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 もみの木エッセイ集 28


◎  情(こころ)あらなむ隠さふべしや

 最近、何故かこのフレーズが気にかかる。
 額田王の反歌の結句である。

 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠そうべしや   
                           (万葉集巻1―18)

(雲よ、三輪山をこのように隠すのか。せめて雲だけでも心あって
ほしいものを。隠してよいのか。)

 「日本書紀」では「天智六年の三月十九日に近江遷都」とあり、
天智天皇に伴って奈良から近江へ向かっていくときの歌である。
この都を離れたくないという思いが伝わってくる。
 昨年の夏、私は近江神宮初め蒲生野などを訪れたが、「何故、
近江遷都だったのだろう」と思いながら近江近辺を散策した。
 遷都については、「万葉集秀歌選」中西進著の中に、このように
書かれてあった。

〜当時は白村江の戦いの直後であり、国防を固めるために都を
近江に移したと言われ、私もそう考えた。これに対し、考古学者の
田辺昭三氏は別の説を立てている。わが国は1945年の敗戦後、
GHQ、すなわち占領軍の総司令部によって支配されていたが、
当時もそのようなものがあって、そこから都を近江に移せとの命令が
あり、やむなく従わざるを得なかったのではないか、というのである。
この発想は興味深い。〜

 「山を見る」ということについては、このように書かれている。

〜「ほめる」ことは「見る」ことと同じ意味であり、「見合い」という言葉が
あるが、これももとは男女がお互いに目を「見合う」ことで、相手を「ほめる」
ことであった。ここでは三輪山をほめ、いつまでも見ていたいし、最後まで
離れたくないのに離れざるを得ないという残念な気持ちが込められている。〜

 額田王は、時に応じて天皇に代わって、歌を作っている。この歌は、
三輪山が見えないことを憂えて歌ってはいるものの、都や人々の縁にも
決別しなければならないという残念な気持ちが感じられる。
 たとえ三輪山が見えたとしても、解消はできなかったと思うが、
せめても「見たかった」という思いなのであろう。
 人麻呂は、「靡(なび)けこの山」と歌ったが、共に大自然を動かす
ような心に響く表現である。
                        (2007.07.18)

◎. マサさんのこと

 75年前に49歳で亡くなったマサさんのことが、最近になって、私の家族の
中でクローズアップされた。
 マサさんは、当時、呉服の行商をしていた。
 和裁も得意で浴衣などであれば、その場で裁ってあげて、縫い方も教えて
あげて販売するという、しっかりものの商売上手であったらしい。
 そして、女手ひとつで二人の子どもを育てていた。
 事故にあったのは、昭和7年の暑い夏の日である。
 当時では新製品の揮発油のコンロを使っているときであった。側で揮発油の
入ったタンクを取り扱っていた人が誤って火を引火させたのが原因であった。
 爆発により、その人は即死、マサさんも翌日亡くなった。側にいた19歳の長女は、
背後より大火傷を負った。
 幸運にも当時8歳だった次女は、その場に居なかった。活動写真があるということで、
友達と一緒に遊びに出かけていた。
 自宅に帰ってきたときには、家の周りは人だかりで、本人は何があったのかわから
なかった。近くに嫁して住んでいた、マサさんの妹が、次女を見つけて駆け寄ってきた。
 マサさんは急死した。
 その悲しむ暇もなく、その後、大火傷を負った長女の治療が始まった。怪我の治療と、
引きつってしまった関節を動かすリハビリなどで約5年かかった。
 長女も次女も近くに住んでいたマサさんの妹さん達に面倒を見てもらった。
 当時、マサさんは、もうすぐ家を新築する予定であったので、幸運にも娘たちに
そのお金を遺した。
 長女の治療が終わり、次女が成人した頃には、そのお金はちょうど無くなっていた。 
 二人の娘はその後、それぞれに結婚し家庭を持った。
 長女は63歳で亡くなり、次女は現在83歳になる。
 マサさんの50年の法事は、孫も含めて皆で行うことができた。50年の法事は、
節目であると皆は思った。
 そして、2006年のある日のこと、またマサさんのことが、クローズアップされる
出来事が起こった。
 マサさん名義の土地が残っていることがわかったのだ。 史跡調査をするためにと、
役所からその許可をもらいに来られた。
 法務局で調べると100坪以上もある土地が、現在は道路になっていた。
 マサさんは、家を建てるために、すでに土地を買っていたのだ。死後74年経っていた。
 それまでは、誰もが知らなかった土地である。
 74年も放っておいた土地は、現在は、道路になってしまっていた。
 しかし、名義はしっかりとマサさんであった。
 現在83歳になる次女は、マサさんが遺してくれた土地があったという事実は、
自分のルーツを遡るようで、ロマンを感じると、話している。
 次女が生きている間に見つけてもらったことについては、マサさんも満足なの
ではないだろうか。
 私は、マサさんの孫にあたる。
 額縁に入ったマサさんの写真は小さい頃から見上げながら育った。
 私たちが、それぞれ元気に生活出来ているのは、ご先祖様のお陰である。
今後、どのようなことになるのかは判らないが、供養になるように、マサさんの
思いを考えながら、皆と相談していきたいと思っている。
                              (2007.07.29)