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もみの木エッセイ集 45
◎ 「凍」を読んで
2002年10月、山野井泰史・妙子夫妻がギャチュンカン登攀を
目指した時のノンフィクション、沢木耕太郎氏の代表作である。
当時、私はこのニュースには気付かなかったが、朝日新聞には次の
ような記事が載り、読者にさまざまな反応を与えたそうである。
<岩壁やヒマラヤ高峰の先鋭的な登攀で世界的に知られる山野井泰史さん(37)
は10月、中国・ネパール国境のギャチュンカン(7952m)に北壁から
単独登頂を果たしたが、下山時に悪天候につかまり手足に重度の凍傷を負った。
途中まで同行した妻の妙子さん(46)との、雪崩の巣と化した北壁からの
脱出行は極限のサバイバル体験だった。>
ハイキング程度の山登りか知らない私であるので、この本に「凍」という
題名をつけられた経過がわからなかったが、読み進めていくうちに、
その意味が理解できるようになった。
彼らが挑戦する7000m、8000m級の山岳の気温は零下30℃、40℃で
ある。油断をすれば手足の指は凍り、ついにはゴーグルで覆った眼球も
凍ってしまって見えなくなるという状況に陥る。
妙子は、過去のマカルー登攀で重度の凍傷を負い、すでに手の指を
第2関節から10本すべてを失い、顔は鼻の頭を失っていた。(この鼻は
のちに移植手術によって、1部復元される)
そして、このギャチュンカン登攀後には、泰史は、右足の指を5本全部と、
左右の手の薬指と小指を付け根から切ることになり、妙子の手の指も、
さらに10本すべて付け根から切り落とすことになる。
そういう厳しい危険な思いをしてまでも、何故彼らは山に登るのか。
読者が納得できるかどうかはわからないが、この本は語ってくれている。
沢木氏は、まずギャッチュンカンという山について、どのような山かを
描いている。世界のクライマーにとってもさほど関心がない山であり、
未踏の奥深くにある山であること。チベット語で「百の谷の集るところ」と
いう意味であり、8000mに48m足りない15番目の山であること等である。
そして、泰史のクライマーとしての足跡とギャチュンカン北壁に挑戦する
ことになった経過が書かれている。ある日ふと見た山の雑誌の中の
小さな写真にスロベェニア隊が登ったというギャチュンカンの北壁が写って
いた。標高差2000mに達しようかという壁であった。
そして、登山の技術やクライミングスタイル(古典的な極地法や
アルパイン・スタイルのことなども)や登山用具についてなども、詳しく
書かれている。
山野井夫妻が自ら書かれたかのように、微にいり細にいり経歴は
もちろんのこと考え方や山に対する姿勢などが書かれている。
私は、それらの文章を読みながら、沢木氏はどのようにして、彼らに
聞きとりをしたのだろう、また、登山についての詳しい知識を得た
のだろうか、と思った。
私自身もよく経験することであるが、人から聞き取ることは易しい
ようで難しい。聞き取る側に先入観があってもいけないし、正確に
聞いたつもりでも、結果として微妙に温度差が生じていることがある。
どれくらいの時間をかけて聞き取ると、このように書けるのであろうか、
と感じる場面が多くあった。また、登山に対する知識や経験がなければ、
その状況も、正確に把握できない。相手の話を消化して理解していくには、
受け取る側の力量が試されるのではないかと思われる。沢木氏は、
登山についての勉強も相当されたのではないだろうか。
クライマー山野井夫妻のことをどれくらい理解しているのかが、書いていく
上での筆者の試金石になるのではないかと感じた。
極限のクライミングが描かれているが、苛酷な条件のビバークに
ついては、このような状況が書かれている。
〜ギャチュンカンの北壁には、僅かな岩棚さえなかった。ピッケルで
氷を割って作った最大で50Cmの氷の棚、7000m付近での条件の悪い
場所でのビバークである。まず一人が横になり、もう一人がその
反対側からその足の間に身を横たえる。自分の足を相手の腹から胸の
辺りに置く。下になったものは、重さに耐えなくてはならない。二人は、
とろとろとした浅い眠りについた。ただ耐えるように時間の過ぎるのを待った。〜
また、登頂後、下降するときのビバークは、ロープを垂らしたブランコの
上である。直前の雪崩とそのビバークの状況は、
〜雪崩に直撃され、妙子を確保しているロープは、泰史の手の間から
凄まじい勢いで滑っていってしまった。〜ロープはピーンと引っ張られた
ままでとまった。〜そして、途中、眼が見えなくなった泰史は、
支点を作るために、指を凍傷で失うのを覚悟しながら、手袋も外し、
必死に両手で岩の裂け目を探し出していた。1本のハーケンや
アイスクリューを打つのに一時間はかかったろうか。4本で4、5時間は
かかることになる。1本打つたびに指が1本ずつだめになっていくような
気がした。左の小指、左の薬指、右の小指、右の薬指-----。
〜泰史は、眼はまったく見えなくなっている。妙子の眼も見えなくなって
いたが、泰史に比べればまだかすかに見えていたのだ。ついに下降を
諦め、ビバークすることにした。ロープを2本にしたものを渡してそこに尻を
置く。それはまさにロープで作るブランコであった。〜体を小便で濡らした
まま、零下30℃40℃の壁で宙吊りも同然のビバークをしなくてはならないのだ。
二人がビバークしたのは七千m付近なのだ。〜眼の見えない二人に
とって音だけが頼りだった。〜泰史は、ロープの上で、まったく夢を見ずに
1時間ほど眠った。〜眼が覚めると生きていた。〜
互いのことを思いやりながら、瞬時の判断をしながら、経験豊かで
冷静な夫妻は難関を乗り越えてギャチュンカンからの奇跡の生還を果たす。
沢木氏の文章には、実際にそこを登った人達の持つ息遣いが感じられる。
歩いて帰ることもできなかった二人は、帰国後すぐに凍傷の治療の
ために入院する。
〜妙子は、何日かして体が動かせるようになると、すぐに腹筋の
トレーニングをベッドで始めた。腹筋が弱ると腰痛がひどくなる。それを
予防しようと思ったのだ。そしてそれはまた、いつか山に登るときのための
ものでもあった。妙子は、あの苛酷なギャチュンカンの下降を経験しても
なお、登山をやめようとは思っていなかった。〜
また、妙子については、このように書かれている。
〜手の指はすべてなくなってしまった。そこで、買い物に出るときは、
お地蔵さんの前垂れのように財布を首からぶら下げ、店員にそこから
金を取ってもらうようにしていた。
それでも、しばらくするうちに包丁が使えるようになった。〜
そして、泰史も、凍傷で手足の指11本を切ったが、その後も、
クライミングへの熱意は全く冷めず、現在もオールラウンドな挑戦を続けている。
夫妻は、凍傷で更に指を失っても、また不死鳥のように山に戻って行くのである。
山に命をかけるクライマーにとっては、手足の指の代償など、あまり
重要ではないのであろうか。
泰史がギャチュンカンの山頂を目の前にして、見上げた時の状況が
このように書かれている。
〜雪が降っているにもかかわらず、西から強い風が吹き、雲が流れ、
青空が見える瞬間さえある。すべてが美しかった。早く頂上にたどり
着きたい。しかし、この甘美な時間が味わえるものなら、まだたどり着か
なくてもいい。〜
クライマーでなければ味わえない喜びなのであろう。
私は先にも書いたように、読みながら、まるで夫妻自身が書いた
ようなこの文章を沢木氏はどのようにして書かれたのであろうか、
と思っていた。ここまで書くには至難の業であると思っていた。
そして調べていく内、あるネットの資料を見て、やっと理解できた。
その中の一部であるが、このように書かれてあった。
〜すべて登山のためにささげられた二人の質素な生活、「自分たちに
って大事なことを中心にして、あとはそぎ落としてゆく」ライフスタイルの
揺るぎなさに、強い好意を抱きはじめる。
「書こうというスイッチがカチッと入った」のは、夫妻がギャチュンカンに
残した自分たちの荷物を回収しに行くと聞いた時。「ゴミを取りに行くため
だけに、辛酸をなめた山にわざわざ行く」二人の旅に、昨秋沢木さんも同行、
帰国後取材を始めた。
ほぼ半年間、週に1度奥多摩の山野井さん宅に通い、1日5、6時間
話を聞いた。登山の始めから終わりまでを時系列でゆっくりとたどり、
これを計3回繰り返した。結果、ギャチュンカンの行程は立体的になり、
ほぼすべてを映像で思い描けるようになった。〜
沢木氏は、山に置いてきたゴミを集めに行くという夫妻に同行して、
ギャチュンカンまで行ってきたのだ。そして、百数十時間もかけて話を
聞きとり、沢木氏自身がすべての映像を思い描けるようになった後、
このノンフィクションを書かれたのである。
私は、なるほどと思った。沢木氏は、その時々の山野井夫妻の
息遣いまでも自分のものにして、書き上げたのである。
(2008.08.17)