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もみの木エッセイ集 52

◎ さみしい春

 以前勤めていた保育所で、4歳児のM君が、私を呼び止めて、
「お母さん、さみしい」
と、悲しそうな顔で訴えた。
「えっ?お母さんがさみしいの?」
と私は繰り返した。M君は4歳児ではあったが、まだ二語文でしか話せなかった。
M君の父母の仲が悪いとか、何か家庭的な原因があるのか?等と考えた。
 そして、数日間様子を見ていると、他の保育士の側にも駆け寄って、
「お母さん、さみしい」
と悲しそうな表情で訴えていた。周りの皆に訴えていたのだ。
 M君の担任にそのことを話すと、
「そうなんです。M君のお母さんは、最近、お仕事を始められて、夕方の
お迎えが遅くなっているんです。お母さんとの関わる時間が少なくなって
きているんだと思います」
ということであった。
 「お母さんがさみしい」ではなく、「ぼくはさみしい」ということのようであった。

私が、この出来事を思い出したのは、この春、雪柳が真っ白い小さな花を
咲かせた時である。
 通勤途上に咲いている雪柳を見たとき、私は「雪柳はさみしい」と思った。
 桜に先がけて咲く早春の花雪柳、咲き誇った後には、小さな花びらを
雪の様に散らす。私は、「雪柳はさみしい」ではなく、私自身に原因が
あるのだと思い、M君のことを思い出して苦笑した。
 私にとっては雪柳とほぼ同時に咲く桜も、さみしい花である。
 春は、出会いの時期でもあり、別れの時期でもある。まだ冷気のある
大気の中で、春毎に雪柳や桜を見つめてきた。満開になり飽和状態に
なった花びらが、はらはらと散っていくのも見つめてきた。
 「さみしい雪柳」も「さみしい桜」も長く付き合えば、気心のしれた
旧知の友である。今年も吉野と大宇陀の桜を観に行こうと思っている。
 雪柳はもう散り始める頃である。
                      (2009年3月29日)