人物総覧 一般男性 一般女性 僧侶
(後ろの数字は山家集の掲載ページ)
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としただ 26
未詳。新潮社版では「としたか」と記載。「としただ」は誤記の可能性あり。
「としたか」は大宮佐俊孝の説あるも特定は不可。
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京極太政大臣(?〜1162)86歳 86
中御門宗輔のこと。「中右記」の作者である中御門宗忠は兄にあたる。
菊やボタンの栽培にも詳しく、また、笛の名手という。
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公重少将 (1117年か1118年〜1178) 60歳か61歳 87
徳大寺通季の子。徳大寺実能の猶子となる。
この時の西行の年齢は19歳から22歳頃までの、まだ出家をしていない
時であった。当時、公重は少将ではなかったことが知られている。
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六波羅太政入道 (1118〜1181)64歳 108
平清盛のこと。平忠盛の子。西行と同時代に鳥羽院の下北面の武士となる。
保元の乱、平治の乱を勝ちぬいて、その武功により異例の昇進をする。
従一位太政大臣となる。高倉帝に娘の徳子(建礼門院)を入れて、安徳帝の
外戚となる。一門の栄華は極めるも、福原遷都、後白河帝幽閉などの専横も
強い。病気により51歳で出家。法名は浄海。
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院 (1119〜1164)46歳 110
1156年、保元の乱で敗れて讃岐に流された崇徳院のこと。1156年、7月11日夜、
白河院にこもっていた崇徳上皇方は源義朝軍の急襲を受けて敗北。崇徳上皇は仁和寺
北院に移り落飾。23日に讃岐に流される。1164年、8月26日、讃岐で崩御。
西行は1168年に讃岐の白峰陵に詣でている。
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後三條院 (1034〜1073) 40歳。 118
第71代天皇。父は69代後朱雀天皇。1068年即位。在位5年。
72代の白河天皇の父。
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花山院 (968〜1008)41歳。 120
第65代天皇。冷泉天皇の長男。984年即位。在位3年。藤原道兼に
丸め込まれての出家、譲位ということが定説。
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中将實方(?〜998) 128
藤原忠平(貞信公)の曽孫。藤原定時の子で藤原實方のこと。藤原行成と和歌のことで
論争したはてに乱暴をして、それが一条天皇の怒りに触れ、陸奥へ左遷されて、
その地で没したという。
熊野別当湛快の祖父にあたる。中古三十六歌仙。
百人一首第51番
「かくとだにえやはいぶきのさしも草 さしも知らじな燃ゆる思うひを」
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大納言 成道 (?〜1162) 133、175、206
堀川右大臣頼宗の曾孫。右大臣俊家の孫。権大納言宗通の子。
もとの名は宗房。侍従・蔵人・左中将などをへて、天承元年(1131)、
参議。康治二年(1143)、正二位。保元元年(1156)、大納言に至るが、
三年後の平治元年(1159)出家した。法名栖蓮。西行とも親しかったことがわかる。
中宮亮顕輔歌合などに出詠。蹴鞠・鄙曲の名手であったという。家集『成通集』がある。
金葉集初出。
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中宮大夫時忠 (1130〜1189)60歳 134
平時忠。建春門院平滋子の兄にあたる。建礼門院の中宮大夫という意味で、
その時代は1178年から5年間である。この間に西行と交流があったことがわかる。
平氏で頼朝に許されたうちの一人である。
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中院右大臣 (?) 175
源雅定。太政大臣源雅実の子。1154年に出家。蓮如と号する。~祗伯顕仲は
叔父にあたるので、堀川の局や兵衛の局はいとこになる。
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爲なり (?) 176、190、264
藤原爲業。藤原爲忠の子。寂念と号し、弟の爲経(寂超)、頼業(寂然)とともに
大原三寂と呼ばれる。ところが為業は大原に住んだということを疑問視されている。
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新院 178、179、181
崇徳院のこと。「院」参照。
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ためただ (?〜1136) 178、264
藤原爲忠。藤原知信の子。想空、大原三寂の父。葉室顕弘(後の藤原俊成)や
源頼政は親しい歌仲間であった。家集に「藤原為忠朝臣集」がある。
常盤に邸宅があった。
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右大将きんよし ( ) 179、203
徳大寺公能。実能の子。
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左京大夫俊成 (1114〜1204)91歳。 180、187、281
藤原俊忠の三男。藤原定家の父。出家して、法名を釈阿という。
五條三位入道は出家後の呼称。葉室家の養子となっていて、葉室顕廣は
1167年に俊成と改名する。西行とも早くから親しい関係にあった。
後白河院の院宣を受けて、千載和歌集を撰する。顕廣、俊成、釈阿、
五條三位入道、右京大夫、皇太后宮大夫、以上の呼び名がある。
百人一首第83番
「よの中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」
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八嶋内府 (1147〜1185) 39歳 175
平宗盛のこと。平清盛の三男。1181年清盛没後、平氏の家嫡を継ぐ。
1185年、壇ノ浦での戦いに敗北して一度は入水。だが引き上げられて捕らえられる。
義経によって鎌倉に護送される。この時、義経は鎌倉に入ることを許されず、情理を
尽くした奏上文を書くも、頼朝に対面を拒否される。
宗盛は鎌倉からの帰路、清宗とともに近江篠原にて斬られる。
尚、宗盛の愛妾である熊野(ゆや)のことは能になっている。
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右衛門の督 (1169〜1185) 17歳。 175
平宗盛の子。平清宗のこと。父の宗盛と同じ運命をたどる。
後白河院に可愛がられていたことが平家物語に描かれている。
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徳大寺の左大臣(1096〜1157)61歳 185
権大納言藤原公実の四男。徳大寺実能のこと。待賢門院の兄。
徳大寺実能は義清が兵衛尉になった保延元年(1135)、正三位権中納言で
あったがその翌年三月には正二位に昇任し、そしてその年の12月権大納言になった。
1155年に左大臣となる。徳大寺家の祖。子に公能がいて、西行とも長く親交が
あった。
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三條太政大臣 185
徳大寺実行のこと。実能の兄にあたる。
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中納言家成 186
藤原家成。中御門と号する。
186ページ詞書に渚院を再建したが、すぐに取り壊したということが記述されている。
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金岡(?〜?) 195
絵師の巨勢金岡のこと。堺あたりの人。ただし住居は現在の宇治市木幡にあった
そうです。住居地は現在では確定できません。
大覚寺の作庭を担当したらしいということです。
また、宇多天皇の要請で、888年の創建当時の仁和寺の障子に絵を描いたという
記録があります。
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近衛院 (1139〜1155)17歳 203
第76代天皇。鳥羽天皇と美福門院の子。在位14年。1155年17歳で夭折。
舟岡山の西野で火葬後、洛北の知足院、ついで鳥羽の安楽寿院に葬られる。
崇徳天皇・後白河天皇は異母兄。
保延五年、生後三カ月で立太子。永治元年(1141)12月、崇徳天皇の譲位を受け、
三歳で即位。1150年、藤原多子(頼長の養女、徳大寺公能の娘)を皇后とする。
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右大臣さねよし 203
徳大寺実能。待賢門院の兄にあたる。右大臣は左大臣の誤り。
上の「徳大寺左大臣」の項、参照。
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二條院 (1143〜1165)23歳 204
後白河天皇の第一皇子。23歳にて没。香隆寺陵に葬られる。
高倉天皇の異母兄。六条天皇の父。
美福門院得子(なりこ)に養育される。保元三年(1158)八月、即位。第78代二条天皇となる。
平治の乱の際は藤原信頼・源義朝らによって後白河院とともに幽閉される。後、平清盛の
六波羅邸に逃れる。親政をめざして後白河院と対立、関白基実・太政大臣藤原伊通を
重用した。永万元年(1165)六月、病により譲位、二歳の六条天皇が即位した。翌月、崩御。
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のりつな 207
未詳。藤原範綱、ほかの説もあるも不明。
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少将ながのり(?〜?) 209
藤原通憲(信西入道)と院の二位の局の子。藤原脩範。成範、院の少納言の局は
兄弟。脩範は五男。
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しげのり (1135〜1187) 53歳 209
上記の藤原成範。脩範の兄。高倉院の寵愛を受けた琴の名手という「小督の局」
の父ともいう。吉野の桜を移植したことでも知られる。桜町中納言ともいう。
成範は「なりのり」とも読む。
建礼門院平徳子に仕えた阿波の内侍は妹にあたる。
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木曾と申す武者(1154〜1184)31歳 255
木曾義仲のこと。旭日将軍。
父の義賢は頼朝の兄に当たる義平によって殺害されている。以仁王の令旨を受けて
挙兵した義仲は、倶利伽羅峠などで平氏軍と戦い、源行家と共に入京する。
義仲軍が略奪などをしたため朝廷と不和となり、後白河院から追討の宣旨を受けること
になる。しかし義仲は逆に後白河院側の勢力を迎え撃ち、後白河院を幽閉する。
(1183.11法住寺の戦い)義経、範頼軍に攻められ、近江・粟津にて敗死。
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顕廣 259
葉室顕廣。藤原俊成のこと。葉室家の養子となっていた。
藤原俊成の項を参照。
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としたか 260
未詳。大宮佐俊孝の説あるも不明。26ページ前出。
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よりまさ(1104〜1180)76歳 260
源三位頼政。源仲政の子。摂津源氏の系統。
若い頃鵺退治をしたという逸話は有名。歌人としても大変優れていて西行とも面識が
ある。
以仁王を奉じて平家に反逆するも、宇治橋の戦いで敗走、平等院で自害を遂げる。
辞世の句は「埋もれ木の花咲く事も無かりしに身のなる果ぞ悲しかりける」
自選家集『源三位頼政集』もあり、歌人としての評価は高かったようである。
宇治・平等院に墓がある。
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忠季宮内大輔 260
生没年・伝未詳。
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通親の宰相(1148〜1202)54歳 261
源通親のこと。内大臣、源雅通の子。土御門通親ともいう。久我源氏。
道元の父。
勅使として、通親が伊勢に行ったのは1183年4月のこと。通親35歳の時という。
木曽義仲が京都に入る前のことである。
後鳥羽院の側近として、権勢をふるい、藤原兼実と対立する。
子の源通具には定家の姉か妹が嫁いでいる。が、離縁される。
土御門家は安倍清明の子孫というも系図までは私はわかりません。
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きたのこうじみぶ卿(?) 262
誰か不明。伊藤嘉夫氏は「日本古典全書」で北野小路壬生卿として、藤原家隆と
断定しているが、窪田氏は「西行の研究」でこれに疑問を呈している。
しかしながら、慈円が慈鎭と誤記されている例証もあり、ここでは、藤原家隆説は
私的にはうなづけるものがあります。
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爲業 265
藤原為業。為忠の子。大原三寂の一人。寂念。
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基家の三位 270
基家については、よく分かりません。
九条内大臣、続古今集の撰者、新三十六歌仙のひとりである藤原基家は九条家の
藤原良経の子であって、ここにある藤原基家とは同名の別人です。
娘に藤原陳子がいて、陳子は後堀川天皇の生母となっています。
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忠盛(1096〜1153)58歳 270
平忠盛のこと。平正盛の子で清盛、忠度らの父。
白河上皇・鳥羽上皇の寵を得て累進する。 山陽・南海の海賊を討伐して、
西国に平氏勢力の基礎を築く。日宋貿易に尽力して財力を蓄え、多くの寺社建立
に財を提供している。
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藤原定家(1162〜1241)80歳
工事中。
1233年出家。法名明静。
嘉禎元年(1235)三月、浄書した新勅撰集を九条道家に献ずる。五月、宇都宮頼綱の
要請により嵯峨中院山荘の障子色紙形を書く。これが『小倉百人一首』の
原形となったと見られる。家集『拾遺愚草』がある。拾遺とは侍従の意味。日記『明月記』がある。
以上
異同が多くあると考えられます。お気づきの方はご教示願います。(阿部)
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