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     新たなペクトルを求めて

 1995年、秋。節気は寒露。
 「庭」と呼べるほどのスペースではないけれども、
拙宅にも一応は庭がある。小さな家の、その二坪
ほどの土地に、ニ本のキンモクセイが繁っている。
家を買ったときに植えられていたものだから、
樹齢はすでに20年を越える。
 花盛りは10月17日前後の3日間くらいだ。不思
議な事に、この2本の樹はまるでリハーサルでも
するかのように、その10日ほど前に1日、2日で
散る花を少しつける。次いで本格的な花盛りと
なるが、その時は花の黄色が葉の緑を陵駕して
みごとだ。

 1948年生まれの私は、この秋に47歳になる。
中年とか壮年というよりは、もはや初老と言う
ことばがふさわしい年代だ。 それほど永く生きて
きたことに自身で驚いている。信じられない長さだ。
望みさえしなかつた長さだ。その長さの時間を、
私はいたずらに乱費してきたという感が強い。
 聴覚を全て失した21歳当時、私は(あと1年)
その1年が過ぎれば、(もう1年か2年)という、
ぎりぎりの地平で生きていたように思う。私における
歳月の連続性を自身で否定していた。こまぎれに
した1年いちねんはあっても、私に「未来」という時間
と空間は事実上、閉ざされていた。
 蛇足の年齢を重ねて、身体に老いを自覚する。
疾病にもずいぶんと親しくなった。それとともに、
物事に対しての関心の持ちようも変わった。これまで
理解したことなど取るに足りはしないのに、貪欲に
何かを知ろうとし、何かを得ようとする姿勢が衰えた。
失聴を原因とする情報不足や、その他もろもろの
ことは理由にはならない。
 ともかく私の中で何かが変わり、変わり続けようと
している。それは加齢による肉体の衰えや、残されて
いる時間の短さによる可能性の現象ということと連動
しているのだろう。けれども、私はこの変調を変調
として受け止めつつも、良しとはしない部分がある。
私が私であることによって、他の誰でもない私である
ことによって、私は最大限に自覚的でありたい。
今までもとても自覚的であったと思うし、これからも、
それは変わらないだろう。私が私の宿痾を十字架
として背負っている日常にあると、たいていの出来事
などは、ごくごく些細なことなのだ。私における変調
らしきものにについても、私は楽しみながら対応できる
だろう。

 ペクトル=一つの点から別の点への変位、また、
物体に働く力・速度・加速度や電場・磁場などのように
大きさ(長さ)と方向で定まる量。

 と、手もとの辞書にある。
 老化による自然な現象は、肉体だけにとどめておき
たい。精神も連動するものであるが、しかし気持ちが
老け込むのはいけない。いつも若々しくいたい。だから
変調は変調として受け止めながら、私自身の新たな
座標の軸、新たなペクトルを求めたい。だが私における
新たなペクトルとはどういうことを意味し、どういう実体を
持つのだろう。模索してみたいと思う。

 モクセイは一般にギンモクセイを指し、中国原産で
雌雄異株であるという。実の成る方が雌株なので、
拙宅のキンモクセイは2本とも雄株である。
 この2本の樹が私の背丈より低い頃からなじんで
いると、季節や風や大気に和して放つ彼らの声を、
私の全身全霊で聞いてみたいとも思う。植物は植物で、
彼らの方法でコミュニケートしているという説もあるが、
私も20年という時間を共有した彼らの声を、謙虚に
聞いてみたいとも思う。         (96.02)


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