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もみの木エッセイ集  34

◎  
お姉ちゃんはドキンちゃん?
            
 三歳の孫娘は、最近、アンパンマンに夢中だと娘から聞いていた。久しぶりに
会う孫は、アンパンマンのテレビが始まると、娘の手作りの固定椅子に座って、
真剣な表情で見ている。
 見終わると、アンパンマンの踊りである。部屋の真ん中にアンパンマンの
人形をおいて、歌いながら走りまわる。ただし、歌詞はつぶやいているが、
メロディにはなっていない。
 ドキンちゃんが出てくる歌では、短い足を内側に交代でぴょこんぴょこんと
上げながら、「ドキドキさせるよ ドキンちゃん」というような歌詞で歌っている。
ドキンちゃんの歌も面白そうであるが、そういえば、「アンパンマンのマーチ」の
歌も面白い。子ども漫画の主題歌であるにも関わらず、生き方を歌った
哲学的な歌である。

そうだうれしいんだ生きるよろこび
たとえ胸の傷がいたんでも
なんのためにうまれて なにをして生きるのか
こたえられないなんて そんなのはいやだ!
今を生きることで 熱いこころ 燃える
だから 君はいくんだ ほほえんで
そうだ うれしいんだ 生きるよろこび
たとえ胸の傷がいたんでも(略)

 もう、十年くらい前になるが、アンパンマンの作者のやなせたかしさんの
講演を聞かせていただいたことがある。日本小児保健研究会が高知で
行われたときである。その時、やなせたかしさんは、子ども向けの漫画では
あるが、まずは、保護者であるお母さんの心をつかむことが大切である、
ということを話された。そして、アンパンマンのマーチの歌詞も、子どもには
理解が出来ないが、母親の心をつかめば、親が子どもに漫画を見せたり、
子どもを連れてアンパンマンミュージアムにもやってきたりする。というお話
だったように思う。高知県に開設されたアンパンマンミュージアムにやってくる
親子は、皆、にこにこしてやってくるそうである。
 このたび、孫が歌っていたドキンちゃんの歌詞の歌を調べてみると
、「勇気りんりん」という歌のようである。

勇気のすずが りんりんりん
ふしぎなぼうけん るんるんるん
アンパンしょくぱん カレーパン
ジャムバタチーズ だんだんだん
ルンルンかわいい おむすびマン
ゴシゴシみがくよ はみがきマン
目だまがらんらん ばいきんマン
それいけぼくらの アンパンマン(略)
ドキドキさせるよ ドキンちゃん
やさしいかおの ジャムおじさん
バタバタはしるよ バタこさん
みんながだいすき アンパンマン

 「アンパンマンのマーチ」は他人のために身を呈するアンパンマンの
生き方を歌った歌であるが、「勇気りんりん」も、母親にも子どもにも
勇気を与える歌である。
 それにしても、アンパンマンの漫画を見てみると、ドキンちゃんは愛すべき
わがままキャラクターである。

 もうすぐ一歳を迎える弟は、アンパンマンやドキンちゃんの踊りを踊って
いるお姉ちゃんの顔を見たり、玩具などを見ると、にこにこして、這ってくる。
両手は、内側にかいてはいるもののバタフライのような速度で急突進してくる。
 姉は、自分の歴史上から考えても、玩具は自分一人のものと思っているので、
遊んでいる弟の手から、すぐに取り上げてしまう。
「ゆうちゃん、さわっちゃだめよ。お姉ちゃんのおもちゃっ。ゆうちゃんは、
見てるだけよ」
 場合によれば、突進してくる弟を見て、急にふすまを閉める。時には、
体がはさまれそうになり、弟は、「わーん」と泣いてしまう。
「ほのか。だめでしょうっ。あぶないでしょう。ゆうちゃんにかしてあげなさい」
母親の言うことに対しては、日常のことであるせいか、あまり効果はないが、
「ほのか。なにしてるの!ゆうちゃんにも、かしてあげなさい!」
と、たまに父親に言われると、一瞬、泣きそうな顔はするが、それでも
継続的には効き目が無い。
 姉は、特に大事なアンパンマンの小物類は、かごやナイロンの袋に入れて、
弟が近づけばすぐに持ち運びができるように、対策を考えており、弟も、
姉の思惑などには全く関係なく、姉の隙を見つけては出ている玩具で
遊んでいる。姉がいなければ、アンパンマンの絵本なども、1枚1枚、何回も
根気よくめくっている。気がつけば、暗い部屋に這っていって、遊んでいたりする。
 私は、姉が昼寝をしているとき、弟を抱っこして、斜面にボールを落とす玩具で
遊ばせていたが、途中で起きて来た姉に、肝心のボールを取り上げられてしまった。
「ほのかちゃん、あなたも赤ちゃんの時、この玩具でいっぱい遊んだでしょう。
ゆうちゃんにも貸してあげなさい。ほのかちゃんの玩具、もう、買ってあげないよ」
 これも、効き目が無いような言い方である。しばらくは、弟と付き合っていく上での
姉としての心の葛藤と、親娘の話し合いは続くだろう。
 娘の家から帰ってきても、電話口で話している背後から孫娘の歌が聞こえてくる。
「ドキドキさせるよ ドキンちゃん」
テレビで、「勇気りんりん」の歌を一度聞いてみたいと思っている。
                         (2007.12.21)

◎. 
サンダカン八番娼館を読んで (ノンフィクション)

 この著書は、今から約30年前に上梓され、映画化もされた。当時、私は、
この本も映画も見なかったが、週刊雑誌で、映画のあらすじだけは読んだ
ことがある。
 映画では、主人公の作家役を栗原小巻、おさきさん役を田中絹代が演じた。
田中絹代の熱演は、当時の話題となった記憶がある。振り返れば、ノンフィクション
というより、一物語のように受け止めていた。
 そして今回、この「サンダカン八番娼館」という本を読んでみて、ノンフィクションと
いう血のかよった生々しさに衝撃を受けた。
 私は、この本を読み進めていくうち、底辺女性史という観点から、このような本を
書かれた著者の生き方にも興味がわいてきた。
 著者は、どういう動機で、どういう思想で、このような本を書かなければ
ならなかったのだろう。著者は、この著書の最後の章で、
〜九州天草から簇生してきた「からゆきさん」という存在を底辺女性の典型で
あると規定した。彼女たちがこの世に出現してきた理由を追及することは、日本の
底辺女性そのものの生み出された理由をあきらかにすることにほかならないー
と言えるであろう。〜
 また、他の章でも、
 〜近代日本百年の歴史において、資本と男性の従属物として虐げられていた
ものが民衆女性であり、その民衆女性のなかでももっとも苛酷な境遇に置かれて
いたものが売春婦であり、そして売春婦のうちでも特に救いのない存在が
からゆきさんであるとなれば、ある意味で、彼女らを日本女性の原点と見ることも
許されるのではなかろうか。〜
とも書かれている。
 著者は、この本を書くにあたっては、歴史資料や個人の自伝、かつて外務省や
農商務省が官庁書類としてまとめた様々な調査文書、民間団体が出版した
開拓史や個人の記録なども参考にしながら裏づけをとり、結論を出していっている。
 著者がこのノンフィクションを書こうとしたきっかけの一つは、著者が天草を
訪れた時、天草の崎津の天主堂の祭壇に石像のごとく正座して動かない、
年老いた農婦を偶然に見たとき、
「この声無き祈りを聞き分けること。それが女性史研究を志す私の仕事なのだ。」
と思われたことである。
 その後、これもまた偶然にもおさきさんという老婦人に会ったことも動機になった。
「からゆきさんについて調査をするならば、その人たちのほとんどは、もう高齢に
なっているので、今しか調査が出来ないこと」「今、自分がその使命を担って
いること」「幸いにも、著者の夫は、児童文化の研究者であり、子どもと共に
女性も解放されなければならないという思想の持ち主で、その立場から著者の
女性史研究を理解してくれていたということ」などが、著者に今回の調査の
決心をさせた。著者にも小学校三年生の娘がおり、母親としては、将来の子ども
たちのためにも、女性史研究を進めていこうという思いもあったのではないだろうか。
 著者は、おさきさんと、偶然にも知合い、自分の身分も明かさないで
、おさきさんが「からゆきさん」であった、との確信を強めて、彼女の過去を
聞きだすために共同生活をはじめる。おさきさんの家は、今にも崩壊しそうな
あばら屋で畳は腐ってムカデの巣と化していた。井戸もなければトイレもなく、
ひと月を、息子から送られてくる四千円の金で生きていた。 国が出す生活保護費
だって、約七千円という時に、彼女はたったの四千円で命をつないでいた。
しかも、幾匹もの捨て猫に、「これも、命あるものじゃけん」と言って餌を扶持していた。
 おさきさんは、10歳のとき、女衒(ぜげん)の口車を信じて、東南アジア
(北ボルネオのサンダカン)へ行き、13歳で客をとらされた。 借金はいつの間にか
ふくれあがっていた。13歳のおさきさんにその借金の重みがズッシリとのしかかり、
外国人相手の娼婦として、地獄のような生活を送る。病気になっても、仕事を休む
ことはできなかった。20年あまりの歳月の後、頭の病になり、日本に帰される。
兄は、おさきさんの送ってくるお金で家を建て、所帯を持っていたが、その後、
母は死に、兄も「からゆきさん」であるおさきさんの外聞を気にして、避けるように
なっていた。おさきさんの送金で建てた家ではあっても、居場所はなかった。
天草も、もはや故郷ではなくなっていたのだ。
 その後、満州に渡り、結婚し、男の子を産む。敗戦後、すべての財産を奪われ、
命からがら、日本に戻り、京都に住み始めたが、夫も亡くなる。息子が20歳を
過ぎた頃、息子はおさきさんに、一人で天草へ帰るようにいった。
「からゆきさん」であった母を恥じ、結婚するのに、邪魔になったのである。
帰郷した天草でも、村びとから差別の目を向けられ、貧しい生活を強いられていた。
 著者は、自分の素性も明かさず、目的も告げないで、おさきさんと3週間の
共同生活を行ったが、その間、おさきさんは、突然、転がり込んできた彼女に
何も訊ねなかった。著者には、顔に幾つかの傷があり、それは、通り過ぎる人が
振り返って見る程の傷であった。共同生活最後の日に、著者は、おさきさんに、
「3週間もの間、なぜ自分の身の上について訊かなかったのか」とたずねると、
「おまえが話さんものを、どうして、他人のうちが訊いてよかもんかね」と言われた。
おさきさんは、結果的には自分が取材されている側とも思わないで、著者のことを
気づかっていたのだ。その言葉の優しさに、著者は泣き崩れた。
 私がこの本を読んだ後、著者に興味をもち、2001年に発行された
「サンダカンまでーわたしの生きた道」という同著者の本も読ませていただいた。
 著者である彼女は、女優志願であったが、26歳の時、ようやく雑誌のモデルで
活躍しようとした矢先に、暴漢に襲われ 顔に7ケ所、縫われた針の数は68針と
いう傷を負い、かばった両手にもたくさんの傷を負った。治療費と生活費のために、
働かないといけないのであるが、面接選考で不採用とされる。ようやく雇って
くれても、仕事はというと清掃、それも主としてトイレの清掃であり、両手に受けて
いた傷による引きつりのために、重いバケツをもつことも、モップを自在に
使うこともできなくなる。もう、生きていく上では、もうこれ以上、立ち直れない
くらいの痛手や絶望感を受けている。主治医からは、今の医学をもって治療しても
完全に元どおりにはならぬ以上、あなたが、(宿命)として引き受けるほかはない
でしょう。ひとつ、「傷痕も身の内」と思 って、人生を普通に歩いて行って下さい。
それが、医師としてのわたしの気持なんだね-
 と言われる。そして結婚後参加していた「女性問題・女性史」を研究している
定例会ででも、あるエリートの中の更にエリートである女性が、彼女の心の
痛みにも気づかずに、どうしてこのような傷ができたのかと、顔の傷痕を
指でなぞるという、彼女にとっては耐えられない事件も起きた。
 おさきさんが彼女に、何も聞かないという一種の思いやりは、彼女の心に沁みた
のであろう。女性として、人間として、人に話しても癒えることのない苦悩を抱いた
ことがある彼女であるがゆえに、誰よりもこの思いやりに感動したのではないだろうか。
彼女が負った顔の傷痕だけではない心の傷痕は、底辺の女性史を研究すると
いう動機にも強く繋がっていたのではないだろうか。著者には、他人の心の
痛みを理解しようという思いやりが感じられる。
 次に、取材の仕方について、考えてみたい。
 「今しかない」「この機会を逃しては出来ない」「ノンフィクション作家としての、
伝える使命」という著者の意気込んだ気持もわからないではない。しかし、
自分の身分も目的にも明かさず、取材を始めている。取材方法については、
このように書かれている。
 〜おさきさんと共同生活をし始めた時、初めの1週間、10日間は、著者の
質問に対しては、はかばかしい返事をしてくれなかった。村人たちも、著者の
正体を詮索し、噂しあった。そして、一緒に暮らしていくうちに、おさきさんは、
著者を自分と同じ立場の人間と見、人生の先輩としてこれだけのことは話して
置くといった口調で話してくれるようになった。このような関係になって、自分の
生い立ちやサンダカンでの娼売の話をしてくれるようになった。著者は、
おさきさんの前では、メモをとれないので、一人になったときに、必死の勢いで
便箋に書き付けると、村のポストに投函し、東京の夫の元へと送った。そして、
帰郷後、著者は、おさきさんから聞いた人々のことを裏付けるために、
各人の戸籍謄本やその他の資料を調べて、音だけで聞いた人名を可能な
限り漢字に復元した。〜
 と書かれている。このノンフィクションは、多くの人に衝撃を与えた。
「からゆきさん」は、女性史において、忘れてはならない出来事である。しかし、
この取材方法においては、疑問が残る。結果としては、あまり問題には
ならなかったのかもしれないが、後味が悪いと思うのは、私だけであろうか。
 他人の過去、それも、出来れば隠しておきたいと思う惨めな過去を、
話してもらうには、突然、訪ねて行って話を聞こうとしても、無理なことで
あっただろう。このように、お互いに気心が判り合い、同じ立場の人間と
見てもらってからの方が、聞き取りやすくなるというのは、理解できる。
身分も明かさず、性急に取材を行った理由としては、著者の持っている
時間の制限や経済的な都合もあったのかも知れない。しかし、目的も話さず、
他人の好意に甘えて、取材をするというのも、プライバシーや人権ということを
考えると、納得し難いことである。できれば、途中からでも、おさきさんだけには、
取材の目的や理解を求める話をしてもよかったのではないだろうか。
 著者も、この取材方法については、決して納得をして行っていたのではないと
思われる。この取材後、四年という年月を経て、やっと出版した、という
経過を見ても、窺われる。取材方法について省み、発表方法についても模索
していたのではないだろうか。そして、多分、この取材を通して知りえたことを元に、
その後、取材以前よりも熱心に、資料やあらゆる方法を講じて底辺女性史に
ついての勉強をされたのだと察する。
 数年後、著者が出版しようと決心した時のことが、「サンダカンまでーわたしの
生きた道」にも書かれてある。
 最初に原稿を持って行った雑誌社では、「‘ある海外売春婦の告白’として、
出版しましょう。きっとベストセラーになりますよ」と言われ、エロティシズムを
強調するよう、原稿を書き換えられた。しかし、それは作者の意図すること
ではなく、原稿を一時は預けたものの、原稿を取り戻し、著者が初めに書いた
そのままの原稿で、出版した。あくまでも「底辺女性史研究」という形であった。
紀行文でもなかった。
 著者の性急で、体当たりとも思われる行動で取材されたノンフィクションでは
あるが、女性史上、貴重な記録であると思う。当時の一般の読者にも大きな衝撃を
与え、問題を投げかけた。
 しかし、現在もそうであるが、詳しく具体的に書けば書くほど、ノンフィクションには、
個人のプライバシーや人権を守るという問題が出てくる。「書く権利」「知らせる権利」
「知る権利」等など、それぞれの言い分や立場があるが、各方面に配慮しながら、
自分が書く目的や観点をはっきりとさせて、表現していくことの大切さを考え
させられた。
                         (2008年01月13日)