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もみの木エッセイ集

 
桜への想い

 通勤途上のお寺の掲示板に、「花あれば西行の日と思ふべし」という句が書かれ、
橋の袂にある桜の木にも仁徳御陵前の木々の一枝、二枝にも桜が咲き始めた。
いよいよ桜の時期である。
 でもどうして、桜の咲き始める頃はこんなに寒い日が多いのだろうと思いながら
いつも桜を見つめる。花冷えという言葉があるが、この時期の冷たさは、私の
桜への想いにも似ている。
 小野小町は「うつろうものは人の心の花」と詠み、芭蕉は「さまざまの事思い
出す桜哉」、業平は「世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」と
詠んだ花である。
 私も、人生の一年毎の区切りに咲き、その時々の喜びと哀しみを見つめ続けて
くれていた花であるがゆえに、複雑な想いと重なる。
 「日本人の心と桜」等と、桜は人々にいろいろな想いを与えてきたが、万葉集の
時代の頃から、日本人に好まれてきた花である。
 近年、私が毎年訪れるのは、西行縁の弘川寺や吉野山である。毎年一度は観
ておかなければ落ち着かない桜なのである。
 西行は、桜の花を憧れの人物のように詠んでいる。「如月の望月の頃」といえば
涅槃会である。西行という名のとおり西の浄土へ行くということなのであろうが、
「花のもとにて春死なむ」とは「愛しい人のもとへ行きたい」と詠んでいるようにも感じる。
 今年は、友人たちと、西行と兼好縁の法金剛院―双が丘―仁和寺へと行く予定である。
 兼好といえば、やはりあの桜談義である。兼好の桜の見方は、「花は盛りに、
月は隈なきをのみ、見るものかは(花は満開の花だけを、月は一点の曇りのない
月だけを見るものであろうか)」(137段)という美意識にそっている。満開の花・
満月だけが、花・月の美ではない、という有名な主張は美のあり方を論じていながら
実は恋という人事の情趣も論じている。兼好は、恋の思想を桜や月で語っている。
しかし、この兼好の美意識の主張に対して後の本居宣長が「人のまことの情」では
ないと批判しているのも面白い。兼好は、心の持ち方を説いているのだと思うが、
やはり満開を過ぎた桜は悲哀(あはれ)感がある。
 「桜を生物学的に考えれば、花が咲き、散り、また再生していくのは一つの過程に
過ぎない。華やかな時期であろうが、目立たない時期であろうが、それぞれの過程は
それぞれに大切な時期である。」
 等と、私自身の心に言い聞かせてはみても、今年も満開の桜を見上げれば、
桜の生命力溢れる美しさに陶酔してしまうだろう。そして、散り際には、「花は盛りに、
月は隈なきをのみ、見るものかは」と、呟いてはみるけれど、多分、寂しい気持に
なることは免れないであろう。
 桜は心穏やかならぬ花なのである。 
                          2006/04/04

 
明日香の風 

 日帰りで何度か明日香へ行ったことがある。石舞台とか万葉文化館へなどである。
 5月の連休中、1泊2日の日程で、また明日香へ行ってみようと思った。私にとっては、
明日香はまだまだ不可解なところがたくさん残っている場所だからである。
 近鉄橿原神宮前から出発して散策することになった。車で周ることも、
かめバスに乗ることも、自転車で周ることも考えたが、古の飛鳥に近づく
ために歩いて周ることにした。
 コースの予定は、「豊浦の宮跡−甘樫丘−飛鳥坐神社−飛鳥寺−
飛鳥民族資料館−酒船石−伝飛鳥板蓋宮跡−岡寺−川原寺跡−橘寺−
二面石−天武・持統天皇陵−亀石−猿石−飛鳥駅」である。
 豊浦寺跡辺りで、遺跡見学の数十人の大学生に出会った。豊浦の宮跡という
石碑は、民家の玄関のドアから数十センチ離れたところに遠慮がちに建っていた。
推古天皇が即位したという宮跡である。
 甘樫丘からは、大和三山や飛鳥の宮跡、周囲の山々を見渡すことができた。
丘の上に豪邸を建てて、飛鳥一帯を見張っていた蘇我氏の気分になって、
お弁当をいただいた。
 甘樫丘の上には、志貴皇子の歌碑がたっていた。

 釆女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く  (万葉集1−51)

 明日香のマップには、「飛鳥寺は飛鳥の臍である」と書かれてあった。飛鳥寺には、
日本最古の飛鳥大仏(本尊釈迦如来像)がある。蘇我馬子も中大兄皇子も
中臣鎌足も拝んだ大仏である。今年建立1250年を迎える奈良の大仏より
約150歳も年上である。
 飛鳥寺のすぐ横には蘇我入鹿の首塚(供養塔)があった。
 門前のお店屋さんには、飛鳥の人が食べていたという蘇というチーズがあり、
試食させていただいた。民宿では、クリームシチュー風の飛鳥鍋をいただいた。
生姜味でいただく、思ったより美味しいお鍋だった。
 次の日は、途中、大阪吹田の小学5年生くらいの男女4人のグループに出会った。
地図を片手に、元気な声で、
 「亀石へはどう行ったらいいですか」
と私たちに尋ねてくれた。目指すところが同じだった。足の速い彼らは、先に着くと、
「ここが鬼の雪隠です」
などと、大きな声で案内をしてくれた。
 道端にある無人の出店の金柑を買って、子どもたちと分け合って食べた。
 明日香は、遺跡の関係で、建築の規制がされているからだと思うが、田園風景が
広がり、四方の山々がよく見えた。
 五月の鯉幟が、大きな空間を雄大に泳いでいた。飛鳥の風の中に思う存分体を
くねらせて踊っていた。私は、暫く足を止めて、見つめてしまった。
 志貴皇子の歌と同じ明日香の風だと思った。
                             2006/04/07