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もみの木エッセイ集
  

 四国の西行の歌

 四国の善通寺で、学生時代を過ごした私は、善通寺の境内は、
駅までの近道になっていたので、大師様にはあまり手も
合わさずにいつも通り抜けをしていた。

 八百年前に、
51歳の西行がこの善通寺や崇徳天皇御陵の
ある白峰寺等を訪れたことを知ったのは、私も
50歳頃に
なってからである。

 「四国で詠まれた西行の歌」の中で、心に残る歌は、

 ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば松はひとりにならむとすらむ


 である。人と人の出会いと別れににも似た無常が感じられる。
もうひとつの歌は、

 くもりなき山にて海の月みれば島ぞこほりの絶え間なりける  

 この状況は、四国霊場のある雲辺寺山に登った時に実感した。
瀬戸内海には小さな島が散らばって見える。


 この歌を見たとき、一瞬ではあるが、「瀬戸内海は冬には
凍ることがあったかなあ」と考え込んでしまった。幼い頃に
見ていた瀬戸内海である。しかし、落ち着いて考えると、
深刻に考えること自体が間違っていたことに気がついた。
歌意は、「弘法大師がお住みになった汚れのない霊場で、
清澄な月に照らされる海を見ると、島は敷きつめた氷の絶間の
ように見えることだ」ということである。

 西行の四国の旅を知ったのをきっかけに、かつて日常的に
通り抜けをしていた善通寺の境内を隅から隅まで見て周った。
あらためて大きな由緒のあるお寺だと感じた。
  善通寺の近くにある西行縁の曼荼羅寺や我拝師山、西行庵跡
へも訪れてみた。
 崇徳天皇御陵のある五色台からは、「氷の絶間である島」の
風景も、善通寺近くの我拝師山も同じ空間に眺めることが出来る。

 西行は、四国の地で、短い時間ではあったが、大師や崇徳院と
一体感もって生活し、歌を詠まれたのだと感じた。

  崇徳院の歌

 高校卒業後、専門学校に入学したとき、四国各地から
集まってきた学生達の中に、香川県綾歌郡出身の学生が
いた。
 その学生は、ある時、さらさらと歌を書き、この歌は、
自分の好きな歌で、故郷に縁のある崇徳天皇の歌であると
皆に説明した。

 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあはむぞと思ふ
     百人一首七七番


 当時、百人一首の歌をあまり知らなかった私は、この歌に
大変感動した。これは激しい恋の歌であると思った。
「岩にせきとめられる急流が、一度は二つの流れとなっても、
再び一つの流れになるように、行く末は再びあなたと
お逢いしたいと思う」ということである。

 崇徳天皇は、四国に流され、坂出の五色台に奉られている
ことは、高校時代を坂出で過ごした私も知ってはいたが、
もっと詳しく知りたいと思うきっかけになった。
 その後、私は保元の乱や流されてきた四国での生活を
知るにつけ、この歌の底には、もっと深刻な政治的な意味も
含まれているのかもしれないと感じた。(そういう説もある)

 この歌を知ってから数十年後、五色台の白峰御陵や、院の
ご遺体をしばらく浸けて保存してあったという八十場の泉
などへも訪れる機会があり、その思いの方が強くなった。

 推理を深めれば、表向きは恋、実際には復讐を誓っての
歌かもしれない。しかし、「あはむとぞ思ふ」という字余り
の中には、何としても末には逢いたいという(元にもどり
たいという)、重い表現が感じられる。

 最近、柿本人麻呂の「泣血哀慟歌」の中の「狭根葛
(
さねかづら) 後も逢はむと」というフレーズの中にも、
同じような激しい思いが感じられる。「根っこは別でも、
末には大きな蔓となり出会い、寄り添いたい」ということ
である。どちらも、熱烈で技巧的な比喩であると思う。