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もみの木エッセイ集 60
  「どんな看護婦や
   〜トビヒ(伝染性膿痂疹)〜

 二十数年前のことである。保育所にはまだ冷房装置はなく、夏場は、壁に付けた
扇風機を回したり、窓を全開したりして暑さをしのいでいた。今と比べると汗疹の
出来ている子ども達も多かった。
 出勤して間もなく、2歳児クラスの保育士が私を呼びに来た。
「昨日、‘トビヒ’で受診をしてもらったA子ちゃんが、お医者さんは保育所へ
行ってもいいと言われたとのことで、登所されています。お母さんからお話を
聞いてもらっていいですか」
とのことであった。保育室へ行って、トビヒの様子を見せてもらうと、背中の
汗疹のようなものが掻き壊れて、浸出液が出ていた。範囲も広かった。

 トビヒは、細菌による皮膚の感染症で、主にブドウ球菌や溶血性連鎖球菌
(溶連菌)などが原因菌で起こり、接触によってうつっていき、火事の飛び火の
ようにあっと言う間に広がるので、たとえて“トビヒ”と言われている。早期に
受診をしないと、その汁が手について、次のところを掻くと、次々に全身に
感染していく。頭髪の中にも出来ることもあった。早めの対応をしないと、
保育所においては、お互いが皮膚の弱い乳幼児集団であるので、他の児童にも
感染させるおそれがあった。そのため、患部がしっかりガーゼや包帯などで
覆えなければ、登所を控えていだくようにお願いすることもあった。
 A子ちゃんの背中の状態は、見た目には、昨日より悪化していた。
 母親のお話では、主治医のO先生は、これはまだ、‘トビヒ’ではないと言われた、
とのことで、塗り薬を出してもらったとのことであった。また、本人のためには、
患部をガーゼ等で密閉するよりは、乾燥をさせた方が治りやすいとのことで、
そのまま、Tシャツを着せてください、とのことであった。
 登所基準は、症状により異なるのはもちろんであるが、受診した主治医の
判断によるため、どの医療機関に受診するかによっても異なった。そして、
仕事を持っている保護者からは、‘熱もなく、機嫌もよく、食欲も有り、どうして
このトビヒのために保育所を休ませなければならないのか’という思いも
感じられた。
 しかし一番の問題は、保育所現場でのトビヒの感染状況である。曖昧な
登所基準や対応に流されてしまうと、次々と他児にも感染していく。状況に
よっては、登所停止にして協力をしてもらうと、その子どもだけで治まることも
あるが、対応が適切にいかなかった場合は、クラスの半分くらいが、次々と
罹ってしまうこともあった。この状況は、医師よりも保護者よりも、側で現状を
見つめている保育所職員が‘一番よく知っている’という自負のようなものがあった。
 その朝、保育士が私を呼びに来たのも、
「本当に、受け入れてもいいんですか」
という思いがあり、私を呼びに来たのだった。
 保護者や医療機関を相手にして、問題を起こしたくなければ、そのまま保育を
受け入れればいいことはわかっていた。しかし、そういう現状をわかっている
現場の人間として、言わなければいけない責任感のようなものがあった。
「昨日、受診していただいて、塗り薬を貰って来られたんですね。今日、
見せていただくと、昨日より症状がひどくなっているような感じもしますが、
どうですか。急性期の場合は、症状は毎日変わってきますので、昨日、
受診された時には、先生はそのように言われたかもしれませんが、
申し訳ないんですが、今日、もう一度診て頂いて、相談されてみてはどうでしょうか。
昨日と今日の症状は違っていると思います。先生とも、もう一度相談されて、
内服した方がよかったら、お薬を出してもらってください。それから、トビヒと
診断された場合は、他の児童への感染予防も考えないといけませんので、
登所が可能だといわれた場合は、ガーゼなどで覆ってもらわないといけないんです。
これも先生と相談してきていただけますか」
とお願いした。
「えっ、また受診するんですか」
「ええ、拡がってくると、手足や頭髪の中まで出てきますから、A子ちゃんのためにも、
相談していただいた方がいいと思います」
と話した。そして、再診の結果、抗生物質の内服薬を出してもらい、
保育所においては、ガーゼなどで覆わせてもらうことになった。
A子ちゃんの母親は、
「O先生は、‘登所していいといっているのに、また受診して聞いて来いって、
どんな看護婦や’と言っていましたよ」
と話していた。しかし、保育所の言い分も、少しは聞いていただくことが出来た。

 トビヒの対応の難しさについては、各保育所でも悩んでいた。保育所
保健担当者対象の「感染症の対応」に関する研修会でも、保育所現場から
その対応についての質問が、よく出された。保育所としては、嘱託医や
多くの医師が出席されている場で、敢えて質問を出すことによって、現状を
知っていただき、判断基準について共に考えていただきたいという思いがあった。
 その後、数年たってから、大阪府の医師会から、‘保育所(園)での、
トビヒ(伝染性膿痂疹)の登所に関する判断の目安’など、対応が難しい
感染症についての目安が、毎年幾つか出された。以前より、治療方針や
保育所での対応についても判断されやすく、保護者への説明もしやすくなった。

 現在でも保育所では、夏場は虫刺されや湿疹などからのトビヒも
各クラスで発症している。
「どんな看護婦や」と言われたO先生は、その後、私が勤めている市立保育所
嘱託医会の会長になられた。私もその後転勤し、保育所職員や保護者向けの
「保育所に多い感染症の対応について」という一覧表を作ることになった時には、
O先生を訪ね、相談にのっていただいた。また、いつも問題が生じた時には
相談にのってくださり、保育所保健に関して熱心に取り組んでくださった。
私は、O先生が亡くなるまでの約十年間、仕事の上ではご指導をいただき、
懇意にしていただいたが、「どんな看護婦や」と言われた看護婦が私だったことは、
先生には最後まで話さなかった。
                         (2009年10月11日)