備忘録として
村山豊作品集「痴呆」に触れて
いささか、などではなく、かなり旧聞に属することなのだが、
詩誌「点燈鬼」同人の村山豊氏が一年以上も前に作品集を
上梓した。その作品集について、若干述べてみたい。
「痴呆」と題された、彼の第一詩集であるこの作品集は、
かなりの好評を博した。朝日新聞二〇〇〇年九月二十七
日版に
安水稔和氏が「生きていく細部あらわに、勁く優しい詩集で
ある」と評している。
また、読売新聞二〇〇〇年八月十七日付夕刊では、
以倉絋平氏が異例とも言える全面のスペースを用いて、集中
の何作かを丁寧に引用して、詳しく紹介されている。そして、
人間の生存そのものにつながる根っこの部分での共感を示
されている。「散文的現実の背後から不思議と詩が立ちの
ぼってくる。」という記述は私にはうれしい指摘であった。
新聞では他に琉球新報でも紹介された。その他、いくつか
の同人誌に好意的に取り上げられたとも聞く。また「痴呆」は
今年度の宇治市主催の「紫式部市民文化賞」を受賞した。
栄誉である。一同人、一読者として、そして親しい友人として
非常な喜びである。内輪ぼめの非難はあるとしても、心より
祝したい。
少し昔話をしたい。
私達の詩団の詩誌「点燈鬼」の前身である「AKANTARE」
一号が発刊されたのは一九七七年七月のことである。爾来、
ほぼ四半世紀が過ぎることになる。十三名の若い書き手が
集って発足したこの創刊号も今では薄汚れ、少し黄色く変色
している。そこに歴史を想う。
村山氏は四号からの同人。私は十二号からの同人である。
私が加入してからでも二十年が過ぎた。この間、私は彼から
一方ならぬ薫陶を受けた。ことに、耳の全く聞こえない私に
対して、彼は月例合評会の席で当初から自発的に要約筆記
を担当してくれている。それが二十年以上続いていることに
なる。それだけではない。数限りない場面で彼の好意を受け
てきた。今ではやめてしまったが、他の同人とのコミニュー
ケート不足を案じて、私のために「ノート」を作ってくれたりした
のだ。そのノートでは若い頃の互いの詩観が表わされている
のだが、それもまた今となっては遠いかなたの思い出である。
でも私に示してくれた彼の好意は単純な義務感や義侠心か
らではないことは明白だ。とてもあやふやな言葉なのだが、彼
の人間性というより他に無いと思う。つまりはそんな人なのだ。
「痴呆」は作者が実際に一人の人間を介護するという体験
を通して編まれた作品集だ。実母を介護するという作業は、作者
のそれまでの生活スタイルを転換させてしまうしかない重たい
現実であり、その現実が虚構を交えずに活写されている。より
具体的な叙述を必要としたために集中の多くの作品が散文体
で書かれている。モチーフが作者個人の日常に拠っており、
その日常性を描出しようとする以上は、どうしても散文的な発想
になり、散文としての記述にならざるをえない。
ここではむしろ行替え稿というスタイルでは、その機能としては
無理がある。行変え稿は作者が一つの作品を提示し、その作品
によって読者の想像性を刺激し、その想像性にゆだねようとする
面が強い。作品を提示する作者と、自由な感性によって作品を
味わうという読者の協同性によってひとつの詩的空間を構築する
ということなのだ。ところが、「痴呆」の微に入り細をうがちする具
体的で詳細な記述は、はじめから読者の自由な想像力など許容
していない。それは想定外のことなのだ。読者が勝手に想像の
翼を広げたりしたら困るのだ。あくまでも、作者が意図して記述
した形から逸脱することなく、ただひたすらに受け止めることだけ
を要請しているのだ。そういう意味でいうなら、行変え稿は読者の
想像性に委ねる分だけ、言葉の用い方に曖昧さが許されている
はずだし、逆にいえば散文稿は緻密な計算に基づいた論理の
構築が課せられるはずだ。ちなみにこの集には、純然たる行変
え稿は六十八編中九編を数えるのみだ。その行変え稿も発想
は散文としてのものである。
少しく抜粋してみる。
(前略)私はそのとき娘に宣言した「おれは姥捨てはしないんだ」
と どうしても皆が駄目だということになったら私は母を連れてこの
家を出るとまで言ったのだ 私があくせく働かなくてもよい立場に
あったなら 余分のお金があったなら私は母の介護だけをする
二人だけの生活をしてもよかった 九十九里浜で千鳥と遊ぶ
智恵子をみる光太郎のように 母は何度か私に自分の蒲団に入
るよう手招いた 身体をずらし片方の腕を横に伸ばしもう片方の
腕で蒲団の襟をフワッと持ち上げて入ってくるよう促す 末っ子
の私は小学校に上がってもなお 当然のように母の腕枕で片足
は母の太ももにはさんでもらって寝ていたのだった(中略)二人だけ
の生活なら私は身体を縮めてもぐりこんでもいこう さらに時を遡り
母はおそらく乳房をとりだして口に含ませようともするだろう 私は
目を閉じて乳首に吸い付くことだってしようじゃないか
(後略)『「姥捨て」より抜粋』
行変え稿では決して表わせない、こういう感動的な記述はほぼ
全編を通じてあるのだが、紙幅の関係もあり引用はこれのみにと
どめる。この引用した稿から立ち上ってくるものは何々なのだろう。
もちろん引用した部分に表わされているものは、まぎれもなく親子
としての「情」に他ならないし、母と子としての血肉を分けた者だけ
が持つ絆の強さということが端的に表明されているだろう。我が子
を我が子として認識できなくなった老人性痴呆症に罹患した母親
に対しての、男の子供からの一方通行の情の表明であったとして
も・・・。しかし、なんという情の表明であろうか。作者のこの情の
あり方に接したとき、私などはひたすら叩頭して我が身の不徳を
恥じ入るばかりである。ともあれ、親子という断ちがたい関係性
の中の情そのもの、そしてそこから派生するものは、もはや単なる
一組の親子という枠組みを超えて、誰にも通じあえる人間としての
根幹の部分にまで迫ってくるのである。作者における個人的な
事象でありながら、広く深く訴えてくるものの大切さに、私達はいま
さらながら気づかされるだろう。
毎朝、新聞を開いてみると、殺人などの忌まわしい事件が掲載
されていない日はない。子は親を殺し、親は子を殺しするという信
じられない事件が頻繁に発生する。殺伐たる世相であると言い
切ってもよい社会だ。こういう社会になった原因は多くのものが
錯綜しているだろう。一つを挙げることなどできようはずもない。
だがやはり、人と人との関係性が希薄となり、人が他者や自身を
思いやるということに鈍感になっているということではなかろうか。
そういうことを思いあわせる時、「痴呆」は滋味に富んだ清涼剤の
ようにさえ思う。人間にとっての真に豊な社会とは、そして人間の
ありようとは、この作品集が如実に表白しているだろう。
「備忘録として」は散文的表題であるが、三つ四つの意味をこめ
て付けた。そのうちの一つには、吉山たかしという今を生きている
一人の人間が、村山豊という一人の人間に出会ったことの諸々の
意味をも込めている。
(2001.10)