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もみの木エッセイ集 35
◎ 預けていた一日
還暦を迎えた、2008年お正月に、四国の故郷K中学卒業生の
同窓会が開かれた。
2007年秋、幹事さんからの案内状が届き、「一度、出席されては
いかがですか」と、お電話もいただいた。私は、中学校を途中で転校
したので、卒業名簿には載っていなかったが、「クラス外」ということで、
近年、名簿に載せていただいたところであった。
前回は、五年前に開かれ、出席された友人から集合写真も送って
いただいた。名前の判る友人もいたが、名前は覚えているが、全然
判らない顔もあった。年賀はがきを交換している友人にも、約46年間
会っていなかった。
初めは、浦島太郎状態になることが不安で、出席することを躊躇して
いたが、「今回を逃せば、もう会えないかもしれない」と思い直して出席
することに決めた。
正月の3日、午後4時からの同窓会であった。84歳になる母がもっと
元気であれば、家族揃って、里帰りするのであるが、現在は車で往復する
にしても、体力的には無理であった。結局、日帰りで、私一人で電車にて
往復することになった。
同窓会に出席する準備としては、古いアルバムを押入れの奥から出して、
幼稚園、小学校の写真をコピーした。写真の昔の顔と見比べれば、少しでも
思い出すかもしれないと思ったからだ。
同窓会の前日は、緊張のせいか、なかなか眠れなかった。早朝4時30分起床、
5時53分に最寄りの駅から電車に乗り、新大阪発7時32分の新幹線で岡山まで
行き、特急「しおかぜ」に乗り換えて愛媛県四国中央市川之江までの旅であった。
午前10時前には川之江駅に着いた。家族でお墓参りに帰るときは、車なので、
瀬戸大橋が出来て、こんなに鉄道が便利になっているとは思いもよらなかった。
まずは、駅の近くにある川之江八幡神社に行くことにした。小さい頃に歩いた
町並みとは違って、町は整然とし新しい建物が並んでいた。小学校の頃に
仲良く一緒に遊んだ友人の家の前を通りながら、「生まれた故郷で一生
住めるのは、氏神様に守られている、と聞くけれど、Eちゃんは守られて
いるんだなあ」と思いながら通り過ぎた。
八幡神社の鳥居の説明書きを読むと、「この鳥居は1651年の作で、
一石づくりの笠石が特徴で、規模、古さともに現存する鳥居としては全国で
二番目である」とのことである。また、神社の御由緒には、川之江を詠んだと
言われている歌が万葉集に出ている、と書かれてあった。次の歌である。
橘の島にし居れば川遠み曝さで縫ひしわが下衣 万葉集 巻7の1315
川之江は、土佐・金比羅両街道の接点にも位置し、瀬戸内海の文化圏の
中心として発展してきた様子も書かれてあった。神社の境内には、1846年、
13代土佐藩主山内豊照が参勤交代の海上安全を願って納めた土佐灯篭や
川ノ江献詠の碑があった。
もう川之江には帰って来られないかもしれない母のためにと思って、
八幡神社のお守りを買った。翡翠の勾玉のような飾りがついている腕輪の
お守りである。父の42歳の厄歳には、父母が揃ってお参りした神社である。
やはり、城山にも行っておきたいと思った。城山に登る前に、城山の麓に
ある仏法寺というお寺にお参りした。先代のご住職も奥様も亡くなられたが、
幼い頃にはお世話になったお寺である。城山の城主である川上但馬守の
お祭りの時には、私も檀家のお稚児さんとして御詠歌を謡いながら舞を
奉納していた。境内には、落城時、崖から飛び降りて亡くなったという
お姫様の供養塔もあった。境内は誰もいなく、ひっそりとしていた。
城山でお遍路さんの御接待を手伝っていた祖母のことも思い出した。
城山は、海に面した小高い丘のような山である。途中まで登ったが、
私の住んでいた家は、新しく建ったビジネスホテルの影に隠れて見えなかった。
町の南側にあった山々や田畑は無くなり、大きな道路が走り新しいマーケットや
新しい家々が建ち並び、大きな町が広がっていた。私が住んでいた頃の町は
もう無くなっていた。
しかし、遠くには、製紙工場の大きな煙突が見える。やはり川之江、
三島の町である。かつて、農家の副業として始められた製紙業は、
きれいな水が豊富な「河の江」で発展し、製紙、紙加工業においては、今や
日本屈指の生産量を誇っている。
町を歩いた後、従弟の家に行き、祖母や伯父伯母の昔の思い出話をした。
そして伊予三島にあるお墓参りにも連れて行ってもらった。帰りには美味しい
おうどんもいただいた。
そして、午後4時からの同窓会である。受付には、女の人が三人居られ、
私が名前を言って挨拶をすると、皆にこやかに「ああ、Yちゃん」と言ってくれた。
多分お互いに名のりあえば判り合える人達であるが、すぐには判らなかった。
受付の近くで、次々と来られる人達の顔を眺めていた。特に男の人達は、
年輪のある風貌をしていると思った。
幹事のF君が来られ、「今日は遠いのに、よう着てくれたなあ。明日から
初出勤やゆうのに」と言われた。側には幼い頃の面影を残しているI君もいた。
幼い頃、I君は皆をよく笑わせてくれていた。赤銅鈴之助のチャンバラの
真似もしていた。「なにをこしゃくな。名をなのれ」「赤銅鈴之助だ!」と
よくはしゃいでいた。このIさんが司会をしてくださった。小学校の4年間も
同じクラスだったW君も来られていた。W君のことは、友人から聞いていたので、
「W君、お仕事頑張っていて、偉くなられたんやねえ。」
と私が声をかけると、
「もう、退職したんです」
と言われた。今まで生きてこられた人生を表わされているような、いい顔
をされているなあと思った。
三人の恩師が来てくださり、中学1年生の時に新任で来られた体育の
K先生も来られていた。体操部がどんなところかも知らないで入部した私達を
指導してくれた女の先生である。
小学校1、2年生の時に仲良く遊んだEちゃんとも、城山に登って遊んだ
Sちゃんとも会った。家の近くに住んでいたS子ちゃんにも会って、思い出話を
した。お互いの家族のことも懐かしく話しあった。同じクラスのTちゃんや
KちゃんやMちゃん、Bちゃんとも話をした。くじ引きで同じテーブルについた
人達の中にも、「オルガン弾いてたよなあ」と覚えていてくれた人もいた。
隣の席の人から亡くなった同級生の話も聞かせてもらった。
約50名の出席者がそれぞれ1分間の自己紹介をすることになった時、
会いたいと思っていたMちゃんを見つけた。思わず、彼女の側に行って
「私A 覚えてる?」「あー、Yちゃん」と手を握り合って喜び合った。彼女は
私の席の隣に来て座り、にこにこ笑いながら「なんか顔を見てるだけで
幸せやわ」と言いながら話してくれた。話の内容も覚えてはいないが、
私も幸せだと思いながら、にこにこしながら話した。幸せだったあの日々が
蘇ってくるようだった。
初めは名前も顔も思い出せなかった幹事のFさんが、幼稚園時代は私
と同じクラスだったと言われていたので、持っていった写真を見せて、
「Fさんは、どこにいるの?」
と訊ねると、私の真上に立っている男の子であった
そして、名前を聞かなければ思い出せなかったA君が私の隣の席に座り、
このような話をされた。
「僕が小学校4年生の時、理科の時間に担任のK先生が “この問題の
答えが判ったら、クラス一、学年一やぞ”と言うたときに、T君でもH君でも
Yちゃんでもない僕が手を挙げて答えを言うたら、K先生がその時、
Yちゃんに、“Aはどう思う?”とYちゃんに訊ねた。そしたらYちゃんは
“私もそう思います”と言うてくれたんよ」
「そんなことがあったの?もう忘れたわ」
と私が言うと、
「だからな、僕はYちゃんのことをよく覚えてるんよ」
と話された。言った本人が忘れていることでも、それぞれの人には、
大切な思い出として残っているのだと思った。
恩師にお花と記念品をお渡しすることになり、私も体育のK先生に
渡させていただいた。その時、
「先生、お久しぶりです。体操部にいたAです。先生、覚えておられますか」
と言うと、
「ああ、よう練習しよったなあ」
とにこやかで穏やかな口調で話された。
全員で、記念撮影もし、3時間という時間は、瞬く間に過ぎていった。
私は、この同窓会に出席するにあたって、小学校6年生の頃、心の中で
思ったことを思い出していた。ある日、校庭で遊んでいる友人たちの
顔や学び舎を見ながら、
“もしかしたら、今が一番幸せなのかも知れない。もし、許されるなら、
この時期の一日でもいいから、後に取っておいて、遠い将来、その日を
過ごすことが出来ればいいのに”
と思ったことがあった。そんな夢のようなことを思っていたくらい
幸せな日々であった。
今回は、お正月であったせいか、家庭の事情で出席できなかった
同窓生も多かった。5年前の同窓会の後、お電話をいただいたY美ちゃんも
H子ちゃんも来られていなかった。年賀を交換し合っているHさんもK子ちゃん
にも会えなかった。その他お会いしたいと思っていた人達にも会えなかった。
Sちゃんは、私の家に泊まっていったらいいのにと言ってくれたが、予定通りに
20時過ぎの特急しおかぜに乗り、岡山で新幹線に乗り換え、シンデレラの
時間のように夜の12時には大阪府の自宅に帰り着いていた。
46年前への旅を、朝の6時前から24時までの18時間で成し遂げた。
翌朝母に、川之江から託ってきた土佐藩主御用達の柴田のモナカとカステラ、
そして私が受けてきた川之江八幡神社の腕輪のお守りを渡した。
母や、そして電話で東京や名古屋にいる妹たちにも土産話をしながら、
“やっぱり同窓会に出席してよかった”と思った。
数日経って、母が、
「この川之江の八幡さんのお守りやけど、これは、あんたの方が氏子やから
持っとったらええよ。私は今治の大山祗神社やから」
と言って、私に渡してくれた。
よく考えれば当たり前のことであったのに、私自身も川之江八幡神社の
氏子だということに気がついた。“そうか、私も氏神様に守られていたのかも
しれない”と思った。
今、同窓会のことを振り返りながら、“小学校のときに私が心の中で思った
あの一日、もしかしたら、同窓会の日のことであったのかもしれない。預かって
いてくださった一日だったのかもしれない”そんな風に思われてきた。
(2008年01月13日)
◎ 愛媛(長須)の西行庵
西行が四国で詠まれた歌で、私の好きな歌がある。
ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば松はひとりにならむとすらむ (西行)
松は独りになって寂しくなると詠っているが、実は西行自身の孤独な人生を
詠っているようにも思われ、西行の後ろ姿が浮かんでくる歌である。
西行の私家集である山家集の中では、詞書「讃岐国に大師のおはし
ましける御あたりの山に庵むすびて住みけるに、月いとあかくて云々、
庵の前に松のたてりけるを見て」の後に、
久に経て わが後の世を とへよ松 あとしたふべき 人もなき身ぞ
の歌があり、その次にこの歌が並んで書かれてある。
愛媛県四国中央市川之江町で生まれた私は、大阪から四国へ里帰りする
度に、この歌を詠まれたと思われる讃岐(香川県)を何度も訪ねた。坂出の
五色台にある国民休暇村に宿泊し、西行が崇徳上皇を弔うために訪れた
白峰寺に行き、山の上から西行が渡って来たであろう瀬戸の島々や同じく
西行が訪れた弘法大師空海の御誕生所である善通寺方面の山々を眺めた。
善通寺にある第73番札出釈迦寺の近くには、西行庵跡「水茎の岡」があり、
その庵も訪れた。山家集から見れば、西行が訪れたのは四国の讃岐である。
先日、久しぶりに郷里の愛媛県四国中央市川之江の町を散策した時、
川之江八幡宮では、御由緒や川之江の歴史が書かれてあった。川之江港から
参勤交代へと船出をしていた土佐藩主が海上の安全を祈願して奉納した
灯篭などもあった。
神社の由緒にはこのように書かれてあった。
「〜川之江は太政官道の宿駅としても栄え、近世にいたっては、土佐・金比羅
両街道の接点にも位置し常に瀬戸内文化圏の中心として発展してきた。〜」
川之江は、古より「河の江」で発展してきた港町であり、交通の要衝であったのだ。
”土佐の高知のはりまやばしで、坊さんかんざし買うを見た”のよさこい節で有名な
純信お馬の恋物語の純信も、藩外追放後、この川之江で暮らし亡くなっている。
川之江から帰阪後、私はふと西行は“川之江には来なかったのだろうか”と考えた。
西行は、中世の乱世に生きた歌人であるが、源平合戦の当時も、「河の江」は
きっと交通の要衝として発展していた港町ではなかっただろうか。そう思った時、
インターネットで「西行 川之江」と検索した時、やっぱりあった。
愛媛県四国中央市川之江町長須に、かつては西行松があり、今は石碑が
残っているそうであった。
「愛媛」の名づけの親である幕末の今治藩医で国学者の半井梧菴は、
地誌「愛媛面影」に下記のように書かれているそうである。
「長須村にあり。西行法師西国行脚の時、暫く此処に住みたまひしに、
庵前に松のたてりけるを見たまひて、
ここをまた わが住うくて うかればな 松はひとりに ならんとすらん
と詠たまひしは此所の事なるよし 豫陽盛衰記に見えたり。古の松は
朽ちしかど、後に植継ぎて今猶さかえたり。
按ふに、此歌、山家集に、讃岐国に大師のおはしましける御あたりの山に
庵むすびて住みけるに、月いとあかくて云々、庵の前に松のたてりけるを見て
久に経て わが後の世を とへよ松 あとしたふべき 人もなき身ぞ
といふ歌に并びて出でたりければ、両首ともに讃岐国にて詠みたまひし
歌なるべきを、古よりかく云ひ伝へたるは、誠は後の一首はここにての
歌なるを、山家集に誤りてひとつにしるしたるか」
ここをまたわれ住み憂くて浮かれなば松はひとりにならむとすらむ (西行)
の歌は、実はここ川之江で詠まれた歌の可能性もあるというのだ。「山家集に
間違って書かれている」などとは、思いもよらないことであった。
地誌「愛媛面影」は、見ることができないが、後日、「愛媛の面影」紀行
今村賢司著 愛媛新聞社 2005年10月発行を取り寄せて見ると、
「四国中央市川之江町長須に西行松」があったということが書かれてあった。
現在は「西行松」という石碑だけであるが、『川之江郷土物語』に載っている
「昭和30年〜40年頃の大きな西行松」の写真を見ることができた。
〜伊豫の川之江城山公園、尾藤二洲の記念碑や〜、春は桜に、
紅葉の秋に、偲ぶ昔は姫ケ嶽〜
と歌われた川之江音頭にも出てくる寛政の三博士として知られた尾藤二洲も、
江戸で故郷の「西行松」を懐かしんだことが知られている、とも書かれてあった。
奥州の旅、京都、奈良、和歌山、三重そして四国等への旅をした西行で
あるので、全国各地には、西行ゆかりの松や桜、庵等がある。
これまで西行の足跡を訪ねて各地を訪れた私であるが、西行の歌の中でも
心に残るこの歌が、私の故郷で歌われた歌であるとすれば、「灯台元暗し」、
青い鳥を探しに行った「チルチル・ミチル」のような気持である。
(2008年1月21日)