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   もみの木エッセイ集


◎ 
二人目の孫

 「例えば二人目の子どもを出産するときは、萌乃果はどうすれば 
 いいでしょうか?お父さんもお母さんも仕事がありますしね」


と一年ほど前に娘婿に聞かれたとき、

「大丈夫ですよ。その時は、近くの保育所で一時保育をして
 もらえばいいですから」

と私は答えていた。

 そして、その時期がこの一月にやってきた。

 出産予定日の約一か月半前から二歳の長女を連れて娘は松江から
里帰りしてきた。そして、時期を同じくして同居している母が転んで
肩を骨折し、手術後一ヶ月間の入院となった。

 仕事の帰りには、母の病院へも顔を出し、孫中心の賑やかな
忙しい生活が始まった
 
 出産予定の三週間前から、孫は慣らし保育をするために、近くの
保育所へ通い出した。小さな共同保育所である。しかし、出産日が
近づくにつれ、いろいろな不安が出てきた。


 帝王切開の場合は予定日が分かるが、普通分娩の場合は予定日の
二週間前後は出産の可能性があるため、予定が立たないのである。

 夕方からの出産になれば、その日の夫の勤務の都合によれば、
私は孫を連れて病院へ駆けつけなければならないことになる。
子守をしながらでは介護をすることもできない。

 多々の最悪な場面を想定した結果、孫の保育所へ相談すると、
もしもの時には、時間外保育で夜間も預かってくださるとの
ことであった。ひと安心であった。


 娘の陣痛が始まったのは、幸運なことに、日曜日の夕方であった。
しかし、その日は頼みとする夫も息子も差し迫った用事で出かけて
いた。早速、保育所へ電話をすると、日曜日の夕方であるにも
かかわらず、孫を預かってくれることになった。

 私は孫をタクシーで送り、とんぼがえりで娘とタクシーで病院へ
向かった。二度目のお産はやはり進むのが早く、入院して約三時間後の
午後九時過ぎに、
2900gの元気な男の子が生まれた。入院の連絡を
受けた娘婿は、松江から車を飛ばして午後十一時頃にやってきた。
夫は、同じく十一時頃に二歳の孫を保育所へ迎えに行ってくれた。
保育所へ行くと、孫は保育士さんの膝の上で、テレビを見ていた
そうである。


 なんとか心配していた二人目の孫の出産は終わった。初弘法の
日であった。

 私が勤務している保育所にも、第二子の出産のために、今月から
一時保育で一歳過ぎの子どもさんが入所された。公立保育所の場合は、
保育時間は昼間だけである。

 核家族も多く、仕事をしている祖父母も多い昨今、二人目の出産は
本当に大変だと実感した。少子化の時代ではあるが、出産時の生活を
考えただけでも、「もう二人目はやめておこう」と思う夫婦もあるだろう。

 駅前保育所は最近各地にできているが、出産時に利用できる病院前
保育所も必要であるとこの度は真剣に考えた。

                      (2007/02/02)

◎  
吉備の月

 2007年2月4日、岡山で「吉備の文化」の歴史シンポジウムがあった。
 主なプログラムは、中西進氏と上田正昭氏の「吉備の歴史と文化の伝統」の
対談と五木寛之氏の「歴史のまぼろし」と題する講演であった。

 二年前に、吉備津彦神社や備中国分寺を訪れたことがある。
吉備津彦神社には、上田秋成の雨月物語の中で有名な吉備津の釜があり、
長い回廊があった。吉備津の釜は、今も薪が焚かれてお湯が沸騰していた。
回廊は中国の龍尾を思い出させる長い不思議な回廊であった。
聖徳太子と天武天皇を尊敬していたという聖武天皇が諸国の平和を
願って建てた備中国分寺の五重塔には、大和を思い出す風情があった。

 4日の朝、片道3時間の高速バスに乗って岡山へ向かった。 
 中西先生のお話の中で面白かったのは、吉備という名前の由来である。
吉備は、真金(まがね=鉄)の国。吉備は「きび→きむ→きん」という発音になる。
Bの発音は⇔Mにもなる。例えると「sabisiiは samisii」にもなる。
よって、「吉備の国」は「金の国」、「黄金の国」、鉄を中心とした金を
産出する国である。という説である。吉備一族は金を名乗る氏族の王国では
なかったか。そこにはいち早く韓国伝来の文化が花ひらいていたはずである。
というお話であった。 

 上田正昭氏は、吉備の文化は朝鮮半島の影響を受けており、吉備津彦も
渡来した人ではないかと言われていること。総社市奥坂の鬼ノ城は、日本の
朝鮮式の山城を代表する城であること。7世紀後半の頃の城である。
 邪馬台国の問題は、うかつには言えないが、邪馬台国(北九州は前期)は、
後期には畿内に伸びてきた。2世紀後半に卑弥呼が擁立され、邪馬台国が
前期から後期に移ってきたときに重要なのは吉備であった。北の国の文化と
南の文化が混じわっている。というお話であった。

 1981年より3年間休筆して龍谷大学で仏教史を学ばれたという五木寛之氏の
お話は、幼い頃から九州の郷里でよく耳にしていた隠れ念仏についてであった。
九州南部の薩摩藩(鹿児島と宮崎の一部)と相良藩(熊本県の人吉地方)では、
300年余りのあいだ一向宗(浄土真宗)の信仰が禁止されていて、人々は
「隠れ念仏」と呼ばれる真宗門徒になって、命がけで信仰を守り抜いたというお話である。
 五木氏は、最近IT関係者や、先日もたくさんの外科医を対象に講演をされたそうで
ある。何故私の講演を聞きたいのかと依頼者に尋ねると、今、メンタルヘルスが
一番大切であると言われたそうである。

 講演後、岡山駅前から高速バスに乗り、講演で聴かせていただいた吉備の歴史や
日本人の心について考えながら、吉備(金)の月を見ながら大阪へ帰ってきた。
                       (2007/02/17)