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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.05(隔週発行)
2002年6月10日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
今号から右京区の歌と詞書をご紹介いたします。右京区の歌は
10首以上ありますので、しばらく右京区の歌にお付き合い願います。
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■ 西行の京師 第5回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 萬代のためしにひかむ龜山の裾野の原にしげる小松を
(142P 賀歌))
2 躑躅咲く山の岩かげ夕ばえてをぐらはよその名のみなりけり
(40P 春歌)
《 詞書 》
○ 「待賢門院の中納言の局、世をそむきて小倉の麓に住み侍
りける頃、まかりたりけるに、ことがらまことに優にあ
はれなりけり。風のけしきさへことにかなしかりければ、
かきつけける」 (135P)
以上の詞書の後に、次の歌が続いています。
○ 山おろす嵐の音のはげしきをいつならひけるきみがすみかぞ
(135P 羇旅歌))
○ 「小倉をすてて高野の麓に天野と申す山に住まれけり。お
なじ院の帥の局、都の外の栖とひ申さではいかがとて、
分けおはしたりける、ありがたくなむ。歸るさに粉河へ
まゐられけるに・・・」以下、略します。
(135P及び136P)
(1)の歌の解釈
言葉通りの解釈で良いと思います。万代のために亀山に繁る
小松を引こう・・・というほどの意味なのでしょう。この歌は
賀歌です。鶴と亀は祝詞としての意味がこめられている生物です。
だからここでは、固有名詞としての亀山でなくても、亀の文字の
ある場所だったらどこでも良かったのでしょう。万代とは崇徳
天皇の治世をさしているものかどうか、不明です。
尚、小松を引くということは、正月の最初の子(ね)の日に
行われていた長寿を願うための慣習です。
(2)の歌の解釈
今を盛りと咲くつつじの赤い花が、夕日に映えて、ことさらに
明るく見える。小倉という土地の名が、どこかほかの場所でも
あるかのように、ふさわしくないことだ。
(をぐら)は(小暗)にかけていることによって、この歌は成立
しています。
(注)ここに記述する歌の解釈は、あくまでも参考としてのものです。
歌の解釈なんて、ひとつの歌を読む人が10人いたら10通りの
解釈が成立していいと思います。読者の皆さんが、それぞれの感覚で
解釈されたら良いことです。だから、ここで記述していることごとは、
一つの目安でしかありません。ご自身の自由な感性で、一つの和歌
作品と向かい合うことをお勧めいたします。
○ 135Pの詞書について
鳥羽天皇の中宮であり、第75代崇徳天皇、及び、第77代後白河天皇の
母である待賢門院が崩御したのは1145年8月のことです。門院に仕えて
いた女房達は三條高倉の門院邸で一年間の喪に服しました。
喪が明けてから、中納言の局は門院邸を出て、小倉に庵を結んだと
いうことがわかります。撰集抄では、3年ほど後に小倉の庵で重病を
患い、そこで死亡したと記述されています。
○ 135P〜136Pの詞書について
中納言の局は、小倉を出て天野の里に住んだようです。
門院崩御後、それほどの年数はたっていないでしょう。
西行30歳代前半の頃でしょう。帥の局が天野に中納言の局を訪ねて
行って、西行も高野山から下りて、粉河寺や吹上の浜に同行したことが
記述されています。
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《 2・補筆事項 》
1 亀山と亀山公園
亀山は大井川左岸、渡月橋より上流にある山の
一帯を指します。この大井川左岸あたりは、亀の尾町
といいます。亀の甲羅のような地形から亀山と命名された
ようです。渡月橋左岸を上流の方に歩いて行くと、
亀山公園の上り口があります。公園といっても、娯楽
設備はありません。中国の首相だった周恩来の「雨中嵐山」
の碑、幕末に勤皇方として活躍した村岡の局や角倉了以の
像などがあります。展望台からは保津川が一望できます。
この公園には松はたくさん繁っています。
裾野の原とは、この公園あたりではなく、現在の
天竜寺あたりと考えられます。当時は天竜寺はもちろん、
亀山御所もありませんでした。亀山御所の建立は1200年
半ばのことです。その時に吉野の桜を嵐山に移植したようで、
西行の時代は嵐山に桜があったとしても少なかったのでしょう。
2 小倉 小倉山と、そしてそのあたり一帯と解釈して差し支え
ないでしょう。小倉山は天竜寺の背後にある山です。
平安時代の貴人達の隠棲の地であったともいえます。
3 天野 和歌山県、かつらぎ町天野
高野山は女性が入れない山でした。そこで、女人高野として、
天野の里に落飾した人達が住みました。西行の妻と娘も天野に
住んだという伝説があります。(西行物語)
4 粉河 和歌山県那賀郡粉河町。
西国三番礼所の粉河寺があります。
中納言の局と帥の局については下のページを参照願います。
http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/mei03.html
下は右京区の画像です。
http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/ara01.html
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《 3・所在地情報 》
1 亀山公園
京福電鉄 嵐山本線「嵐山」下車 徒歩約10分
JR 山陰本線 「嵯峨嵐山」下車 徒歩約15分
阪急電車 嵐山線「嵐山」下車 徒歩10分
市バス 11、28、93系統、「嵐山」下車 徒歩約5分
京都バス 61、62、63、71、72、73系統「嵐山」下車徒歩5分
2 小倉
上記の亀山とほぼ同じです。
京福電鉄5分、JR10分、阪急15分というところでしょうか。
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 亀のをの山の岩根をとめておつる滝の白玉千世の数かも
(紀これおか 古今集)
2 亀山にいく薬のみありければとどむるかたもなき別れかな
(戒秀法師 拾遺集)
3 亀山のこふをうつして行く水にこぎ来る船はいくよ経ぬらん
(紀貫之 貫之集)
4 子日するいづくはあれど亀の尾の岩根の松を例にぞひく
(新千載集 藤原為家)
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《 5・お勧め情報 》
嵯峨野観光に一興かとも思います。人力車のページです。
http://www.nekojita.com/report/9811-kyoto/jinriki.html
このお勧め情報は、できる限り、民間の商店や商品の紹介は
避けたいと思います。したがって、今後はお勧め情報は
発信できない場合も多いかと思います。ご了承願います。
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《 6・エピソード 》
6月・水無月です。この小稿を打ち込んでいる6月8日までに、
京都では今月の降雨がありませんでした。今年の入梅日は
6月11日ですから、その頃になると梅雨入りの報も出るの
でしょう。いわゆる五月雨です。
梅雨の頃の楽しみの一つは、アジサイに接することです。
この花の色の変化(へんげ)は驚異的です。土壌の性質に
よって花の色調に違いが出るそうですが、青、あるいは
紫の色を基調として、微妙に色調を変えながら、水滴を
たたえて、しっとりとたたずんでいる様子はとても魅惑的です。
ですが、案外に自己主張の強い、したたかさみたいなものも
同時に感じます。どちらにしても、この季節の楽しみの一つで
あることにちがいありません。
山家集には五月雨、さみだれの名詞が詞書、歌の合計で30回
ほど出てきます。参考までに、水無月の記述はありません。
現在の我々からみると、とても住居とは言えない草庵で、西行は
どのようにして、梅雨時をやりすごしていたのでしょうか。
豪雨であれば、雨水は庵の中に滝のように漏れ落ちたことでしょう。
現在でも豪雨による家屋倒壊などということはよく新聞沙汰に
なります。西行の粗末な作りの庵も、何度も雨や風で倒壊の憂き目
をみたのではないかと思います。それは、あの時代にあっては自身の
命そのものが、常に危険にさらされていたということと同義でしょう。
自然の現象は、梅雨にしろ、寒さにしろ、決して楽しみながら歌に
するという性質のものではないはずです。
あの時代にあって、個人が個人の人生を生きるということは、
むきだしの個人の命そのものをいつも真剣に見つめているという
ことだったのでしょう。浄土の思想が当時の人々に受け入れられたのも
理解できる気がします。
世はワールドカップとかいう球技の話題で沸騰しています。
球技なら、ついつい、蹴鞠を連想します。蹴鞠も達者であったらしい
西行にサッカーをさせる。
そういう、らちもない想像に一人でにんまりしています。
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