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もみの木エッセイ集 47
◎ 礼文敦盛草のこと
利尻・礼文島へ行ったのは、礼文敦盛草が咲く5月下旬の頃であった。
まだ島の高山植物は咲き誇るという時期ではなかったが、礼文敦盛草の他に、
青紫色のミヤマオダマキ、黄色でよく目立つキジムシロ、そして黒百合なども
咲いていた。
礼文敦盛草は、礼文島でしか見られない花で、特定国内希少野生動植物種に
指定されている。現在では、激減して数が少ないため、培養研究がなされ、
平成13年には18本の花が開花に成功したとのことであったが、現在では、
培養の技術で数え切れないくらい咲いていた。
花の色は薄いクリーム色で、名のとおり、袋状の母衣(ほろ)の形をしている。
平家物語などの軍記物語に描写された平敦盛の背負った母衣(ほろ・後方
からの矢を防ぐ武具)に見立てて名付けられた。
金沢に行った時、前田利家が母衣を背負った馬上の像を見たことがあるが、
母衣は相手を威嚇する効果もあったのだろう。
花ガイドの方が、
「別に母衣(ほろ)は、敦盛だけが着けたのではないのですから、他の人の
名前でもよかったんですよね」
と説明すると、
「いえいえ、やっぱり敦盛です。敦盛がいいです」
と即座に観光客のおば様達が口を揃えて言った。
後で知ったことであるが、源平一の谷の戦いで、平敦盛を破った
熊谷直実の背負っていた母衣から名づけられた熊谷草という花もある。
北海道南部から九州にかけて分布するそうである。
敦盛は、平清盛の弟である平経盛の子で、17歳で一ノ谷の戦いに参加した。
敵将を探していた熊谷次郎直実が敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと
甲を上げると、我が子と同じ年頃の若者であった。首をとるのを躊躇し、
直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、
名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、
直実は涙ながらに敦盛の首を切った。
平家物語の一場面である。後に、直実は出家する。
若くして散った敦盛の名は、人々の情けに感じ入るところがあるのだろう。
礼文島の街灯は、礼文敦盛草の形をしていた。
利尻・礼文島は、夏季は観光のラッシュになるが、5月はまだ花も少なく、
JTBの旅物語のキャッチフレーズは、「花の礼文」ではなく、確か「とれとれ
豊漁・ウニ食べ放題」という内容であった。
礼文・利尻島は、これから夏季に入ると、昆布獲りや観光客で島の人口が
急増するということであった。
利尻から稚内へとフェリーで離れる時、もう見つめることもないだろう
凛々しい姿の利尻島を、見えなくなるまで見つめた。前になり後ろになり、
どこまでも追ってくるカモメの姿も、後部デッキから何時までも眺めていた。
そして、稚内、留萌、札幌、千歳空港、関西へと帰ってきた。礼文島も利尻島も
ほんとうに遠い遠い島であった。
初めから計画して5月下旬に行ったわけではないが、礼文敦盛草の
咲く頃に行くことができた。
「2008.11.15」