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もみの木エッセイ集 55

◎ 
二度目で最後の授業?
     
 「最初で最後の授業」だと決心して、二千九年五月に、東京新宿で
行われている久保田淳先生の「西行を読む」を受講した。一日の休みを
とり、高速バスで大阪、東京間を往復した。
 五月には、これが最初で最後と思っていたが、六月も何とか時間が
とれたのと、何よりも続きの授業が受けたくて、また出かけて行く
ことになった。
 受講前夜、夕食も入浴も済ませてから出かけ、大阪の桜橋口から
夜行バスに乗った。
 翌朝の新宿は雨だった。傘をさしながら持ってきたカメラで
新宿の高層ビル群を撮った。数年前に見た景色とはまた違っていた。
 平日の通勤タイムであるので、大勢の人達が行き交っていた。
後ろから歩いて来た男の人が、「麻生退陣か」と言って急ぎ足で
通りすぎて行った。高速バスに乗っていた一晩の間に、世の中が
動いたのかと思った。
 新宿駅地下で朝食を摂り、午前十時半までの時間をどのように
過ごそうかと考えていると、午前八時より西口で古本市が催されていた。
1時間近くかけてゆっくりと見て周り、五千円以上購入時は、
送料三百円という貼紙に触発されて、久保田淳先生の和歌関係の
本や単行本などを数点購入した。
 カルチャーセンターには三十分前に着いた。今回も講義の
教科書である「山家集・聞書集・残集」明治書院発行、久保田淳先生の
著書を持っていった。
 教室の準備に来られたカルチャーセンターのスタッフの方に、
「久保田先生のご著書を持ってきているのですが、先生はご本に
サインなどしてくださるでしょうか」
と尋ねてみた。すると、
「例えば、授業が終わって、先生が机の上のご自分の持ち物を
片付けておられる時など、ご本とサインペンを持って行って、お願い
されたらいいのではないでしょうか。ご自分のご著書にサインを
断るということは、今まで聞いたことはありません」
と言われた。
「そうですか。ありがとうございます。次回、サインペンを持ってきた
ときにお願いしてみます」
と、アドバイスに感謝した。
 しかし、ふと「次回はあるのかなあ」と考えた。そして、まだ、時間が
あることに気付き、早速ビル1階にあるコンビニにまで行き、サイン
ペンを買ってきた。
 受講者は約十五名。先生は、余分な前置きの言葉もなく、前回からの
続きの講義を始められた。
 山家集(陽明文庫本による)の14〜26の歌である。
 講義が終わった後、スタッフの方が言われたとおりにサインをお願い
すると、先生は快く著書にサインをしてくださった。新しいサインペンは、
墨が筆に馴染まず、何度も同じ場所をなぞりながら書いてくださった。
 帰途は、東京発十三時の新幹線に乗ることができた。
 夕方6時には家に辿り着き、
「麻生首相は退陣したの?」
と尋ねたが、そんなニュースはどこにもなかった。新宿でのあの呟きは
なんだったのだろう。

 先生は、今回の講義では、関連ある歌などは、黒板には書かれないで
口頭で話されることが多く、よく聞き取れなかったところは、
「山家集・聞書集・残集」明治書院発行を参考に書き足した。また、
わかりにくかった部分は、自分で判断して、調べて書き入れたので、
正確性には欠けるところもある。
 下記は、私の受講メモである。

二〇〇九年六月      新宿にて
「西行をよむ」  久保田淳先生                 

山家集(陽明文庫本による)
0014
 子日
春ごとに 野辺の小松を ひく人は 幾らの千代を 経べきなるらん

○西行上人集 山家心中集 にも入っている
○ 春のたびに子の日の松を引く人は、これからどれだけ長生きするのだろう
○ もともとは中国から伝わってきた行事であるが、平安時代の頃には、
  正月の初めの子の日に、野山に出て小松笛を引き若菜を摘み、
  歌を詠んで長寿延命を祝う、縁起の良い宮人達のゆかしい遊びが
  あった。この時に引く松を「子の日松(ねのひまつ)」とよんだ
○ 「幾らの千代」という言葉は、西行の前では、次の歌がある

ちはやぶる斎(いつき)の宮の庭の松いくらの千代をとどめが数へん   清原元輔

これもまた子日の歌である
和歌文学大系には、この歌の影響か?と載っているが、私は断言
出来ないと思う
 
 0015
子日する 人に霞は さきだちて 小松が原を たなびきてけり

○ 山家集以外にはない
○ 子の日の松を引く人に先立って、小松の生えた野原に霞は立ちなびく
○ 「たなびきにけり」 「ひき」は松の縁語

浅緑野辺の霞のたなびくに今日の小松をまかせつるかな  後拾遺 源経信 に依る

○ 人より先に霞がたなびいている。霞を擬人化している。霞が先に
  引っぱっているのではないか
  西行は、言葉遊びに興じている 
○ 「先立ちて」の「立つ」は霞の縁語
○ 同時代の類例に

朝まだき滋賀の山越えする程に先立つものは霞なりけり   教長集

 参考  教長――保元の乱に際しては、崇徳上皇・藤原頼長に加担。
源為義に対して再三の説得工作を行い自軍に参加させるなど、
中心的な役割を担った。上皇方の敗北後は出家(法名は親蓮
あるいは観蓮)・投降し、恭順の意を示したが、赦されず常陸国に
配流となった。乱から六年後の応保2年(1162年)に都に召還され、
高野山に入った。その後、安元年間(1175年 - 1177年)において
鹿ケ谷の陰謀や安元の大火といった大事件が相次いだ際には、
崇徳や頼長を神霊として祀り、その祟りを鎮めるべきである、
と主張したという  西行と同時代の人である 

 0016
子日しに 霞たなびく 野辺に出でて 初うぐひすの 声を聞きつる

○ 山家集にのみ入っている
○ 「たなびく」の「びく」は子日の縁語
○ 「初鶯」は、後撰和歌集くらいから出てきている。
あらたまの年越え来らし常もなき初鶯の音にぞなかるる(後撰1406) 
松の上に鳴く鶯の声をこそ初子の日とはいふべかりけれ(拾遺・春・読人知らず)

 0017
 若菜に初子のあひたりければ、人の許へ申し遣はしける
若菜摘む 今日に初子の あひぬれば 松にや人の 心ひくらん
 
○ 山家心中集にも入っているので、西行が気に入っている歌だと思う
○ 七草の日に、初子と重なった。野に出た人が心惹かれるのは
  待ちに待った小松引きの方なのだろう
○ 正月七日の行事(若菜)と初子の日が重なった
○ 西行は1118年〜1190までの人であるが、正月七日と子日が
  重なったのは、5回ある
  西行が22歳、49歳(1166)、52歳(1169)、55歳(1172)、56歳(1173)で
  ある(5回のうち、22歳ではないと思う)
○ 若菜の日が子日になるとすれば、元旦が馬の日になる
○ 正月七日子日にあたりてゆきふりはべりければよめる 伊勢大輔
 ひとはみなのべのこまつをひきにゆくけさのわかなはゆきやつむらん(後拾遺和歌集)
  雪が「積む」が「摘む」にもかけている。さらに「抓む」にもかけることがある。

 0018
 雪中若菜
今日はただ 思ひもよらで 帰りなん 雪つむ野辺の 若菜なりけり

○ 山家心中集にも入っている。西行の気にいった歌である。後に、
  続拾遺和歌集にもとられる。
○ 今日はもう若菜摘みは断念して帰るとしよう。野辺には雪が積もっているから。
○ 雪積むー若菜の縁語「摘む」をかける
○ 若菜にと野辺にも出でし今日はただ降り積む雪に任せてを見む  四条宮下野集
  という、似たような発想の歌がある

 0019
 若菜
春日野は 年の内には 雪つみて 春は若菜の 生ふるなりけり

○ 山家集にのみ入っている
○ そこまで考えなくてもよいのかもしれないが、「旧い年が暮れて、新年が
  巡って来る。歳がとったものが若返る(回春) そのようなこともあるのか?

 0020
 雨中若菜
春雨の ふるのの若菜 生ひぬらし ぬれぬれ摘まん かたみたぬきれ

○ 西行上人集、山家心中集にも入っている
○ 春雨の降る布留野に若々しい若菜が生えてきたらしい。濡れながら
  摘もう。袖ならぬ籠に手を差し入れて。
○ 「降る」の「ふるの」 
○ 筐手貫入(かたみたぬきいれが詰まって、かたみたぬきれ)
○ 春来れば筐貫き入れて賤の女が垣根に小菜を摘まぬ日ぞなき(堀河百首・隆源)
○ 布留野―万葉集  平安時代には、ふるのは歌枕になっている

 0021
 若菜によせて旧きを懐ふといふことを
若菜摘む 野辺の霞ぞ あはれなる 昔を遠く へだつと思へば

○ 宮河歌合にも入っている
○ 若菜によせての「若」と旧きを思ふの「旧」を対象させている
○ 「霞が立っている」 霞は物を隔てると考えられていた 
  隔てー空間の隔て 時のながれの隔て
 空間を隔てる霞に時間の隔たりを感覚する趣向を定家も評価する
○ 西行としては工夫をして詠んだ歌と思う
○ この歌は宮河歌合三番の左(勝)
○ 右の歌は、23の歌
若菜おふる春の野守にわれなりて憂世を人につみしらせばや

 0022
 老人の若菜といふことを
卯杖つき 七種にこそ 老いにけれ 年を重ねて つめる若菜に

○卯杖―中国の漢朝に起源があり、桃の枝で剛卯杖をつくり鬼を
 祓ったという。日本では持統(じとう)天皇の3年(689)よりその存在が
 確認され、平安時代に盛行したようすは諸儀式書や文学作品に
 うかがえる。南北朝時代の『建武(けんむ)年中行事』に記載されて
 いるが、その後は中絶したようである。
 西行の時代に行われたのかもしれない。わからない。
○ 正月初卯の日、悪鬼を祓うというまじないの杖を、大学寮や諸衛府から
  天皇皇后などに献上する儀式であるが、庶民がしたかどうかはわからない
○ イザナギは黄泉比良坂(よもつひらさか)まで逃げてきて、三個の桃をとって
  投げつけようやく 黄泉国から逃げることができた。
 (桃の実を投げる----中国陰陽五行思想より来るもので、桃は邪悪な
 ものを退ける呪物とされている。道教の神・西王母(さいおうぼ)の好む
 木の実とされている)
○ 正月七日卯日にあたりてはべりけるに、けふはうづゑつきてやなど
  通宗朝臣のもとより、いひにおこ せてはべりければよめる
 若菜 うづゑつきつままほしきはたまさかに君がと(ふ)ひのわかななりけり
後拾遺和歌集33
○ 西行の前にも、卯杖・若菜の歌があった

 0023
 寄若菜述懐といふことを
若菜生ふる 春の野守に われなりて 憂き世を人に つみ知らせばや

○ 宮河歌合、山家心中集にも入っている
○ つみ知らす  抓む=摘む 西沢氏は罪とかけているというが、そうでは
  ないと思う。抓って知らせたいということだと思う。
○ 思ふとは摘み知らせてき雛草(ひひなぐさ)童遊びの手戯れより   源仲正
  この歌は、西行のこの歌に影響を与えている。二人で遊んでいて、
  (幼い頃から)あなたをつねってしらせたよ
○ ここまでで、子日の歌が終わる

 0024
 寄鶯述懐
憂き身にて 聞くも惜しきは 鶯の 霞にむせぶ あけぼのの山

○ 山家集にのみ入っている
○ 一つの歌には、主題とサブがある。主題をさしおえて、サブを詠むと
  よくないとされていた。
○ 「あけぼのの山」が問題になる。江戸時代に出された本では、
  「あけぼののこえ」となっている。山家集では陽明本が一番古い
  「こえ」の方がはっきり訳せるが、「山」とする場合に、「あけぼのの
  山の中で、うぐいすがむせぶように、なく声であることだ」
  陽明文庫は、古いが間違いが多いようにも思う。「こえ」になおした方が
  よいのかもしれない。
  定家が「あけぼのの山」ということばをつかった歌を残しているので、
  すてがたいかな
○ うぐいすが霞にむせぶように鳴く
○ 西行と同年代の俊恵(林葉和歌集)の歌に
朝まだき霞にむせぶうぐいすはおのが古巣をと(尋)めやかぬらん
  という歌がある。「霞に咽ぶ」である
○ 「霧に咽ぶ」という歌を歌ったうたがある 和漢朗詠集の中の65番
   春鶯
  咽霧山鶯啼尚少  元眞
  春は霞、秋は霧 とだんだんなってきたが、万葉集の中では区別されていない。
○ 俊成の歌に、
後徳大寺左大臣十首哥よみ侍けるに、遠村霞といへる心をよみ侍ける
                        皇太后宮大夫俊成
  あさとあけてふしみのさとにながむればかすみにむせぶうぢのかはなみ
☆先生が住んでおられる杉並区にも鶯の声が聞こえるそうである

 0025
 閑中鶯
鶯の 声ぞ霞に もれてくる 人めともしき 春の山里

○ 西行上人集にも入っている
○ 霞の向こうにようやく「見えた」のはわずかに鶯の声だけだった。春になっても
  私の山家には誰も来やしない。
○ 西行より前の人の歌では
山里(やまざと)は冬ぞ寂しさまさりける人目(ひとめ)も草もかれぬと思へば
                     源宗于朝臣 
 0026
 雨中鶯
鶯の はるさめざめと なきゐたる 竹のしづくや 涙なるらん

○ 山家集にのみ入っている
○ 「さめざめ」と― 副詞が平安時代からある。 歌にこういう言い方をしたのは
  珍しい。西行が特別な言い方をしたのではないか。
○ 「竹と鶯」は昔からよく聞く。鶯の生態はわからないが、竹と鶯は
  古典文学では親しい関係である。
  かぐや姫は竹。今昔物語にも竹が出てくる。「海道記」ではかぐや姫のことを、
  「鶯姫」として出てくる。竹に雀は結びつくが、竹に鶯も結びつく。
  竹は鶯の詠み合わせ。
○ 鶯が春雨に塗れて竹林でさめざめと鳴いていたが、その涙と見えたのは、
  竹から滴る雫なのだろう。
○ 春雨に「さめざめ」を言いかける。鶯の擬人化。
 
                  2009年07月10日