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もみの木エッセイ集 42

 老いること
    
 七九歳になる義兄が、介護老人保健施設に入所したことを、義姉が電話で
知らせてきた。
 義兄には認知症があり、椅子に座ったり、立ち上がったりする時には、介助が
必要だった。今では、トイレの場所も、一人では判らなくなってしまっていた。
 義兄は、週二、三日、ディケアーセンターへ通っていたが、このままでは、
夫婦共倒れになることを、近くに住む息子も心配していた。最近、息子は、
関東地方に転勤が決まったこともあり、父親を入所させることを、
決断したようである。
 義兄は九人兄弟の次男で、わが家の夫は四男である。大阪には、兄弟の
うちの四人が暮らしており、他家へ養子に入った義兄ではあったが、大阪で
暮らしている三人の弟達にとっては、頼りになる親代わりのような存在であった。
 三年ほど前までは、お正月には、義兄の家に弟たちの家族が集まり、故郷の
話や亡き父母の話、故郷にいる兄弟たちの話をして、過ごすのが定例行事と
なっていた。瀬戸内海の忽那(くつな)七島の中島が故郷である。姉妹たちも、
ミカン農家に嫁いでいた。
 数年前より、義兄の言動に変化が出始めた。妻のことも徐々に判らなくなり、
たまに会う兄弟の顔も、もちろん思い出せないようであった。三年前のお正月には、
義兄は、お酒の上のこととはいえ、久しぶりに会った弟達を怒らせるような暴言を
吐き、まともに受け取った五男などは、以後、義兄の家には寄り付かなくなって
しまっていた。
 義兄夫婦には、離れて暮らしている子どもが二人いるが、普段は夫婦だけの
生活であった。高血圧の薬を内服している義姉は、私が参考に送った一日
1800キロカロリーの献立表を、忠実に守って料理を作り、夫婦の健康管理に
務めていた。しかし、血液検査数値などの数値は正常であるにも関わらず、
義兄の認知症は悪化していった。
 義兄の家とわが家は、大阪府の北と南に位置し、車で片道一時間以上かかる。
時折、わが家から昼食を用意して持っていき、和室に机を置いて、四人で食べる
こともあった。義兄は、いつも黙って無表情で食べていた。

 施設に入ったと聞いてから1ケ月後の日曜日、私たち夫婦は、義兄が入所して
いる施設を訪れた。義姉も一緒だった。 
 「はじめの頃は、私も毎日行って、食事を食べさせていたけど、他の患者さんの
家族はほとんど来てないし、私も、もう週に二、三回位しか行かへんのよ」
と、義姉は話していた。タクシーで往復三千円かかるとのことであった。
 病院に併設されている介護老人保健施設は、二階にあった。エレベーターで
二階に上がると、エレベーターの前には、鍵がかかるガラスドアがあり、
入所者が勝手に外に出られないようになっていた。そのガラスドアを入っていくと、
大きなホールがあった。正午過ぎのホールでは、患者さんが集まって食事をしていた。
 義兄の姿は、暫く見ない間に随分変わっていた。しかし、直ぐにわかった。
車椅子に座って食事をしていた。横から見ると、背は曲がり、肩は落ち、正面から
見ると、瞼は下垂しているため、目は閉じたままになっていた。入れ歯も外していた。
そして、時々、口に入れてくれるものを、もぐもぐと口を動かせて食べていたが、
なかなか嚥下しにくい様子であった。義姉は、
 「どうして、入れ歯を外しているんやろう。自分で入れ歯を外すのかな」
と、言った。
 職員の方が来られ、
「大分、食べたんですけど、もう少し食べさせましょうか」
と言って、一匙、二匙、おかゆを口に入れた。義兄は、食べにくそうに、また口を
動かせた。職員は、まだ残っている食事をそのままにし、私たちのために、
ホールの隅に机と椅子を用意し、面会の場所を作ってくれた。義兄は車椅子で
運ばれてきた。食後のお茶も飲まないままであった。
 「お父さん、卓郎さんとやす子さんが来てくれたよ。目を開けてちゃんと
見なあかんよ」
と、義姉は義兄の目をハンカチで拭きながら瞼を持ち上げた。少し、瞼が
持ち上がった。
 「早く元気にならんと、中島へはもう、帰られへんなあ」
と、夫が義兄に向かって、故郷の「中島」という名前を何回か発すると、義兄の
表情が一瞬変わったように思われた。少し開いている目が、キッと動くように感じた。
 話していても、相変わらず、口をもぐもぐ動かせるので、私が持っていた
ペットボトルのお茶を、口に運んで飲ませると、こぼしながらも少しずつ飲んだ。
 義兄は、しばらくすると、車椅子の肘かけに両手を置いて、自分のお尻を
浮かせようとしていた。何度も繰り返すが、失敗していた。
 「お義姉さん、お義兄さんは、立とうとしてるみたいやわ。立って歩きたいんかなあ」
と、私が言うと、
「この前来た時は、車椅子には乗っていなかったんやけどなあ」
と言って、義兄に、
「お父さん、歩きたいの?」
と、呼びかけた。義兄は無表情で応えない。夫は、
「そしたら、少し歩いてみようか」
と、義兄の脇に腕を入れて、車椅子から立ち上がらせた。義兄が立ち上がると、
パジャマのお尻の部分と、車椅子の座席が濡れていた。おむつの汚れた臭いがした。
 施設の職員に伝えて、先におむつを換えて貰った後、夫と義姉が両脇を支えて、
長い廊下をゆっくりと歩かせ始めた。
 最初、義兄は、股関節も膝関節もくの字に曲がり、足先も、5センチメートル位
ずつしか前に進まなかった。しかし、慣れてくると、歩幅も広くなってきた。

 食事をしていたホールには、まだたくさんの患者さんが車椅子に座ったり、
歩いたりしていた。患者約25名に、看護師、介護士、配膳をする人など、職員は
合わせて4、5人位はいるだろうか。
 食事の後には、机の前にそのまま座って、居眠りをしている患者さん達が
数人いる。皆、うとうと、頭を傾けている。精神安定剤などを内服している人が
多いのだろうか、と思われた。
「ねえちゃん」
と、絶え間なく口癖のように、大きな声で言っている老婦人がいる。誰に向かって
言っているわけでもない。
「ねえちゃん」
と呼んでも、皆ほとんど、無視しているが、時には、側にいる人が、
「私は、ねえちゃんと違う。私は、もうおばちゃん」
と言いながら、周りの人と笑い合っている。
 無言で、首を少し傾げて、絶え間なく部屋中を歩き回っている男性もいる。
面接に来ている人の顔も覗きに来て、また広いホールを歩き回る。
 中には、多動で机や椅子に上がろうとする男性もいる。職員が、慌てて制止
させようと、走ってゆく。移動式のベッドをホールの隅に運んできて、寝させている
老婦人もいる。彼女は、時々声をあげて、上布団を撥ねて起きようとするので、
「○○さん、お熱があるんだから、起きてはだめよ」
と、離れた場所から職員が叫んでいる。

 義兄は、両脇を支えられながら、廊下の端にあるテラスへ通じるドアの前まで
歩いていった。義兄は、ドアのガラス窓から、外の景色をジーッと眺めていた。目は、
少しではあるが開いていた。道路には、車が行き交っていた。
「くるま」
と、義兄は小さい声でつぶやいた。
「今、くるまって、言ったなあ」
と、義姉は言った。義兄は、ドアの取っ手を下に押さえて、開けようとした。しかし、
鍵がかかっていて、開くことが出来なかった。私は、暫くでも、外の空気を吸わせて
あげたいと思い、テラスへ出るドアを探したが、全部鍵がかかっていた。開いた
天窓から入ってくる風が、せめてもの救いのように思われた。
 夫と義姉は、義兄を支えて、廊下を戻って来ながら、
「こんな風に、二人掛りで、毎日歩かせてもらえたらええのになあ。でも、
お父ちゃんのために二人もの人の手をとることはできへんわなあ。皆、急がしそうやし」
と、義姉は言った。
「これで、転んで股関節でも、骨折したら、寝たっきりになるしね」
と、私も言った。これだけの職員の人数では、限りがあるのだ。
 日曜日だったので、二家族のお見舞いの方に出会ったが、義姉の話だと、
普段の日は、訪れる人は、ほとんどいないとのことであった。

 義兄一家の事情や、介護老人保健施設の内部事情など、それぞれの事情は
あるが、何かもっとよい方法はないものなのだろうかと、思いながら、何一つ
解決方法も、思いつかないままに、施設を後にした。数日後には、千葉にいる
娘が、父親のお見舞いに帰って来るそうであった。
 
 夫は、帰途、車を運転しながら、
「姥捨て山やなあ」
とつぶやいた。

 そして、それから数日後のこと、職場の同僚のご主人が、明け方、片方の腕が
しびれて、病院へ運ばれたが、脳出血で亡くなられた。五八歳の若さであった。
その出来事を、家で話している時、
「その○○さんのご主人っていう人、幸せな人やなあ」
と、夫は、唐突に言った。
「えっ、どうして?」
と、聞き返すと、
「五八歳は、若過ぎるかもしれへんけど、苦しまないで、1、2日の間に死ねるなんて。
死ぬんだったら、そんな死に方をしたいわ」
と言った。
 老いることの準備を、早急にしなければと、私はあらためて強く思った。 
                    (2008年06月24日)