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もみの木エッセイ集 53

◎ 最初で最後の授業

 以前から受けたい授業があった。中世文学研究・和歌史研究分野の
権威といわれる国文学者である久保田淳氏の授業である。
西行関連書籍も多い。現在も「山家集・聞書集・残集」明治書院発行の
著書を愛読している。

 幸運にもこの春、西行の終焉の地であるといわれている大阪府河南町に
ある弘川寺に、同氏が東京から来られ、西行に関する講演があることを
友人が知らせてくれた。
 しかしその時は、私の都合が悪くどうしても受講出来なかった。講演後、
友人から資料のコピーをいただいたり、講演の内容を聞かせてもらったり
するにつけ、やはり一度は直接にお話を聞かせてもらいたいという思いが
募ってきた。

 東京のAカルチャーセンターでは、現在も「西行をよむ」という同氏の講座が
行われていた。4月からは、西行の山家集(陽明文庫本による)の講義である。
同氏はもう75歳のはずである。
 様々に考えた結果、私の都合がつき次第、講演を受けに行こうと決心した。
カルチャーセンターに問い合わせると、まだ席が残っていると言われる。
 職場を休む都合も、同僚に指定休暇を交代してもらうことができ、1日とる
ことができた。
 家族にも、前もって、久保田淳先生がどのような国文学者であるのか、この
講座が私にとって、どれだけ意義深いのかを話して根回しをしておいた。
 しかし問題は、その費用である。1時間半の講義を聴くための、東京までの
交通費と講座費用である。もう直ぐ年金生活が待っているわが身としては贅沢な
試みである。休みも1日限りしかない。
 考慮した結果、前日に大阪駅から夜行高速バスで往き、新宿で午前10時半
から12時までの講座を受け、また、新宿から13時発の高速バスに乗って
帰ってくることにした。
 荷物は、出来るだけ少なくとは思ったが、「山家集・聞書集・残集」明治書院発行
だけは持って行くことにした。この本だけで、約1kgはあるだろう。
 5月12日の夜、出発した。高速バスが発着する「新宿駅新南口」という場所と
都庁近くにあるAカルチーセンターまでは大分距離があった。方向音痴の私は、
新宿につくやいなや、前もって、往復して道を確認し、再度頭の中でも
シュミレーションをした。地図でみた新宿駅新南口は、「新」がついているだけ
あって、私が思っていた新宿駅南口の位置とは、大分違っていた。
 Aカルチャーセンターは、大手の生命保険ビルの中にあり、パンフレットを
見ると、講座教室も多く著名な講師が揃っている。
 受講の受付を済ませて、15分前には教室に入った。予測していた通り、
受講者は年配者が多かった。70歳を過ぎていそうな人達もおられた。私は、
真ん中の列の前から4番目くらいの席をとった。次々と入って来られて、
席に座る人達は、見渡すと約20名くらいになった。
 そして、久保田淳先生が教室に入ってこられた。著書に載っていた写真では、
お顔を拝見したことがあった。
 今月は、山家集(陽明文庫本による)の7番目から13番目の歌の講義であった。
 一つの歌についての詞書と歌の解説、詠まれた状況(風習なども)、その歌の
詠まれた時期より以前に歌われたよく似た歌、以後に詠まれたよく似た歌等など、
丁寧に説明をしてくださった。一つの歌がもつ意味の奥深さを理解することができた。
 先生の講義だけが響く、1時間30分の静かな授業が終わった。
 次回の講義には、もう来ることが出来ないかもしれないと思いながら、教室を
出て行かれる先生に、持参していた今年の吉野の写真をお渡しした。奥千本に
ある西行庵と、庵の辺りの山桜の写真であった。先生は、
「金峰山神社まではマイクロバスで行ったのですか?」
 と聞かれた。
 そして、新宿駅新南口までは迷わずに約30分で行くことができた。高速バス
乗り場の横にあるコンビニで買い物をした後、13時発のバスに乗り20時過ぎに
京都着、京都からJRはるか特急に乗って、我が家にたどり着いた。
 その後、受講した講義のまとめは、約1週間かかった。1晩に1つの歌をまとめる
のがやっとのことであったが、楽しいひと時であった。
 出かける前や、往復の高速バスで帰った直後は、最初で最後の授業に
なるかもしれないと思っていたが、疲れが快復した現在は、また機会があれば
行きたいなあと思っている。
 授業のまとめは、私自身の知識の未熟さを表すような試金石のようなもので
あると思われる。正確にはまとめられていないが、下記のようなメモである。

 二〇〇九年五月十三日(水) 
 Aカルチャーセンターにて
 「西行をよむ」   久保田 淳 先生              

山家集(陽明文庫本による)


 山里に春立つといふこと
山里は 霞みわたれる けしきにて そらにや春の 立つを知るらん

説明 
○ この歌は、山家集の中にだけある歌  
○ けしき―様子  
○ わたれる― 継続。継続には時間的な継続と空間的な継続があるが、
  この場合は空間的な継続  
○ 空にやの「や」は軽い疑問  
○ 空に--知る―空模様からの判断に推量の
  意をかける 
○ 主語ははっきりしないが、「山里に住んでいる人は」とすべきか。そこに住む
  人は、空に春がやってきたと推し量って思うのだろう
○ 山里に春立つといふこと=山家立春

西行のこの歌より以前に詠まれた歌で、空の上に春が来たと詠まれたよく
似た歌は、歌合せで蔵人の歌として歌われた

 いつしかとけさはかすみのたなびけば春きにけりと空にしるかな
(春のけしきぞ空にしらるる)― 万代集に載っているが万代集が出来たのは
西行が亡くなってからであるので、歌合で詠まれた歌としては、西行は知って
いたかもしれない。

西行より後では、
新古今集の春上 二 春のはじめの歌             太上天皇
 ほのぼのと春こそ空に来にけらし天の香久山霞たなびく


 難波わたりに年越しに侍りけるに、春立つ心をよみける
いつしかと 春来にけりと 津の国の 難波の浦を 霞こめたり

○ この歌も山家集にだけにある歌
○ 詞書の「難波わたりに」― どうしてわざわざ難波に行ったのかわからない
○ 「年越しに侍りけるに」― もしかすれば、天王寺に籠もっていたのかも
  しれない。それも考えられる
○ 難波わたりに年越しに侍りけるに、春立つ心をよみける=海面の立春
○ 陽明文庫本によって紹介しているが、江戸時代から出たもので(?)
「いつしかも」とされている歌がある。「も」の方がいいのかもしれない
○ いつしかと=いつのまにかはやく
○ 能因法師の次の歌によく似ている

  心あらん人にみせばやつのくにの難波わたりの春の景色を   後拾遺

○西行は能因を意識していた。西行も能因も青年期を過ぎる頃出家した。
大学に学び文章生だった。二人とも、出家した後、一つの宗教に一生懸命に
なったというわけではない。西行の歌は能因の影響を受けている。能因の
歌を最も意識したのは、

津の国の難波の春は夢なれや蘆のかれ葉に風わたるなり

○三夕の歌は、「心なき」だが、能因の歌では「心あらん」  能因の歌は
 大事な歌である
○もう一つ年越しで出てくるのは、次の歌

  世につかへぬべきやうなるゆかりあまたありける人の、さもなかりける
  ことを思ひて、清水に年越に籠りたりけるにつかはしける
 此春はえだえだごとにさかゆべし枯たる木だに花は咲くめり 1186
 
西行の知人がお寺に籠もって年越しをしている。何かいい仕事が見つかり
ますようにとお祈りに行った。清水寺のご利益で、枯れ木にも花が咲くように、
と歌っている。西行は面白い。ある人には、「出家しなさい」と言っていることもある。          


  春になりける方違へに、志賀の里へまかりける人に具してまかりけるに、
  逢坂山の霞みけるを見て
わきて今日 逢坂山の 霞めるは たち遅れたる 春や越ゆらん

○ 春になりける方違へに=陰陽道(おんようどう)で、外出するときに
  天一神(なかがみ)・金神(こんじん)などのいる方角を凶として避け、前夜、
  他の方角で一泊してから目的地に行くこと。平安時代に盛んに行われた。
  たがえ。かたたがい。
○ 滋賀の里=近江
○ 逢坂山=近江の国にある
○ 「春」を擬人化している  春は都にやってきている。春は東からやってきて、
  東に帰っていく
○ 滋賀へ行く人と春が入れ違いになる
○ 枕草子に節分の方違へが出てくる 
○ 枕草子279段にも節分方違へが出てくる  また、22段のすさまじきものの
  中にも方違へが出てくる
○ この歌とよく似た歌で、西行より前に詠まれた歌は、
橘 俊綱(たちばな の としつな、長元元年(1028年) - 寛治8年7月14日
(1094年8月27日))は、平安時代後期の官人・歌人 の次の歌。参考にして
よい歌である

 逢坂の関をや春も越えつらむ 音羽の山のけさは霞める   後拾遺和歌集 春上

10
 題しらず
春知れと 谷の細水 洩りぞくる 岩間の氷ひま 絶えにけり

○ この歌は、西行上人集と山家心中集にも載っている
○ 岩間の氷=岩間にはった氷
○ この歌と同じく、岩間の氷を詠んでる歌は、
金葉集(白河院の院宣により源俊頼が編纂):巻1/春/0001/藤原顕季 

うちなびき春はきにけりやまがはのいはまのこほりけふやとくらむ

11
霞まずば なにをか春と 思はまし まだ雪消えぬ み吉野の山

○山家集だけに載っているが、後には、続後撰集(成立:宝治二年(1248)
 七月二十五日、奉勅。建長三年(1251)十月二十七日、奏覧)に載った
○ 吉野は雪の多く降るところということで知られていた。万葉集の中でも、
  天武天皇の次の歌がある

 天皇のよみませる御製歌
  み吉野の 耳我(みかね)の嶺(たけ)に 
  時なくそ 雪は降りける 間(ま)無くそ 雨は降りける 
  その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 
  隈もおちず 思ひつつぞ来る その山道を(25)

 天武天皇の暗澹たる気持ちを詠んでいる
○他に吉野の雪を歌っている歌では
 いづくとも春の光は分かなくにまだみ吉野の山は雪降る  凡河内躬恒

12
 海辺霞といふことを
藻塩焼く 浦のあたりは 立ちのかで 煙立ちそふ 春霞かな

○ ウミベノカスミ・ウミノヘンノカスミ・カイヘンノカスミ ともよむ
○ 「立ち」が二つ重なればよくないと多くの人は言うが、西行は気に
  しないのであろうか
  春霞に藻塩の煙がプラスされている
○ その後には、「煙立ちそふ」が「煙あらそふ」になっている
○ 山家集より以前にもこの趣向はある

 田子の浦に霞の深くみゆるかなもしほの煙たちやそふらむ (拾遺集・雑春・能宣)

 この歌を歌い替えたような歌  この趣向は、昔の人が気に入っている歌である

 夕汐に由良の門わたる海人小舟霞の底に漕ぎぞ入りぬる  清輔
 なごの海の霞の間よりながむれば入日をあらふ沖つ白波(新古35) 実定 

13
 同じ心を、伊勢に二見といふ所にて
波越すと 二見の松の 見えつるは 梢にかかる 霞なりけり

○ 二見―西行は晩年に住んでいたのはほぼ確かである
○ 霞を波に見立てている  技巧たっぷりの歌である
○ 万葉集の東歌の

 君をおきてあだい心をわがもたば末の松山波も越えなん  

の歌が元になっている  
(あなたをさしおいて、ほかの人に心を移すなんてことがあろうはずはありません。
そんなことがあれば、あの海岸に聳(そび)える末の松山を波が越えてしまうでしょう)

この歌は、西行がよくつかう歌である

春なればところどころは緑にて雪の波こす末の松山   西行
契りきな かたみに袖を ぬらしつつ 末の松山 波越さじとは   百人一首 清原元輔
玉くしげ二見の浦の貝しげみ蒔絵に見ゆる松のむら立ち 大中臣輔弘. 金葉集
                     (2009年5月24日)