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もみの木エッセイ集 33
◎ にほんごであそぶ
「わたちのうえに ふるゆきは まわたのようで ありまちた」
「えっ?今、何て言ったの?」
「○#△@□― あきのゆうぐれ」
「それって 三夕(さんせき)? 西行やないの!」
三歳になったばかりの孫が突然に、日本文学の有名な触りを呟く。
最近、「にほんごであそぼう」という子ども向けのCDがあり、孫も車に
乗っているときなどは、ほとんどいつも聞いているらしい。車に乗ると、
CDを付けるように催促をするそうである。
先日、久しぶりに我が家に来て、遊んでいる時も、突然、
「あめにもまけずー」
とつぶやく。
「へ〜 宮沢賢治やなあ」
「これって、もしかして天才?」
と、一瞬、思ったりするが、落ち着いて、よ〜く考えてみると、三歳の子どもに
とっては、「あき=秋」ではない。「ゆうぐれ=夕暮れ」ではなく、「ゆき=雪」
でも「あめ=雨」でもないのだ。
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)
私も一緒に聞いていると、言葉の抑揚やリズムに楽しくなる。しみじみと
日本語ってすばらしいなあと思う。
大人は、言葉の意味や感情も受け止めながら聞いているが、
三歳の子どもにとっては、やはり歌っているような感覚の言葉の遊びなのだろう。
寂しさはその色としもなかりけり 槇(まき)立つ山の秋の夕暮 寂蓮
心なき身にも哀れは知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮 西行
見渡せば花も紅葉(もみじ)もなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮 藤原定家
今は、歌のような日本語でも、将来、「あきが秋」であり、「ゆうぐれが夕暮れ」で
あるのを理解した時、その言葉に込められたもっと面白い、奥深い日本語に
出会って欲しいと期待している。
(07.11.06)
◎ 小夜の中山
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
平安末期から鎌倉初期の歌人西行(1118〜1190)が、69歳で二度目に奥州を
旅した時に詠んだ歌である。彼の歌は、「新古今和歌集」には最多の94首が
入集している。その中でも、この歌は、代表作と言われている。彼は、
将門(まさかど)の乱を鎮圧した藤原秀郷(ひでさと)の子孫で、奥州藤原氏とは
祖を同じくしている。その縁を頼って、1186年に平重衡(しげひら)の焼き討ちで
滅んだ奈良東大寺の大仏鍍金のための貢金に奥州へ向かった。
私は、西行がこの旅の途中で、「命なりけり」と詠んだ「小夜の中山」をいつか
自分の足で歩いてみたいと思っていた。
平清盛と西行は1118年生まれの同年齢であり、若い頃は同じく朝廷に
仕えていた。 西行は、23歳で武士の社会を捨てて出家した。西行は出家後、
間もなく初度の奥州の旅へ向かった。この「命なりけり」の歌は、再度の旅で
詠まれた歌である。約五百年後には、西行を尊敬する芭蕉がこの小夜の中山で
命なりわづかの笠の下涼み
という句を詠んでいる。芭蕉が西行を慕って西行の足跡を辿ったことは
よく知られている。
そして、いよいよ、2007年11月、私は、西行の歌を訪ねて、念願であった
小夜の中山を歩くことになった。
掛川辺りの地理も交通の便も、全く知らなかったので、前もって下調べをし、
計画を立てた。西行MLの会員であり、「山家集の研究」というホームページを
書かれている阿部氏にも、ご助言をいただいた。同氏は、昨年、小夜の中山峠を
歩いてこられたので、よくご存知だった。
一人では心細いので、夫に同行を頼むと、即、断られた。老いては、山道を
歩くより、温泉旅行の方が良いに決まっている。それにもめげず、機嫌のいい
ときを見計らって頼むと、「車でなら」と言ってくれた。しかし、車ででは、
意味がないのだ。それではと、帰途には浜名湖へも寄ることを提案し、しぶしぶでは
あるが引き受けてもらった。
歩くコースは、体力や時間を考えて、初めは、小夜の中山に近い金谷駅から
出発する下りのコースを考えていたが、実は大切なことを忘れていた。
西行が歌を詠んだ同じ状況を設定するならば、掛川から日坂宿を通り、
小夜の中山峠を越える上りのコースを辿らなくてはならなかった。現場検証の
ようなものである。
以前受講した万葉集講座で、中西進先生が、「歌の詠まれた場所へ行って、
初めて、その歌が理解できることがある」というお話しをしてくださった。
計画案としては、掛川駅から事任(ことのまま)八幡宮までの約8kmは、
バスかタクシーで行くことにし、日坂宿から金谷までの約7kmは歩くことに決めた。
急な坂道があるので、雨が降れば、安全第一を考えて引き返す予定にした。
そして、登山用ステッキも持っていくことに決めた。
11月10日(土)は、予定通り早朝より出発した。前日の天気予報によると、
雨かもしれなかったが、浜名湖にて、宿泊予約をとっていたので、やむなく出発
することになった。
新大阪から午前七時過ぎの新幹線に乗り、浜松で乗り換え、午前九時半頃に
掛川に到着した。浜松駅を出発した頃から、ハイキング姿の人達が数名、
同じ電車に乗り合わせてきた。掛川駅改札口で、駅員さんに
「小夜の中山のハイキングコースの地図は、ありませんか」
と尋ねると、
「今日のコースの地図でしたら、お城の所で配っていますよ」
と言われた。
いったいどういうことなのだろう。
驚いて尋ね直すと、「本日、11月10日(土)は小夜の中山峠を歩く催しがある」
とのことであった。世の中には、こんな奇遇な、そして幸運な巡り合わせもあるのだ、
と思った。しかし、もう午前10時前であった。
駅から10分ほど歩いたところの掛川城・三の丸広場で、受付をしていた。
参加者はすでに午前8時30分から、出発していた。五月雨(さみだれ)出発である。
受付で頂いたパンフレットには、掛川市・島田市主催「東海道旅の詩人ウォーク
小夜の中山と西行&芭蕉の旅追体験」と書かれてあった。表紙には、
二度目に小夜の中山を越えて行った頃の老齢の西行とまだ青年の頃の
芭蕉の姿がアニメ調で描かれてあった。芭蕉は尊敬する西行の隣に、
かしこまって嬉しそうに立っていた。五百年という時空を超えた二人の姿である。
芭蕉は、「笈(おい)の小文」で、
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶に
おける、その貫道する物は一なり。
と書いている。
パンフレットにはスタンプ台紙も付いていて、掛川城、事任八幡宮、小夜の中山、
菊川の里、金谷駅の五ヶ所で押してもらうことになっていた。私たちは、まず
掛川城でスタンプを押してもらった。しかし、出発はしたものの、天候や
出発時間を考えると、これから15kmを制覇していく自信がなかった。
そこで、考慮した結果、初めの計画通り、事任八幡宮まではタクシーで
行くことにした。
事任(ことのまま)八幡宮の由緒には、「807年に征夷大将軍の坂上田村麿に
よって現在の場所に興されたとされ、願いが‘ことのままにかなう’と名声を馳せた」と、
書かれてあった。お参りを済ませた後、日坂宿に向かった。
日坂宿は、安藤広重の東海道五十三次にも描かれているとおり、坂道が続き、
街道沿いには、屋号のかかった家々が立ち並んでいた。
川坂屋という復元された旅籠を見学させていただいた。
日坂宿からは、急な登り坂が続いた。雨で濡れていれば、滑り落ちそうな急勾配の
ところもあった。小夜の中山とは、こんなにも大変な坂道だったのかと驚いた。
やはり登山用ステッキを持ってきてよかったと思った。路傍にある「小夜の中山」に
ついての説明書きには、次のように書かれてあった。
小夜の中山峠は、箱根峠、鈴鹿峠とともにその険しさをもって、東海道の三大
難所と言われていました。特に東の青木坂(箭置坂)、西の沓掛(二の曲り)の
急勾配は旅人を悩ませました。(中略)名称の由来は諸説があり定かでないが、
掛川誌稿には「日坂ヨリ菊川ニ至ルマテノ駅路ヨリ小夜中山ト云、其道両山ニ
夾マレテ、左右ノ谷間甚狭シ、佐夜ハ峡谷ナルヘシ、其中間ノ山ナレハ、峡谷ノ
中山ト名ツケタルヘシ、古ヨリ佐夜小夜ナル書ルハ皆假名ナリ・・・・・」と記されて
いる。
「小夜の中山」の名は古くから数多くの紀行文や和歌に登場します。西行法師が
69歳で峠越えしたときに詠じた歌(後述)がよく知られている。(略)
小夜の中山は、その険しさをもって、旅人を悩ませた難所だったのである。
人生僅か50年といわれた頃の69歳という歳は、現代人よりはるかに老齢で
あったことだろう。
登りきると、山々の斜面は見渡す限りの茶畑であった。整然と並んだ茶畑には、
お茶の白い花が咲いていた。「静岡はお茶の産地」ということが十分に納得できた。
しかし、当時の西行はこの茶畑の景色は見ていないのだ。日本でお茶を栽培
したのは、鎌倉時代の明恵上人であると言われている。彼はまだ少年期の頃、
老齢の西行に、歌話を聞いたということである。小夜の中山には、山賊に殺された
妊婦の「夜泣き石伝説」がある。当時は高い木々や草に囲まれた鬱蒼とした山中で
あったのだろう。
小夜の中山公園の入り口付近に、あの歌碑があった。
年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山
レンガを積み上げたような大きな円い歌碑である。この歌碑を写真で初めて
見たとき、どうしてこのような形にしたのかと、理解ができなかった。西行の内なる
心を詠んだ歌の碑は、私のイメージの中では、もっと目立たない簡素な、ごく
普通の形でもよかったのだ。
傍らにある掛川市の案内金属板を読むと、このように書かれていた。
この歌碑は
円位という西行の別名を/力強いがまろやかな性格を/大木の幹の姿に
重ねた年輪を/ 背割り切り口の鋭さに明晰さを/たて積みの煉瓦に
北面の武士の鎧を/時々陽光に輝く真鍮の文字に歌人の心を/池水に
映る影に再び越える気分を/池に囲む玉石に数珠を/いぶした煉瓦の
色は黒染めを/そして笠を外してひと休みする西行を/造形したものです。
この説明によれば、歌碑の姿は、西行を愛するたくさんの人達で考えた
末の形であったのだ。
公園の山の斜面には、寒いくらいの風が吹き抜けていた。掛川駅前の
コンビニで買ってきたお弁当の上にも、森羅万象の風が吹き荒れ、小夜の中山の
味がすると思った。
斜面を登っていくと、これも西行の代表作である歌碑があった。
風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬわが思ひかな
あいにく、曇った空には、富士山は見えなかった。街道沿いには、
芭蕉の句碑もあった。
命なりわづかの笠の下涼み
西行にゆかりの歌枕であるので、芭蕉としては必ず一句を詠まなくては
ならなかったのだ。西行の「命なりけり」とは全く違い、小夜の中山を歩いて
行くと、木陰が全くなく、僅かな笠の日陰の下に命があるというのであろうか。
小夜の中山の峠にある久延寺境内には夜泣き石が奉られていた。
<小夜の中山で殺された妊婦の側にあった石に、その霊が乗り移って
夜毎に泣いたため、里の人は『夜泣き石』と呼んだ。生まれた子は
夜泣き石のおかげで発見され、近くにある久延寺の和尚に発見され、
飴で育てられた>
という、夜泣き石伝説がある。お寺の側にある茶店には、子育て飴が売られていた。
歌枕で知られている小夜の中山には、壬生忠岑、紀友則、阿仏尼などの歌碑が
あった。 小夜の中山から間(あい)の菊川へ、そして石畳の金谷へと下って歩いた。
阿部氏のお話では、現在のコースは、西行が歩いた道とは一部変わっており、
もっと険しい道であったそうである。
今回、小夜の中山を歩くことにより、ほんの少しではあるが、西行の越えた
峠の大変さを実感することが出来た。僭越ではあるが、私は、西行の「命なりけり」と
詠んだ「小夜の中山」の歌を意訳してみた。
<この歳になってまで、このように命がけで越えなければならない難所の峠を、
また越えるなんて、ついこの間までは思ってもみなかったことだ。でも、この
歳で、越えることが出来るのも、元気で命があったから出来ることである。
感謝をしないといけないのかもしれない。そして、盧舎那大仏鍍金を果たす
ことは、国家の安泰を祈願し、人々の幸せを願うものである。それにしても、
また今回、難儀な役目を引き受けたものであるなあ。この乱世、生き残った
者の務めでもあるのかもしれない。私にできることがあれば、させていただ
こう。さあ、頑張ってわが人生の最後になるかもしれない任務を果たそう>
歩いた後の、私なりの感想である。
行程の前半はタクシーになってしまったが、掛川城でいただいたスタンプ台紙には、
五ケ所全てにスタンプを埋めることができた。
菊川の里では、地元の産物や手作りの食べ物が売られていて、一休みして
美味しいお茶とおはぎをいただいた。本場掛川の熱いお茶は、さすがに
美味しいと思った。
投句の催しも行われており、私もいくつか詠んできた。
日坂宿 西行・芭蕉の 秋さがす
命なり 白き茶の花 さや峠
やはり「命なり」を入れた。
終点の金谷駅では、参加賞として、「命なり」と書かれたバッチをいただいた。
笠をかぶった西行らしき人が筆を持った姿で描かれていた。
念願の小夜の中山を、思いもよらず、たくさんの人たちと一緒に越えることができた。
「掛川市、島田市の皆様、西行さん、芭蕉さん、本当にありがとうございます」と
感謝しながら金谷駅から帰途についた。
後日、ある方に、この旅のお話をすると、「西行が呼び寄せたのかもしれませんね」と
言ってくださった。
私は一瞬、はっとして、「そのように考えれば、楽しいな」と思った。
(2007.12.21)