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もみの木エッセイ集 56


  十一階の野原にて

 八月末に東京で西行学会があり、妹の家に宿泊することになった。
妹一家は転勤族であったが、広島、名古屋と移り住み、終の棲家として
東京郊外にある狛江市を選んだ。十年ほど前にも訪れたことがあるが、
狛江市という町は不思議な雰囲気をもっている町である。都心の近くに
あるにも関わらず、町の真ん中に、突然畑があったりする。
「近い昔は、田舎だったんですよ」と言っているような、気さくな率直な
感じを受ける。

 妹が迎えに来てくれた京王線の狛江の駅前では、衆議院選の立候補者が
最後の選挙演説に来ていた。明日が選挙日という日であった。妹は、
候補者と聴衆の間を隔てるように、自転車を押して現れ、片手を振って
私に合図した。そして、私も少し遠慮気味に、その間を縫って駆け寄り、
妹と一緒に家に向かった。

 妹が住むマンションは、駅からはよく見えているが、歩いて行くには、
五、六分はかかる。道すがら、「ここの眼鏡屋さんとはお友達だから、
メガネは、ここ以外では買えないのよ」と角のお店屋さんを示した。
店先では、店主と思われる初老の男性が、行き交う人に声をかけていた。
 「ここが市役所」と説明してくれた建物は、もうそろそろ建て直した方が
いいのではないかと勧めたくなるような薄汚れた外壁のあまり大きくは
ない建物であった。この町の財政も厳しいのだろう。
 マンションに着き、エレベーターで十一階まで上がった。以前訪れた時は
確か五階であったが、その後、日当たりのよい南向きの部屋に買い
変えたのだ。真ん中が吹き抜けになっている「ロ」の形のマンションで
あるので、ベランダの向きによっては、景色や日当たりが全く変わってくるのだ。
吹き抜け側の内側に、玄関のドアがあった。夏の間は網戸の入ったドアにして、
風を入れていた。
 「こんにちは、いらっしゃい」
と、真面目で口数の少ない義弟が、愛想よく迎えてくれた。銀行を定年で終え、
数年間嘱託で勤めた後は仕事を辞め、妹の話によれば、健康管理のために、
週に数回は近くのスイミングで泳ぎ、週末には高尾山にも登っているそうだ。
最近は渋谷のカルチャースクールの料理教室にも通っているそうである。
証券アナリストであった彼は、以前は新聞のコラムに株式情報も書いていた。
現在は、結婚して独立した息子の部屋を書斎にして使っているとのことであった。
廊下を挟んで反対側には娘の部屋があった。今日は、仕事は休みであるが、
出かけているとのことであった。
 全部屋は、数年前に改装され、整然と広く使われていた。妹の収納技術には、
普段から私も一目を置いていた。結婚して間もなくから健全な家庭を育むという
目的を掲げている「友の会」というメンバーに入り生活技術や主婦としての
家事一般の要領のようなものをメンバーと一緒に学びあっていた。
転勤して行った各地でも、地域に溶け込んで活動してきた。転勤族の知恵で
あったのかもしれない。早速、収納の様子を見せてもらった。押入れは改装時に、
天袋から下まで1枚戸にし、箪笥は処分して、衣類と寝具の収納庫になっていた。
天袋だった一番上の棚には、掛け軸が何本も入っていた。お宝拝見で
お馴染みの掛け軸かと思ったが、自分で書いた毛筆の軸のようであった。

 妹は、わが家にもよくやってくるが、収納しきれないほどにあるわが家の
荷物を見て、「私に任せてくれたら、処分するものは処分して、綺麗に
片付けてあげるよ」と、冗談交じりに言っていた。彼女は、「服などは、
三年袖を通さなかったら、もう処分したらいいのよ」と、いつも言う。我が家には、
母の手編みのもう手を通していない毛糸のセーターがポリの収納箱に四箱ほど
あるが、私は、まだそのままに積んである。母の歴史の一つである作品である。
妹は、数着だけ残し、その他の物は「お母ちゃん、ありがとうと、心の中で言って、
アフガンの難民に寄付して、もう処分した」そうである。そう言えば、
「もし、キムタクと、駆け落ちしようということがあったなら、その時、何を持っていくか。
その時に持っていく位の荷物があれば、やっていけるって、ある雑誌に書いてたよ」
とも言っていた。整理整頓するということは、まず、捨てるということから
始まるようである。布団類も量の小さな羽毛布団にし、夏の間は小さく丸めて
シーツで包み、収納していた。その他、備え付けの収納庫も造り、わが家の
収納状況とは全く違っていた。新しいものを買ったら、必ず古いものを処分
するそうである。

 南側のベランダから、町の風景を眺めると、今、歩いてきた駅からの
道が見えた。快速電車か普通電車かは、駅に停まるかどうかで判る。
駅の遥か向こうには低い山並みが見えるが、その手前には多摩川が
流れているそうである。川の向こう側は川崎市である。川沿いには、
万葉集におさめられている歌の歌碑が建っているそうである。

  多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの児のここだ愛しき

 駅前には、商店街があり、左側には、例の古びた建物の市役所が見える。
真下を見ると、マンションの道を隔てた向こう側には、大きな木造の家屋が
数件あり、直ぐ横には畑が広がっている。農家である。これらの畑の産物は、
近くの農協で安く販売されているそうである。妹が指差す方向を見ると、
新宿の高層ビルが見える。あの一群の中には、都庁もあるのだろう。毎年、
冬季に数回見えるという富士山は、見える方向だけを教えてもらった。
暮れなずむと、車のライトが点灯され、ライトの流れで交通量が多いのに
気がついた。
 
 彼女は、手早く美味しい料理を作ってくれた。お造りと舞茸、牛肉、ニンニクの
炒め物、山芋とモロヘイヤの和え物、サラダ、漬物、そして、八丁味噌仕立ての
味噌汁である。義弟は名古屋出身なので、八丁味噌なのだ。退職するまでは、
家事などは一切しなかった義弟の料理教室通いの様子を尋ねると、卵焼きを
するときは、卵を割った後は、必ず手を洗い、そして、教えてくれたことを忠実に
守って作るとのこと。基本を守れば、とても美味しいのだそうだ。義弟はポツリと、
「まさか東京に住むことになるとは思ってもみなかったんですが」と呟いた。
いつのまにか、家族の生活の基盤が都心になってしまったのだ。
 夜間も、冷房はかけないで、玄関は網戸のままで施錠することになった。
風も通るが、街の音もよく通る。夕方から車の音が大きくなってきた。
 姪はまだ帰っていなかったが、明日の学会参加に備えて、早めに就寝する
ことにした。午後十時、テレビを消すと、町の音が聴こえてきた。わが家は、
マンションの1階なので、窓も締め切って、季節に応じて冷暖房をつけて
眠るので、町の音はあまりしない。
 それに比べ、車や人の話し声も混じったような、町のざわめきが聴こえてくる。
土曜日の夜なのか、バイクの音も大きい。近くには公園があるのだろうか。
人の声も聴こえる。眼を瞑って、夕方に見た狛江の町を思い浮かべた。遠くに
ある山川、都心に続く電車、沢山の車が行き交う道路、商店街、農家の畑、
公園、そして官庁街。十一階のフロアーとはいえ、玄関からベランダまでは
外の空気が行き交っている。外気の中にいる。窓から見た畑には、虫たちも
住んでいるだろう。「私は今夜はこの町の十一階の野原で眠むるんだ」と思った。
何故か山部赤人の歌を思い出した。

  春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける

 少し楽しい気分になって、いつの間にか眠ってしまった。しかし、それも長くは
続かなかった。数時間後には、目がさめた。町はなかなか眠むりにつかなかった。
少し静まったのは、午前三、四時頃だっただろうか。それに町は早起きだった。  

 翌朝は、昨夜、遅く帰ってきていた姪と少し話した。素直ないい娘である。
居心地のよい家からは出て行きにくいだろうが、早くよい伴侶を見つけて
欲しいと思った。
 妹は、西行学会のある渋谷まで付き合ってくれて、ハチ公の銅像へも
案内してくれた。土日で行われた学会は、思ったより、専門的な内容で、
私には理解し難かったが、ほとんど最後まで頑張って受講した。

 渋谷駅から品川へ行き、品川から新幹線で、予定より早く大阪へ帰って
くることができた。
 その夜、私には、都会の十一階の野原はやはり向いていないなあ、と思い
ながら、虫の声を聴きながら眠りについた。
                             2009年09月06日