もどる

        もみの木エッセイ集

 ◎ 二上山の家持像

 11月のジャフメイトのパンフレットに、富山県の氷見ブリの水揚げの
写真が載っていた。
 氷見線に乗って越中国庁跡を訪ねたのは、昨年のちょうど同じ時期であった。
 およそ1260年前、家持は越中に5年間滞在し、万葉集に収められている
家持の歌479首の内の220余首が当地で詠まれた。彼の人生の中ででも
一番輝いていた頃ではなかっただろうか。
 下り坂の天気の都合上、一日目は氷見線に乗って雨晴海岸へ行った。
富山湾越しに立山連峰を見るためである。家持が立山を歌った歌もある。
 期待に反して、曇った空には、立山連邦の姿は見えなかった。
 雨晴の砂浜には、義経が雨宿りをしたという義経岩があった。奥州に落ち
延びていく義経も、行く手を阻む山を見上げたのであろう。
 その日は、富山市内に宿泊した。翌朝、ホテルの窓に目を向けた時であった。
えっ?と思って、窓に近づくと、なんと、うっすらとではあるが、立山連峰の稜線が
見えていた。3千m級の山々は、迫って来るような量感があり、圧倒される
思いであった。
 二日目の日も、また朝から氷見線に乗り伏木へ行った。伏木は、越中国庁跡や
家持が住んでいた国司館があったところである。国司館跡には、この地で
詠まれた歌碑があった。

 朝床に聞けば遥(はる)けし射水川 朝榜(こ)ぎしつつ唄ふ船人   家持

 家持が住んでいたところと射水川とは、舟をこぐ人の歌が聞こえるくらいに
近かったことが分かる。 
 市内には、いくつかの家持の歌碑があった。国庁跡がある勝興寺には、
「海行かば〜」の歌碑もあった。天皇の警護の役目を果たしてきた大伴氏の
誇りの歌である。
 高岡万葉歴史館を見学した後、小雨が降り始めた中、車で二上山の
万葉ラインを訪れた。家持像を見るためである。右手に筆を持ち、左手には
記録をとる和紙のようなものを持っているのは、歌を詠んでいる姿であろうか。 
 何処かで出会ったことがあるような青年家持の顔であった。見つめていると、
多分このような人だったのかもしれない、と思われてきた。
 高岡では、海から吹く北東の風を「あゆの風」と呼ぶそうである。家持像は、
あゆの風が吹く二上山に佇んでいた。高岡の旅は、家持像に会うことが
出来た旅でもあった。
 その数ヶ月後の中西進先生の万葉集講座の時であった。
 家持の体型のお話のとき、中西先生は、
「高岡の家持像は、確か建立当時の市会議員さんか誰かをモデルにしたのでしたね。」
と言われた。
 私はその言葉を聞いて、しばらくがっかりしていた。しかし、よく考えみると、
誰も家持の顔なんて知らないのだ。もしかすれば、似ているかもしれないのだ。
                     (2006年10月30日)

 ◎  
様々のこと思ひ出す柿

 秋も深まってくると、熟した柿を食べながら山辺の道を歩きたいなあと思う。
そして、JR天王寺駅東口の露天で売っている柿のことも思い出す。
手書きで「九度山の柿」と書いてある。わざわざ「九度山の〜」と書いてあるのは、
和歌山の九度山の柿もブランド商品なのだろう。
 九度山といえば、私は、高野山の麓にある九度山の慈尊院に行ったことがある。
弘法大師の母公が、息子の開いた高野山を一目みたいと、高齢にもかかわらず、
四国の善通寺から出てこられたとき、高野山は女人禁制であったために麓に
留まって、信仰をされたというそのお寺である。大師は約20kmの道を歩いて、
月に九度母親に会いに来られたということでこの名前がついた。「九度山」という
言葉には、暖かい響きが感じられる。
 昨日、天王寺の放送大学へ行ったとき、予測どおり、今年も駅前で九度山の
柿を見つけた。重たいだろうなあと思いながら、大きなひと盛を買った。露店の
おじさんは、夕方近くになっていたせいか、少しおまけをしてくれて、二重の
ビニールの袋で包んでくれて「はい、頑張って持って帰って頂戴。」と、
手渡してくれた。私は、電車とバスに乗り継いで持って帰ってきたが、体重計で
量ってみると4kgあった。
 柿といえば奈良、法隆寺、そして万葉集の柿本人麿等などを思い浮かべる。
 十年くらい前に、橿原の万葉フォーラムへ行ったとき、ある講師さんが、
柿の話をされた。柿本人麿の時代には、柿は渡来品であり、当時は珍しい
植物であったこと、そして、柿本人麿は、その柿の本に住んでいた人麿さんで
あったのだろう、ということ。「柿のもと火止まる」ということで、火難除けに、
柿が植えられるようになったことなどのお話があった。そのお話の中で知った
ことであるが、奈良県知事のお名前も、柿本さんとのことであった。
冗談のような口調で、「柿本さんという名前であるから、奈良県の知事さんに
なられたのだと思います。これが、杉本さんや松本さんという名前では、
知事さんには当選しなかったのではないかと思います。」と話された。
フォーラムの参加者は、皆笑いながら聞いていたが、なるほど、そうかも
しれないと頷いた人は、私だけではなかったと思う。確か、現在も柿本知事である。
 また、中西進先生の万葉集の講座の中でも、
昔は柿の甘味は貴重なもので、褒美の品物の中にも、柿の数が書かれて
いるというお話があった。
 私は、最近毎朝、朝食の準備が終わった後、時間に追われながら軟らかく
なり始めた柿を数個選んで皮を剥いている。
 「さまざまのこと思ひ出す桜哉」の句ではないが、さまざまのこと思ひだす
柿なのである。
                        (2006年11月06日)