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もみの木エッセイ集 61
  記憶に残っていること
  
 最近、めっきりと記憶力の落ちてきた私ではあるが、小さい頃の出来事の
中には、鮮明に記憶に残っている場面がある。
 このたびは 「記憶に残っていること」堀江敏行偏を読んだ。これらの短編小説の
中に書かれているのは、著者が記憶に残っていることを、改めて回想し、分析し、
書き表された物語である。
 主に、「マッサージ療法士ロマン・バーマン」ディヴィド・ベズモーズギス著に
ついて、感想を述べていきたい。
 私の息子の世代の著者である。1973年、ユダヤ人の両親のもと旧ソ連
ラトヴィア共和国リガに生まれ、80年、カナダ・トロントへ移住している。
 移民であり政治難民でもあるロシア系ユダヤ人の一家が、新しい国で
生計を立てていくための努力をしていく。平凡で真面目な一家の努力や
周囲の人達との関わりを、9歳の少年の目線で語られている。
 母国語ではない異国の英語で、マッサージ師の免許を取るために昼は
チョコレート工場で働き、毎晩医学書と辞書を手に苦しい努力を重ねる父の姿。
そして、父の試験の日の朝の緊張した様子や一家の姿。期待。嬉しい合格通知と
開業準備。そして、最後の仕上げに母親の手でなされた金物店で買ってきた
アルファベットの粘着シートで綴られた「マッサージ療法士ロマン・バーマン」という
一家の期待を込めたドアの文字が出来上がる。

 これらの風景の記憶とともに、マッサージに通ってくる人物観察や利害関係なども
含めた人間模様が描かれている。初めは忠誠心で通ってきてくれていた知り合いの
人達も、便宜性に敗退して来なくなる。
 期待していたマッサージ業が末期症状になった時、父親はラビに相談に行くことに
なったが、より同情を買うために9歳の息子も連れて行くことになった。父親は窮状を
訴えると共に、息子が、どれほど勉強がよく出来て賢いかを話し、ヘブライ語で話を
させたり歌わせたりする。ユダヤ人の血をひいた「将来有望な少年である」という
アピールである。息子は、黙って父親の横に座っているが、様々な気恥ずかしさが
入り混じる。父親が思っている以上に息子は、ラビの表情や父親の観察をしている。

 これらの物語の中には、9歳の子どもなりの観察があるが、場合によっては、
当の大人より、その場の状況を第三者の立場で静観し、細やかな状況把握が
なされている。
 多分、著者のその時の場面の記憶は、当時の自分の年齢相応の身丈で
感じているものではあるが、成長していく過程において、教養や知識が身につくに
つれて、その場面の裏に秘められた社会情勢や思想が理解できてきたのでは
ないかとも思う。何故、あの時、父母がそのように振舞ったのか、それぞれの
人々の言動を、より鮮明に立体的に感じることが出来てきたのではないかと思う。
 子どもが父母の生活や社会をこのように細やかに観察し、感じ取っているという
ことを、大人の側からは想像がつかないことだと思う。
 ロシア系ユダヤ人として、悲惨なことを訴えれば、支援者の同情をかうということも、
観察している。子どもなりに、疑問を感じて、「その話は本当なのか」と、同じ年代の
少年に尋ねている。そして、その場面の少年の言動も記憶している。細かい記憶が
残っているからこそ、現実味がある。
「記憶に残っていること」堀江敏行偏の10篇の短編小説の中には、その人にしか
経験できなかった記憶が書かれている。
「もつれた糸」の定年退職後の初老男性の愛人からの手紙を通して想像される
生活や、「献身的な愛」の姉弟と、ある一人の男性との三人三様の思いなど等、
個人の記憶に基づいてでしか書けない物語である。
 決して大きな出来事ばかりではない。何気ない体験であり、記憶である。
それだからこそ、読者にとっては新鮮で興味深い。
 これらの短編小説を読みながら、私の記憶も掘り起こしていけば、このような
物語がいくつかあるかも知れないと、思われてきた。もしかすれば、何か書けるかも
しれない。 
                       (2009年10月26日)