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       2003年秋の上醍醐登山報告


       

        《 醍醐寺 三宝院の桜   撮影 2003.04。06 》

  たぐひなき花をし枝にさかすれば櫻にならぶ木ぞなかりける
                          (岩波文庫山家集 31P)

    日 時    2003年10月26日
    行き先    伏見区  醍醐山

西行ML関西在住の有志で、この2003年の春もオフ会を開催いたしました。
その時に上醍醐まで上ってみたいと希望される方もいましたので、恒例の春・秋の
オフ会とは別に上醍醐山登山のオフ会を企画致しました。
西行のメンバーは愛知県からNM様、K様、兵庫県のNS様、大阪府のT様、
そして京都の阿部でした。楽しみにされていたK様が急用で不参加になったのは
残念でした。
阿部の友人で女性一名、男性三名が同行してくれました。合計九名です。

10月26日は秋晴れの良い天気でした。
午前11時に地下鉄醍醐駅に集った私達は、半年ぶりの再会の挨拶、そして初対面の
挨拶を交わしてから、歩いて醍醐寺に向かいます。
醍醐寺の総門に到着しましたが、人はそれほど多くはなく、
春のあの喧騒は当然にありません。
春にあれほど私達を魅了した桜の木々も、あらかた葉を落として、この冬の寒さに
備えています。
今回は仁王門に入らず、門前の道を少し南に行ってから上醍醐までのルートを
たどりました。すぐに木々の中の山道に入ります。醍醐にある木々は雑木が多くを
占めるようです。木立を縫って届くやわらかな日差し、見上げれば上には秋の
青い空が広がっています。
すぐに、秀吉が花見をしたという場所に着きました。槍山という山です。
あいにくとここの写真がありません。少し暗くてデジカメではうまく写せませんでした。
秀吉の時代は女性でもこの地点まで上がっていたようですが、江戸時代になって
からなのか、女性は上醍醐上り口にある女人堂までで、それ以上、上には上れな
かったという記述を読んだことがあります。
秀吉の花見の事を説明した説明板を読んでから、上にと向かいます。
しばらくすると急な坂が続きます。やがて、滝のある場所に着きます。不動の滝です。
休憩所があります。ここで一休みです。

前回、私はN女史に案内されて上ったのですが、さすがに醍醐山の妖精と自称する
だけあって、彼女はきつい上り坂でもまったく苦にならないようです。
不動の滝からおよそ30分で山頂ですが、そこから少し
下りになっていて、すぐに醍醐水の湧出しているところにつきます。
もうここまできたら到着したようなものです。
11時35分に仁王門の所を出発しましたので、ここに着いたのは13時頃では
なかったでしようか。



涌き出ている水をためていて、それをひしゃくですくって器にいれているところです。
醍醐の水の感想は飲む人それぞれの感覚で違いますが、私にはまろやかでは
あるけれども少し古い水という感じでした。流れている水ではなくて貯めている水
ですから、どうしてもそのように感じるのかもしれません。
次いで、この醍醐水の真上にある准胝堂(じゅんていどう)にと上がりました。開山の
理源大師聖宝が始めて上醍醐に草庵を立てた堂です。
この准胝堂から200メーターほど登り道を歩いて如意輪堂と開山堂にと向かいます。

この上醍醐のお寺は内部に入って見学はできません。ですから、あ堂の四囲の
たたずまいを観るばかりです。准胝堂から10分そこそこをかけて、如意輪堂、そして
その横にある開山堂に着きました。ここで、おそい昼食を摂りました。

熊野や立山の写真をTさんが持参していて、それに見入っているKさんと
NMさんです。NSさんから、お手製の梅酒をいただきました。

標高450メーターの開山堂からみた宇治方面の風景です。





この開山堂を出発したのは3時前でしたでしようか。
このまますんなりと下山はしないで、せっかく登りましたので、五大堂に向かいます。
このお堂の行事として2月23日に「五大力尊仁王会」が開催され、テレビ放映され
ます。下は五大堂です。


    
さて、五大堂を後にして、私達は帰路に向かいます。ルートは登った道と同じです。
楓は少し色づいているのもありますが、下のようにまだ青いままの方が多いです。





下の画像は翌日撮影した永観堂の紅葉です。紅葉は山から下りてくるとはいえ、
一概にそうとはいいきれません。





上の写真は帰り道に見た開山堂です。
この画像を写したあたりから下り道になります。すでに3時半頃でしたが、
これから登る人に何人にも出会いました。中には4歳ほどの子供の手を引いて
上っている方もいます。
仁王門前まで下りたのは4時を過ぎていたでしようか。
醍醐駅までの道すがら、仰ぎ見た醍醐の山は遠くにあり、すでにどの辺りに
登ったのか皆目わかりません。
醍醐駅について、今回の登山オフ会もお開きです。
醍醐駅でN女史とお別れし、そして山科駅でKさんとNMさんにお別れしました。
残った6人で居酒屋に入って、祝賀会とでもいうか、たのしい3時間ほどを過ごし
ました。来年の愛宕山登山を約して、今回は解散しました。
御参加のみなさん、当日はお疲れ様でした。
秋の楽しい1日を提供していただいて、ありがとうございました。

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  醍醐寺について

  ○ 醍醐山   標高450メートル
           山頂までの距離 約2キロ 歩いて1時間程度

 1 「道」
 
 醍醐寺の総門、三宝院前の南北に走る道路は古い奈良街道です。
 この道を通って天智天皇の開いた大津京などと奈良を行き来していました。
 醍醐の少し南に行くと宇治に出ます。
 確か額田王の歌に宇治か醍醐の地名の詠み込まれたものがあったと思います。

 2 「醍醐寺の歴史」

 山科の地は古代は藤原氏の本拠地で、藤原鎌足は「山階寺=やましなてら」
 を建てていました。奈良の興福寺の前身で、興福寺を山階寺とも言うのは
 そのためです。
 この山科の地、笠取山の山頂に理源大師聖宝が草庵を結んだのは874年の
 ことです。険しい山の上に庵を造ったのは当時、山岳仏教が隆盛であり、
 その影響と見られています。平安時代の初期は平安京では平地での寺院建立
 を原則的に禁止されてもいました。
 醍醐寺の寺名の起こりは、この山の「醍醐水」から来ています。
 山の名前も笠取山から醍醐山にと代えられました。醍醐天皇の名前も、この
 山から取られています。天皇の場合は死後に○○天皇と諡名されるのですが、
 この諡号が醍醐天皇は醍醐山から取られたということです。
 醍醐寺は907年に醍醐天皇の勅願寺となったために、飛躍的に発展すること
 になりました。が、伽藍は上醍醐のみで下醍醐にも伽藍が造営されるように
 なったのは919年からのことです。
 以後も白河天皇、足利将軍家などの尊崇を得て、堂宇は500を数えるほどに
 発展しますが、応仁の乱で(1467〜77)一山のほとんどが焼失しました。
 わずかに951年に落成した五重塔だけが難を免れました。
 再建は1570年代からなされ、主に豊臣秀吉・秀頼の援助がありました。
 秀吉の醍醐の花見は1598年3月15日のことです。秀吉は同年2月9日から15日
 までの間に4度も醍醐寺に行き、庭園や伽藍の整備、築造の陣頭指揮をして
 います。同年8月に秀吉は死亡しましたので、秀吉最後の大事業でした。
 江戸時代になって醍醐寺は修験道を統率することになりました。1613年の
 ことといわれます。1615年には江戸幕府は諸宗本山本寺諸法度を作って、
 寺院の活動を制限しています。これにより、醍醐寺の寺院活動は修験道が
 中心になり、聖護院の本山派と区別するために、醍醐寺の僧を当山派と呼ぶ
 ようになりました。宗派名も真言宗ではなくて修験宗です。
 明治になっての廃仏毀釈の運動や修験宗の廃止により、多くの堂宇が破却され
 ました。醍醐寺が真言宗に戻ったのも明治になってからです。
 明治の末頃には、ほぼ現在の規模になったようです。
    
 3 聖宝

 理源大師聖宝は832年生まれといわれます。15歳の時に仏門に入り、奈良で
 修行しました。東大寺に東南院を建立したとも言われます。
 その後は高野山や東寺で真言密教も学んで、密教の正統を継ぐ僧だと目された
 ようです。
 聖宝が醍醐に庵を結んだのは42歳の時のようです。聖宝は自分で彫った准胝
 観音と如意輪観音を祀りました。
 以後、京都に定住して京都の東寺や奈良の東大寺の別当にもなっています。
 東寺にある千手観音像も造立したといわれますが、こちらは専門の仏師が
 造ったものでしょう。
 聖宝は仏像の造立を盛んに行っていますが、また、山岳宗教の専門家でもあり、
 大峯山信仰の復興者とも言われています。
  
 4 秀吉の花見

 当時、衰退していた醍醐寺に義演という座主がいました。この義演と秀吉は
 親しくて、その関係で秀吉は醍醐寺に援助したようです。
 1598年旧暦3月15日に秀吉は花見の宴を行いました。700本の桜の木を移し
 植えて、茶屋も造り、女性には2度のお色直しをさせたようです。
 花見の場所は「やり山」という名称が当時の記録にありますが、醍醐山の
 中腹にある不動の滝より下で行われたものです。「やり山」は現在は
 「花見山」ともいいます。 
 前日までの激しい風雨が収まり、当日は晴れました。ところが次の日からまた
 降雨ということでしたから、この花見も運が良かったとしかいえません。
 土はぬかるんでいたことと思います。
 毎年、4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」の行事が行われます。

 5 上醍醐

   上醍醐にも往時はたくさんの堂宇が立ち並んでいたのですが、現在は
   薬師堂、如意輪堂、五大堂、開山堂、准胝堂、清滝宮本殿などがあります。

 ○ 薬師堂 (国宝)
  907年に建立。しかし倒壊のため1126年に再建。これが現在の薬師堂であり
  上醍醐でもっとも古いお堂です。
 ○ 准胝堂
  874年の建立なのですが、現在の建物は昭和43年に再建されたものです。
  この堂に聖宝作の准胝観音が安置されたのは874年6月1日とのことです。
 ○ 如意輪堂 (重文)
  1605年12月21日の火災で焼失しましたので、現在のお堂はそれ以降に再建
  されたものです。
 ○ 開山堂(御影堂)
  911年に創建されたそうですが、たびたび火災にあっています。何年の再建
  か手もとの資料では分かりません。
 ○ 五大堂
 ○ 清滝宮拝殿
  上の2堂も何度も火災により焼失。五大堂は昭和15年の再建。清滝宮の
  再建年はわかりません。

 6 下醍醐

 ○ 金堂
  焼失していたままの金堂の再建は豊臣秀吉の命令により着手されました、
  しかし完成する前に秀吉は死亡したため、一旦中断、以後は秀頼の援助
  により1600年に完成しています。
  七間五面の建物で、薬師三尊像が安置されています。
 ○ 五重の塔
  951年に落成し952年に塔供養がされたと言われます。真言密教のお寺と
  しての形式にのっとり五重の塔と一重の塔を建てる予定だったそうです
  が、なぜか五重の塔一基だけ建てられました。
  塔の内部の柱や壁などには絵が描かれています。両界の曼荼羅図や菩薩
  像などです。残念ながら内部を見ることはできません。
  五重の塔は創建時のままですか、何度か修理はされているようです。
 ○ 三宝院
  醍醐寺の総門を入ってすぐの左手にあります。醍醐寺の座主の居住する
  房です。同時に密教での重要な儀式である潅頂を授ける潅頂堂の役割も
  になっていました。
  創建以来4度焼失しています。現在の三宝院は豊臣秀吉により再建された
  もので庭園は秀吉の好みがでているといわれます。
 ○ 理性院 (りしょういん)
  醍醐寺の別格の子院です。ここで西行が病気になったことが山家集に書か
  れています。西住は理性院に所属していた真言僧です。
    
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