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 もみの木エッセイ集

  白峰寺の西行像

 ここ数年、四国へ行くたびに、讃岐の五色台へ行く。
五色台の上からは、瀬戸内海や瀬戸大橋の景色が一望
できることと、それからもうひとつは、白峰寺の西行像に
挨拶をするためである。

 第八十一番白峰寺には、崇徳天皇の御霊所があり、その
御霊所のすぐ側には小さな西行像が座っている。その像は、
大分風化してきており、石の割れ目の部分には、無造作に
セメントで修理をしたような跡もある。

 西行の「四国の旅」の目的の一つは、異国の地で、無念な
思いで亡くなられた崇徳院の御霊を弔うためであると言われて
いる。

 上田秋成の雨月物語の「白峰」では、その時の様子が次の
ように書かれてある。

 <まだこの世に未練があって、成仏できない崇徳院が西行の
前に現れて、この世の恨みを述べられる。それに対して西行は、
恨みを捨てて浄土へ帰られるように勧める。その時、院へ
捧げた歌が、次の歌であると。

 よしや君むかしの玉の床とてもかからんのちは何にかわせん

(たとえ、もとは玉座におつきになった高貴なお方でも、
お亡くなりになってしまわれたからには、そんなことが
いったい、なんになりましょうか)>

 西行像の横にある歌碑には、この歌が書かれてある。
この歌は、一歳年上だった西行が弟を諭すような歌に聞こえる。

 複雑な政情を見ながら、やっと遠い四国を訪れることが
できた西行である。多分、旅の出で立ちのまま、この山奥の
塚まで必死の思いで登って来られたに違いない。

 寒くなる時期に行くと、西行像の頭には、毛糸の帽子が
被さってあったりする。


 「遠いところから、お疲れ様です。」

と労わりたくなるような西行像なのである。

  大和三山の歌

 山辺の道を歩くとき、私がよく歩くコースは、天理の
石上神社から歩く場合と桜井から大神
(おおみわ)神社を
通って歩く場合とがある。時には、途中にある長岳寺の
ソーメンをいただいて、柳本駅から帰ることもある。
 四季折々の顔をもっている道ではあるが、大和平野に
浮かぶ大和三山をいつも捜しながら歩いている。三山は、
正三角形の位置にあり、眺める角度により移動して見える。

 大和三山といえば、万葉集卷一・一三中大兄皇子の長歌
がある。

  香久山は畝傍を惜しと耳梨と相争ひき神代より〜

 この長歌の解釈であるが、中大兄皇子(後の天智天皇)が
詠まれた歌であるので、大海人皇子(後の天武天皇)の妻で
あった額田王を争って自分のものにしたという意味の歌で
あると思っていた。香久山が中大兄皇子、畝傍山は額田王、
耳梨山は大海人皇子である。
 しかし、他の説もあることを数年前に知った。第二句は
「畝傍を惜しと」ではなく、「畝傍雄々しと」と詠んで、
畝傍山を男とする説である。香久山は額田王、畝傍山は
中大兄皇子、耳梨山は大海人皇子である。
 三山周辺は、諸豪族の勢力が入り組んだところで、それを
背景に伝説が出来たとも言われている。
 この歌の解釈の違いを考えている時、私は、TATという
心理テストを思い浮かべる。
 一枚の図を被験者に示し、被験者は、その図がどのような
場面で、図中の人物は何を考えていて、どうしようとして
いるのか、という物語を自由に作らせるのである。
 私も三山の性別はわからないが、歌を解釈する人によって、
それぞれの人の思いが投影するようにも思う。
 三山のそれぞれの思いは思いとして、歩き疲れての帰り道、
私のリュックサックは、季節の野菜や果物で一杯になる。