくなるほどぞ知らるる
          (岩波文庫山家集89P秋歌・新潮484番)

大井川君が名残のしたはれて井堰の波のそでにかかれる
             (岩波文庫山家集268P残集24番)

よもすがら嵐の山は風さえて大井のよどに氷をぞしく
         (岩波文庫山家集102P冬歌・新潮561番)
            西行上人集・山家心中集・夫木抄)
 

つつめども人しる恋や大井川ゐせぎのひまをくぐる白波
         (岩波文庫山家集158P恋歌・新潮1268番)

「小倉山」

をぐら山麓に秋の色はあれや梢のにしき風にたたれて
          (岩波文庫山家集89P秋歌・新潮485番)

をぐら山ふもとをこむる秋霧にたちもらさるるさを鹿の聲
        (岩波文庫山家集276P補遺・西行上人集)
                  宮河歌合・新勅撰集)

小倉山ふもとの里に木葉ちれば梢にはるる月を見るかな
    (岩波文庫山家集95P冬歌・西行上人集・宮河歌合)
                  新古今集・西行物語)

わがものと秋の梢を思ふかな小倉の里に家ゐせしより
          (岩波文庫山家集89P秋歌・新潮486番・
              西行上人集追而加書・夫木抄)

躑躅咲く山の岩かげ夕ばえてをぐらはよその名のみなりけり
          (岩波文庫山家集40P春歌・新潮164番・
              西行上人集追而加書・夫木抄)

限あればいかがは色もまさるべきをあかずしぐるゝ小倉山かな
      (岩波文庫山家集88P秋歌・新潮478番・新勅撰集)

をじか鳴く小倉の山の裾ちかみただひとりすむ我が心かな
           (岩波文庫山家集68P秋歌・新潮436番)

大井河をぐらの山の子規ゐせぎに聲のとまらましかば
         (岩波文庫山家集45P夏歌・新潮191番)

「その他の歌」

山おろす嵐の音のはげしきをいつならひける君がすみかぞ
         (岩波文庫山家集135P羇旅歌・新潮746番・
            西行上人集・山家心中集・西行物語)

いつか又めぐり逢ふべき法の輪の嵐の山を君しいでなば
             (岩波文庫山家集268P残集・夫木抄)

やどしもつ月の光の大澤はいかにいづこもひろ澤の池
           (岩波文庫山家集72P秋歌・新潮321番)

おぼつかな春の日数のふるままに嵯峨野の雪は消えやしぬらむ
          (岩波文庫山家集15P春歌・新潮1066番)

萬代のためしにひかむ亀山の裾野の原にしげる小松を
     (岩波文庫山家集142P賀歌・新潮1179番・夫木抄)

此里やさがのみかりの跡ならむ野山もはてはあせかはりけり
         (岩波文庫山家集195P雑歌・新潮1423番)

誰とてもとまるべきかはあだし野の草の葉ごとにすがる白露
         (岩波文庫山家集213P哀傷歌・新古今集)

廣澤のみぎはにさけるかきつばたいく昔をかへだて来つらむ
           (岩波文庫山家集273P補遺・夫木抄)

地名入りの歌のみの紹介です。
連歌と詞書及び近隣の保津、清滝、松尾歌は除外しています。

           以上    文責  阿部
                 2008年11月28日入力