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   東福寺  撮影 2005年6月13日

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過日、東福寺に参詣しました。東福寺は東山南部にあり、京都駅
すぐの東南に位置します。九条兼実の孫の道家が創建した九条家の
氏寺です。九条家は兼実から始まります。
兼実(1149〜1207)といえば、慈円の兄であり藤原良経の父です。
若く急逝した良経には秋篠月清集があります。
この兼実も当時の時代の波に翻弄された人物の一人です。摂政で
ありながら後白河院とは性格的に合わず源頼朝と親しくしています。
ところが後鳥羽帝幼少の時には源通親が朝廷の実権を握るように
なり、1196年、兼実は失脚。兼実の命令で天台座主となっていた
慈円も失脚。慈円は1201年に再び座主として返り咲いています。
慈円についてはマガジン54号をご覧願います。

http://sanka.web.infoseek.co.jp/sankasyu3/54.html

兼実には東福寺のすぐ東の山側に月輪殿という邸宅がありました。
その関係で東福寺が建立されたものでしょう。
兼実はまた歌にも理解があって、隆信、俊恵、道因法師、清輔らに
よる「兼実家歌壇」が構成されています。1180年頃からのこと
ですから、このことは西行も知っていたでしょう。
兼実はまた俊成の御子左家の庇護者でした。
兼実の日記に「玉葉」があります。この日記は貴重な資料です。

東福寺の創建は1239年ですから西行の生存していた時代にはない
お寺です。だから私の京都写真集にも画像を置いていません。
ここには藤原俊成の墓もあるのですが、行かずじまいでした。
行ったのは本堂と戦国期の毛利家の政僧、安国寺恵瓊再興、小野
小町ゆかりの「退耕庵」。ここに尼子氏の遺児がいたものでしょう。
他には荻原井泉水ゆかりの「天得院」。井泉水は尾崎芳哉の良き
理解者でした。庭にある盛りの桔梗が楽しませてくれました。
紅葉の頃には有名な通天橋は、もみじの青葉が見事で紅葉とはまた
趣を異にした魅力があり、それを堪能したという思いです。

そういう雑多なことを思いながらの数時間でした。いにしへのこと
を偲びながら、当時に活躍した人たちに思いを馳せることは、私に
とっては確実に幸せを感じる時間であるといえます。
同行された方々にも、この場を借りて、感謝します。


通天橋のモミジです。
秋にはことにたくさんの人でにぎわいます。










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