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  もみの木エッセイ集

 因幡の家持

 万葉集巻末歌は因幡で詠まれた大伴家持の歌である。

  あらたしき としのはじめの はつはるの
      けふふるゆきの いやしけよごと
          (万葉集巻二十 4516番)

(外には、雪が降っている。この汚れのない雪の様に
清らかな吉いことが次から次へ積もりますように)

 今でも年賀状によく書かれる歌である。
  天平宝字三年正月一日、家持は因幡の国守として
赴任中(758761年)に
因幡国庁で国郡司らを饗宴した
後に詠まれた。藤原氏に疎まれ、左遷された因幡での
この歌は、祝賀の歌であるにもかかわらず、哀愁を
感じる気にかかる歌である。万葉集はこの歌で終る。

 私は、二年前の晩夏、松江に住む娘を訪ね、その帰り道、
因幡国庁跡へ寄ることができた。息子の運転する車で、
地図を見ながら探し、やっと辿り着いた頃には、もう
夕闇が迫っていた。

 近くには、万葉会館があり、家持のこの歌の歌碑があり、
そして、広々とした稲田の真ん中に国庁跡はあった。
そこには、低い柱のようなものが並んでいる以外は、
何もなかった。既に暗くなった国庁跡の敷地内を、
車のヘッドライトを頼りに歩いて見てまわった。
 周りに見えるという因幡三山もわからなかったが、
遥か遠くには山が連なり、稲穂が揺れ、空には月が見えた。

 中西進先生は、万葉集の講座の時、「皆さんは、家持は、
この歌を最後に、歌をもう詠まなくなったと思われますか?」
と聞かれたことがある。因幡赴任当時の家持は42歳。
多賀城で亡くなったのは68歳である。先生は、
「私はその後も詠まれたと思います。」と言われた。私も、
歌は詠まれたと思う。

 万葉集は、一臣下である家持の祈りのような天皇讃歌で
終るが、その後の家持の歌は、どのような歌であったの
だろうか。
                  (2005.10.10)

 
50歳の手習い
      
 私が念願だった大学へ入学したのは、40代後半のことである。
以前より、二人の子どもたちが自立してから、自分の好きな
ことをしようと考えていた。学部は、仕事と関係のない国文学科を
選んだ。
 平成6年春、家庭と仕事と学業の3、4足のわらじを履くことに
なった。入学にあたってのオリエンテーションのとき、教官は、
「半年後には、ここに集まっておられる皆さんの内、約半分の
人たちは居なくなるでしょう。そして、国文学科の人が卒業する
のは、約10人に1人です。」
と言われ、通信教育というのは、継続することが難しいという
ことを話された。
 私は、家庭と仕事を優先し、学業は、あくまでも一種の
リフレッシュ剤ということで、楽しみながら、根気よく頑張ろうと
決心した。
 年間2回、実施されるスクーリングは、仕事を休まなくても
出席できる日曜日毎の授業を選んだ。
 毎日曜日、午前9時からの開講なので、もよりの駅を午前5時
35分の電車で出発し、電車、バスを乗り継ぎ、京都の大学へは、
午前8時過ぎに到着した。
 早く着くので、教室に入るのは、ほとんど1番で、教室の電気を
点け、締め切っていた窓を少し開き、教室の環境を整えて、
前から2、3番目の席に座った。
 通信教育の学生は、高校を卒業したばかりの若い人たちもいたが、
中には60歳を過ぎた人たちもいて、年齢も職業も、バラエティーに
富んでいた。年配の方の中には、授業の途中、気分が悪くなって、
倒れる人もあった。
 休憩中に、学生同士が話し合っている内容を聞いていると、
名古屋や東京、遠くからは、九州方面から来られている人たちも
いた。
 ある日、一時限目の授業を受けていると、少し遅れて入って
きた人が、「隣の席は、あいていますか?」
と聞かれ、私の隣の席に座った。それが彼女との出会いであった。
彼女は、午前三時に起床し、徳島から船に乗り、電車を乗り継ぎ、
京都まで来ていると言う。それでも、9時過ぎに着くという
彼女のために、私はその後、席の確保を引き受けることになった。
 スクーリングに参加してみて、頑張っている人達がたくさん
いることを実感した。
彼女と私は、年齢も職業も似ており、話が合った。一緒に卒業を
しよう、と励ましあった。卒業論文は、同じ中世の古典文学を選び、
彼女は「足利尊氏の歌」、私は「西行の山家集」だった。
 過ぎ去れば、楽しい6年間であった。
「仕事、忙しいわ。疲れるわ。来月、京都へ行かん?」
と今でも突然、彼女から電話がかかる。
 苦労を共にした京都は、寛ぎの場所になった。
                  (2005.12.06)