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   畜生塚

 大堰川を開削して成功を納めた角倉了以が、高瀬川の開削に着手したのは慶長
十六年(1611)末のことである。方広寺再建のための資材運搬が高瀬川開削の直接の
契機という。
 了以はその時、三条の西河原に誰弔うでもなく放置されていた「畜生塚」の死者達を
哀れみ、一宇を建立して手厚く菩提を弔った。慈舟山瑞泉寺と号するその菩提寺は、
現在も京都市三条木屋町東南角にある。
 「畜生塚」の、故なく滅ぼされた女人達に少なからず興味を覚えていた私は、過日、
瑞泉寺を訪うてみた。三条木屋町あたりは人通りも多く喧騒を極めているが、、瑞泉寺
は観光の名所ではないせいもあって、参拝者はただの一人もいず、清閑としていた。
参詣したところで見るべきものはない。ただ、そこが「畜生塚」のあった場所であり、50
基の石塔が建てられていて、当時をしのぶよすがとはなる。

 「畜生塚」は時の関白、豊臣秀次一統の塚である。秀吉の甥であり、しかも養子と
なっていて、秀吉の後継者と認められていた秀次が秀吉の逆鱗にふれ、高野山青厳寺
「現、金剛峯寺」で自害して果てたのは文録四年(1595)陰暦7月15日のことである。
時に秀次28歳であった。
 三条西河原に場所を移して8月2日、秀次に連なる妻妾、乳母、侍女、子供達の39人
が黒山になった野次馬の叫喚のなかで、次ぎつぎと斬首される。そして、その遺体は
深く掘った大きな穴に、無雑作に放り込まれていく。先に高野山で自刃した秀次の首が
さらされていて、そのかたわらには「畜生塚」の塔婆が立てられている。
 諸行無常、生者必滅は人の世の習いであり、かつ「死なば一族諸共」は戦国の世に
おける暗黙の掟でもある。また、骨肉相喰む肉親間の相克は、いつの場合であれそれ
なりの理由があり、それは歴史の必然ともいえる悲しい知恵なのだろう。しかし、謀反と
みられても仕方のないことをしでかした秀次は誅されてもやむなしであったとしても、
秀次の縁者というのみで何の力も持っていない女や子供達に対しても仕打ちとしては、
残虐きわまりないと言えるだろう。晩年の秀吉は狂気に支配されていたが、この事件
などは秀吉の狂気を表して余りあることではなかろうか。
 瑞泉寺発行の「瑞泉寺縁起」によると、斬殺された39人のうち、子供は当歳から9歳
まで五人、残りの34人の女性のうち、10歳代が16人、20歳代が7人、最高齢は68歳で
ある。年齢不明が3人いる。殉じて自刃した者も十名いて、熊谷直実の縁者であろう
熊谷大膳亮直澄の名前もみえる。
 なお、畜生塚なる碑名の由来は、秀次の正室一の台は前夫との間に「美屋(みや)」
という名の娘をもうけており、秀次がその娘とも姦淫したというところからきている。

 仏教でいう因果応報はきわめて偏狭な思想であろうが、1615年の豊家滅亡までの
ことを思うと、私は悪因悪果ということをしきりに感じる。
 あるいは権力者の勝手気ままな恣意によって、故なく滅ぼされた者達の怨念は、何
ものによっても消え去ることはないのかもしれない。

     初出誌  海峡十五号  昭和58年1月15日発行。
○加筆せず転載しています。