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もみの木エッセイ集

   
祖母と私                            

 父方の祖母は、「康子はおばあちゃんの一の孫や。」と、私を
幼い頃からかわいがってくれた。
 明治二十二年生まれの祖母は、若くして夫を流行り病で亡くし、
二人の息子を育てた。
 三姉妹の長女である私は、二歳下の妹が生まれてからは、
祖母と同じ布団で寝ていた。毎晩、祖母から、おとぎ話を聞かせて
もらったり、絵本を読んでもらったりするのが、楽しみであった。
祖母は、ひらがなを読むことができた。
 私が中学生の頃に聞いたことであるが、祖母がまだ子どもの頃に、
村の世話役の人が、家々を回り、子どもに、読み書きそろばんを
習いに来させるようにと、勧めてくれたおかげで、字を覚えることが
できたそうである。祖母は、一生懸命に習ったらしく、なにかの
ご褒美で、そろばんを貰ったと話していた。
 幼い頃の私にとっては、祖母のおとぎ話や絵本を読む声は、
子守唄のような心地よさがあった。多分私は、ほとんど途中で

眠ってしまっていたように思う。
 時々、私が一人で眠る日があった。祖母が、ご近所のお年寄り
たちと一緒に御詠歌をあげに行く日である。仏事があれば、
お互いの家々を回るので、時には、私が眠っている隣の部屋から
御詠歌が聞こえてきたこともあった。祖母は私に、
「先に眠っているように」と言って出かけて行く。そんな夜は、
遠くから鉦の音が聞こえてきた。
 私が小学校へ入学して、一人で本を読めるようになってからは、
祖母は祖母、私は私で、寝床で頭を並べて、少女雑誌などを
読んだ。祖母は、漫画のひらがなを、ひとつひとつ確かめるように、
声を出して読んでいた。
 祖母と過ごした中で、一度だけ、いやな思いをしたことがある。
それは、祖母の息子である伯父が四十二歳の厄年に、病気で
亡くなったとき、祖母が伯父の長襦袢を寝巻きにして寝ていた
ことである。今の私なら、息子を亡くした母親の気持がわかるが、
当時六歳の私は、ただ怖かった。「その着物は着ないでほしい。」
と何度も祖母に頼んだ。
 大人同士の事情の中で、私が小学校の高学年になる頃には、
祖母は伯母の住んでいる元来の祖母の家に帰って寝るように
なった。
 私にとっては、不本意な出来事であったが、その後も、祖母は、
私にとっては空気のような存在で、いつもにこにこと私の傍に
いてくれた。
 私は、成人してからも、機会があれば、祖母には少女雑誌を
お土産に持っていった。
 もう二十五年も前になるが、祖母は、米寿のお祝いをした後、
眠るように亡くなった。
 母は、今でも私に、「あんたは、小さい頃に、おばあちゃんから
一生分の愛情をもらったなあ。」と話す。
 私も昨年、孫ができて、おばあちゃになった。
                              (2005.11.01)

   祖母と私(2)

 高校卒業を控えたある日、四国の善通寺にある看護学校の
合格発表があった。
その当日、私は、祖母を善通寺
(お寺も地名も善通寺)まで誘い、一緒に合格発表を見に
行った。
18歳と75歳の道行きである。
 四国八十八ケ所のお寺である善通寺や金蔵寺は、幼い頃から、
祖母に連れられてよく訪れた。

 私がまだ小学校入学前の頃、伯父は金蔵寺(お寺も地名も
金蔵寺)にある病院に入院していた。祖母は、お見舞いに
行くごとに、金蔵寺へお参りに行った。息子の回復を
祈っていたのだ。山門に立っている仁王さんが怖かった私は、
いつも目を瞑り、祖母に手をつないでもらって、一気に
駆け抜けた。境内から出てくるときもそうだった。善通寺では、
池の中の亀を見るのも、五重塔を見上げるのも楽しみであった。

そんな思い出のある中で、18歳の私は、祖母を善通寺へ誘った
のだと思う。

 看護学校は、善通寺の境内を通り抜ければ近道できる場所に
あった。発表を見に行く前にも、合格の番号を確認してからの
帰り道でも、二人並んでお参りをしたのを覚えている。
 私は、高校三年生になるまで、大学への進学を諦めては
いなかった。祖母は、いつも何も言わなかったが、私の気持は
わかってくれていたように思う。何も言ってくれないことも
うれしかった。
 看護学校の戴帽式の記念写真にも、祖母は母と並んで
写っている。四十人の生徒の中で、祖母が出席したのは、
私だけだった。些細なことではあったが、祖母は喜んで
くれていたと思う。
 善通寺の境内は、善通寺にいた三年間、バス停や駅に行く
ための近道に利用した。ちょうど、境内の真ん中を横切る
ように五重塔を通り過ぎて、駅に近い赤門へ出た。

 卒業後は、私は就職して大阪へ出て行った。

 祖母が亡くなったのは、私が子育てに忙しくしている
時期であった。風邪をこじらせて長く床についていた祖母を、
四国に帰り見舞った。祖母は、会いに来てくれたことを
とても喜んでくれた。

 亡くなったのは、その一週間後のことであった。知らせを
聞き、すぐに駆けつけた私は、看護師として、死後の処置を
させてもらった。八十八歳であった。

 今、祖母が生きていたとすれば、もう百歳はとっくに過ぎている。
 年の功で、私は、仁王様の顔も、しっかりと見つめることが
できるようになった。今でも、お寺やお地蔵さんの前を通れば、
手を合わすのは、祖母のおかげである。
 「もしも、祖母が今生きていたなら」と、途方もないことを
時々考える。善通寺だけでなく、きっとお大師さん
(おだいっさん)の眠る高野山へも連れて行ってあげただろう。
                    (2005.11.15)