もどる

もみの木エッセイ集  38

◎ 広島歴史シンポジウムに参加して

 ANA歴史シンポジウムは、今年は3月1日(土)、「安芸文化の輝き〜
調べと語りの世界〜」というテーマで、広島市で開催された。今年は
17回目になり、昨年は岡山(吉備)、その前は愛媛(伊予)の松山で
開かれている。
 私は、中西進先生の安芸の歴史を聞かせて頂こうと思い、昨年に
続き参加した。広島の街には瞬時観光で訪れたことがあるが、地理的
にもほとんど知らない街であった。県庁前にある広島バスセンターからは
、私と同年輩のご婦人が親切に厚生年金会館行きのバス乗り場まで
案内してくださった。
 はじめに、広島県知事、広島市長初め来賓や主催者側の挨拶があり、
実行委員長の中西進先生のご挨拶もあった。先生は、小学校5年生から
中学校2年生までこの広島に居られ、後2年、この地で過ごされていたら、
今の私は居なかったというお話もされた。
 今回のテーマの「安芸の文化の輝き」というのも先生が名づけられた
そうであった。お話の内容は、広島の方々が大切にされている広島が
育ててきた文化を全世界に向かって発信しないといけない。今回のこの
シンポジウムは対話であり、皆様がどう受け止めてどう次に発信してくださるか、
期待されているというお話があった。
 シンポジウムのプログラムは次のとおりである。

・ オープニング  主催者あいさつ 祝辞
・ 義経をめぐる芸能   講師/篠田正浩(早稲田大学特命教授)
・ 平家と厳島神社    講師/五味文彦(放送大学教授・東京大学名誉教授)
・ ミニコンサート  「平家巡礼」 上原まり(筑前琵琶奏者)
・ パネルディスカッション 「世界の中の平家物語―心の遺産として」
パネリスト 篠田正浩 五味文彦 中西進  西原大輔 
コーディネーター 天野幸弘  
 簡単にではあるが、各講師のお話の内容を紹介させていただく。   
 
<義経をめぐる芸能> 篠田正浩 

 阿久悠が書いた瀬戸内少年野球団の小説を映画化して欲しいと
 頼まれた時、初めて瀬戸内海にやってきた。自分は、海の無い岐阜県で
 生まれた。瀬戸内海と言えば平家物語が頭から離れなかった。しかし、
 阿久悠の小説を読むと、自分の戦後の様子とは全く違っていた。終戦
 当時、自分は中学校3年生だったので、どう死ぬかを考えていた。切腹の
 仕方も習った。一方、阿久悠は、終戦時小学校3年生だったが、進駐軍の
 兵士に「ギブミーチョコレート」とか「ギブミーしてんか」と言うような明るい
 雰囲気であったので、自分の戦後の様子とは違っていると思った。それで、
 一度は、監督するのを断った。すると、阿久悠は、人によって、歴史をどう
 感じるかというのは違うが、それら、様々なことが共存するのが日本の
 歴史の現実ではないかと言われた。そして、監督をすることになった。
 自分が見た目だけで歴史を見てはいけない。人間は滅びるものだと
 いうのは平家物語で感じていた。自分自身では、映画で「いかに人間は
 死んできたか」などを描いてきた。
 ある時、司馬遼太郎は、「そんなに暗い映画ばかり作っていたら、皆に
 見られなくなるよ」と言われたことがある。
 壇ノ浦の合戦で平氏滅亡の様を見届けた知盛は、海へ身を投げ自害した。
 自分は知盛が好きである。知盛は、もう軍に負けると感じた時、敵に
 汚れた船内を見せたくないと思い、自ら船内の掃除をした。そして、
 「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」といって、鎧をもう一つ
 上から着けて沈んでいった。栄華を極めて滅んだ平家物語は、日本が
 戦争で滅びたことと重なる。瀬戸内少年野球団はもう一つの平家物語で
 ある。義経が殺した知盛は、その後、義経が頼朝に追われて九州へ
 落ち延びようとした時、知盛が沈んだ海は荒れて邪魔をする。民衆の中で、
 今まで平家物語が語られていたのが、その後、義経が亡くなると、
 判官びいきで義経のことが語られるようになった。義経は奥州の衣川で
 死んでしまう。人は、人が失敗するのが本当は嬉しい。滅亡するのが
 人は本当は嬉しい。内閣もそうである。次は誰がなるだろう、と。私に
 とっては、平家物語は脚本。歌舞伎三大傑作は、菅原伝授手習鑑、
 義経千本桜、仮名手本忠臣蔵であるが、義経の出てくる物語では、
 義経が主役になっているのは、ほとんど無い。弁慶が主役になっている。
 義経が登場する能も、義経は子方(こがた)で登場している。ある時、
 観世栄夫さんに、「何故子方なのか」を聞いたことがある。子どもと
 いうのは、神様と同じくらい尊い。絶対的な正義。義経の中には、
 少年の神が住んでいるのではないか。

<平家と厳島神社> 五味文彦

 時代により神社の役割は変わってきている。社会の動きを受け入れて
 変わってきている。変化してきている。厳島神社は平家によって祀られた。
 阿久悠さんの歌からもわかるが、歌でその時代がわかる。当時は今様で
 ある。
 厳島は大日如来、十一面観音、毘沙門天を本地とする神々の信仰の場と
 みなされていった。このことの意味を物語るのが「梁塵秘抄」に見える次の
 歌である。

 関より西なる軍神 一品中山 安芸なる伊都岐島 備中なる吉備津宮

 清盛が安芸の守の時、夢に翁が現れ、「日本の国の大日如来は伊勢神宮と
 安芸の厳島なり」と語った。伊勢神宮は天皇縁の神社なので、清盛は厳島
 神社を信仰した。清盛が厳島神社に赴いたところ、巫女は託宣して、
 太政大臣にまで昇るだろうと語った。厳島神社は大日如来である。天下を
 とるんだという願いが大日如来に込められていた。厳島神社を信仰する
 だけでなく、自分たちの文化を集めた。この時の文化が安芸の文化の
 輝きとなって後世に伝えられてきた。厳島には、平家が亡くなった後は、
 源氏が、そして足利尊氏が、毛利が、秀吉が入ってくる。

<ミニコンサート>上原まり(筑前琵琶奏者)

 「祇園精舎」「壇ノ浦」を演奏された。「壇ノ浦」では、「潮の流れにも運命にも
 見放された平家の様子を聞いてください」と。また、「先ほど、篠田監督が
 言われたように、私も知盛が好きです」と言われた。知盛は、敗色濃厚に
 なった頃、船の上で、知盛は大掃除を始めた。「見苦しいもの」つまり、
 不要なものをどんどん海の中に捨て、船の中を掃除したという。

(筑前琵琶の演奏を鑑賞しての私の感想は―奏者は、琵琶を胸に抱き
かかえるようにして、五本の弦を弾く。叩くように、語るように、叫ぶように、
泣くように聞こえる。日常、「琴線に触れる」という言葉をよくつかうが、
琴線そのものを爪弾いているような感動を覚えた。司会者が、
上原まりさんに尋ねられたところ、筑前琵琶は高価なので、愛好者は、
あまり居ないと言われたとのことであった。)

<世界の中の平家物語> 中西 進

 日本の歴史の中で、もっとも大きな転換期は平家の滅亡だと考えたい。
 ほぼ500年代の後半に統一国家を作った日本は、この年までに第1期の
 日本文化を完成した。これは情とよぶべきもので、公家によって支えられて
 きた。武家でありながら公家文化の最後をになった平家が滅びると、
 源氏が政治の中心に座り、武家文化が出発した。
 情の文化の輝き。何よりも具体的な厳島神社とそこに保存されている
 美術品ともいえる平家納経その他の文物である。法華経の十八品の他に
 無量義経、観普賢経を首尾に配し、さらに般若心経、阿弥陀経と清盛の
 願文を加えた全33巻から成る。これらには、みごとな画や模様また装飾的な
 梵字が描かれたり、今日の現代アートのデザインまがいの抽象的な浮雲模様が
 見られる。『平家納経』の第23品の「薬王菩薩本事品」の見返し絵は、
 右下方の経巻を持っている一人の女房と左上方の阿弥陀如来の来迎とが
 対象となり、両者の間には蓮の池が描かれ、周囲に蓮弁が舞っている。
 その上、葦手絵の技法に従って蓮葉・蓮弁や岩などの景物の輪郭に沿って
 文字が隠されている。「この命終わりて、安楽の世界に生まれる」というような
 意味の言葉が書かれているとのこと(残念ながらパワーポイントの画が、
 あまり見えなかった)。厳島という聖域、そこに保存される納経の芸術性を、
 「平家物語」が沈めなかった貴重な心の遺産として、世界に発信して
 いくべきであろう。

<世界の中の平家物語> 西原 大輔

 陸の道と海の道がある。今は、空の道もある(ANA主催なので強調して
 言われた)。瀬戸内海は、単に西日本を東西につなぐばかりか、朝鮮や
 大陸、そして世界にまでつながる国際的でグローバルな性格を持っている。
 瀬戸内海という用語は、明治初期に地理書などで使われるようになった。
 それ以前は、周防灘とか伊予灘、安芸灘、播磨灘など、地域ごとに別々の
 名前で呼ばれていた。厳島神社を訪れた西洋人は、ほとんど平家物語は
 知らなかったと思う。彼らが求めていたのは、エキゾチシズムだった。

 と、いうようなお話であった。中西進先生のお話の時間が短かったことが、
残念であった。聞き漏らしたところも多かったと思う。
 中西先生のレジュメの最後には、「大切にしつづけてきた文化を先人から
手渡されたわれわれは、いま、これを世界的な評価に委ねる責任さえ
負っているのではないか」と書かれている。あらためて厳島という聖域の
貴重な遺産を認識した。
 帰りのバスの時間もあり、著書のサイン会には寄らないで帰ろうと思って
いたが、開催前に購入していた中西進先生著「詩をよむ歓び」の本を手元に
持っていたので、帰りのホールで、幸運にも直ぐにサインをしていただいた。
 バスの中から平和公園に祈りを捧げ、夕暮れが近づく広島の街をあとにした。
あらためてまた宮島を訪れたいと思った。
                            (2008年3月3日)