もどる


  もみの木エッセイ集

 家隆と夕陽丘

 大阪国際交流センターで研修があり、その帰り道、
西に向うゆるい坂道を登って行くと、大きな夕陽が目の
前にあった。

 「ああ、そうだ。ここは夕陽丘だった。家隆の夕陽丘だ。」
と思いながら地下鉄天王寺前夕陽ケ丘駅へと急いだ。

 以前、夕陽丘にある家隆(かりゅう)塚を訪ねたことがある。
家隆は鎌倉初期の歌人で、藤原定家と並び称された新古今集の
撰者の一人でもある。百人一首
九十八番

風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける

の歌は家隆の歌である。

 夕陽丘という地名は、家隆がこの地でむすんだ「夕陽庵
(せきようあん)」
に由来するといわれる。塚の横には
家隆の歌が書かれている。

 契りあれば難波の里にやどりきて浪のいり
日ををがみけるかな


 当時は、四天王寺西門は極楽浄土の入り口だといわれていた。
海がせまり、浄土を連想させる風景が広がっていたのである。
家隆も
日想観(にっそうかん)という「観無量寿経」に
説かれる「浄土の姿を沈む夕陽に想い、極楽往生を願う」
という修行を修めたという。夕陽を眺めて暮らしていたのだ。


 夕陽丘を散策した時、天王寺七坂と呼ばれる坂道がたくさん
あったが、近くにある大江神社の由緒には、昔は大きな
入り江があったと書かれていた。現在は、坂の下には町が
がる。

 現在、家隆塚は、大阪の幹線道路である谷町筋から少し横道に

入った所にあり、写真に撮ると、背景にはビルが写る。ビルの
谷間に建っている。

 今では、家隆の歌や夕陽丘の由来を知っている人は少ないが、
ここで出会う夕陽は、今でも殊更眩しい「四天王寺夕陽丘の
夕陽」だと思う。
                    (2005.10.02)

  カササギの橋

 カササギという鳥を知ったのは、百人一首の大伴家持の
歌からである。
 前漢代の『淮南子』には、「烏鵲(カササギ)が河を埋めて
橋を作り、織女を渡らせる」と書かれている。
 雨が降り川の水が溢れ、天の川を挟んで、東と西の岸辺で、
涙を流しながら切ない思いでたたずんでいる二人の前に、
助っ人のカササギは飛んでくるのだ。

 かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞふけにける 
       百人一首六番中納言家持


(かささぎが架け渡すという天上の橋。その橋のような
宮中の御階(みはし)に霜が真っ白に降りているのを見れば
夜はしんしんと更けていることよ)

 数年前、九州旅行をすることになったとき、「佐賀に
行けばカササギに会えるかも知れない」と思った。
 その期待通りに、カササギを見ることができた。バスで
佐賀県から福岡県へと移動をしている道中であった。

 スズメ目カラス科の鳥」ということであるが、カラス
よりやや小さく、尾は長く、胸は白、羽根は黒、細かい
部分はよくわからなかったが、白と黒が混ざっている鳥で
あった。七夕伝説と重なり合ってロマンチックな気持で
眺めてしまった。柳川沿いの木々では、カササギの巣も
見つけた。
 万葉集には、柿本人麻呂や山上憶良の七夕の歌もあるが、
舟を漕いでくる歌である。
 静かな川面であれば船、川が氾濫すればカササギの橋と、
古代から、地上界の人々が想像しながら詠んだ応援歌である。
 歴史を見ると、七夕には、カササギは天へ上ってしまうので、
病気以外のカササギは、地上では見られなくなり、見つけると、
怠けていると見られて、追い払われたという。
 カササギにとっては、七夕の日は、過ごしにくい日だった
のかもしれない。
                   (2005.10.09)