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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.07(隔週発行)
2002年7月08日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
日本三大祭りとは東京の山王祭、京都の祇園祭、大阪の天神祭を指します。
そのうちの一つである祇園祭ももうすぐです。16日の宵山、17日の
山鉾巡行はたくさんの人出で、とてもにぎわいます。
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■ 西行の京師 第7回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 わがものと秋の梢を思ふかな小倉の里に家ゐせしより
(89P 秋歌)
2 小倉山ふもとの里に木葉ちれば梢にはるる月をみるかな
(95P 冬歌)
《 詞書 》
○ 世をのがれて嵯峨に住みける人のもとにまかりて、後世
のことおこたらずつとむべきよし申して歸りけるに、竹
の柱をたてたりけるを見て
(169P 雑歌)
この詞書の次に下の歌があります。
「よよふとも竹の柱の一筋にたてたるふしはかはらざらなむ」
(1)の歌の解釈
小倉に庵を構えてそこに住むことによって、小倉のすべての景物に
親近感を覚えたことでしょう。いつも見る小倉山、そして庵の周りの
一木一草にまで深い思い入れが生じたはずです。小倉に住んでいな
かったら単なる通りすがりの傍観者としての視点のままですが、
実際に住んでみることによって一本の梢であっても、自分の物の
ように感じられる・・・そういうことを表しています。
尚、この歌は二尊院の境内にある立て札に書かれています。歌碑です。
二尊院の門を入ってすぐの左側に「西行法師庵跡」の石碑もあります。
(2)の歌の解釈
この歌は秋から冬にという時間的な推移、つまりは季節の持つ特性に
よりかかって、冬という季節における寂寥感を歌い上げています。
木葉散れば・・・ということは当然に落葉の季節です。当時は現在より
寒さが厳しいものだったはずです。小倉山の樹々も葉を落として
しまって、枝だけの姿をさらして寒々として見える。その、葉がなく
なった枝の中に、月がかかっていて、それは凍てついたような感じ
さえさせる。
そういう自然の見せる一つの現象の、澄明なまでの静かさ・・・
時間を切り取って表現したような荘厳さ、そういうことが感得される
歌です。もちろんそれは自然の見せる一景観を詠いあげたもので
ありながら、同時に西行その人自身の心のありようと深く結びついて
いることがわかります。季節によりかかった寂寥感というものを超えて、
凛とした気高さみたいなものを感じさせる歌です。
○詞書について
「嵯峨に住みける人」とは誰を指しているのか特定できません。
言葉の調子、やさしく諭していることから考えて、年下の
近親者のような感じがします。西行は係累については人名は
もちろんのこと、まったく記述していないのです。
歌の意味は「世を経ようとも、この竹の柱が真直ぐのび立って
いるごとく、一筋に仏道修行をと立てた志は変わらないでほしい」
ということのようです。 「新潮日本古典集成より引用」
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《 2・補筆事項 》
1 二尊院
小倉を代表する名刹です。第52代嵯峨天皇の勅願により、800年代
半ばに創建されたと伝えられています。
釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を祀るために「二尊院」の名がついたと
言われています。中興は法然上人。法然堂もあります。
二条家・三条家・四条家・鷹司家などの菩提寺でもあります。
角倉了以が伏見城の薬医門を移築したと伝えられる総門をくぐると、
紅葉の馬場が続いています。突き当たりの勅使門をくぐると、
1500年初め頃に再建されたという本堂につきます。大きい本堂では
ありませんが、この大きさが丁度良いと思えるほどに、付近の自然の
景観の中に違和感なくとけ込んでいるようにさえ感じます。本堂の
結構の調和もすばらしいものです。どの季節に訪ねても、それなりの
風情が感じられるお寺です。
2 時雨亭
藤原定家の時雨亭の場所は特定できません。現在も二尊院、
厭離庵、常寂光寺の3ヶ所が時雨亭跡と称しています。
定家を継いだ藤原為家のお墓が厭離庵の近くにありますので、
私見では厭離庵付近ではなかろうか・・・と思います。
為家の妻は宇都宮頼綱の娘であり、宇都宮頼綱は「嵯峨中院」という
豪邸を構えていました。現在も清凉寺の西に地名が残っています。
定家山荘はこの「嵯峨中院」の近くにあったようです。ちなみに、
厭離庵はこの「嵯峨中院」の敷地内に後世になってできた尼寺と
いうことです。
終生続く咳病という持病もあり、身体の不調を口癖のように嘆いて
いる「明月記」の記述から考えて、急峻な坂のある二尊院の時雨亭
にまで行くのは、苦行を自身に強いていたことになります。年齢を
重ねてから小倉山の中腹にまで行っていたのでしたら、とりたてて
言うほどには体調は悪くはなかったのかもしれません。なにしろ、
あの激動の時代を泳ぎきって正二位、権中納言にまで登った京極黄門
藤原定家は80歳まで存命しました。
3 西行井戸
この井戸は落柿舎(らくししゃ)の裏手にある向井去来の墓のある
通りにあります。ただし、この井戸については「都名所図会」でも
記載がありません。井戸そのものは古くからあったようですが、
古い嵯峨地誌にも載っていず、『平成の時代になって、突然に
西行井戸と呼称されたようです。』したがって、その信憑性に
ついては疑問視されているそうです。
なお、落柿舎の扁額は折口信夫の筆によります。
向井去来は芭蕉十哲の一人です。落柿舎が去来の庵の跡なのかは
定かではありません。あくまでも推定地に建っています。
『 』内、三弥井書店 岡田隆 氏著 「歌碑が語る西行」
を参考にしました。
4 西行庵跡
二尊院に入ってすぐにある石碑は、実際にあった西行の庵の位置と
それほどの違いはないものと思います。「都名所図会」第2巻では
「長(たけ)の社の南にあり・・・」と記述されています。
「長の社とは二尊院大門のまへなる祠なり・・・」とありますので、
どちらにしても、西行の小倉の庵は二尊院の総門の近辺でしょう。
5 歌詰橋
各地に残る西行伝説の一つです。歌詰橋は天竜寺の東を流れる芹川に
かかる竜門橋を指します。一説には、二尊院までの途中にあったよう
です。西行が童子と歌を詠みあって、負けたという伝説です。
6 厭離庵
嵯峨釈迦堂(清凉寺)の西にあります。拝観はできません。
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《 3・所在地情報 》
◎ 二尊院(にそんいん)
所在地 右京区嵯峨二尊院門前長神町27
電話 075-861-0687
交通 京福電鉄嵐山線「嵐山」下車 徒歩約15分
JR山陰本線「嵯峨嵐山」下車 徒歩約20分
京都バス 61.62.71.72.90系統
市バス 11.28.83系統
それぞれ嵯峨小学校前下車 徒歩約5分
概要 補筆事項を参照してください。
拝観料 500円
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 小倉山峯のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
(貞信公(藤原忠平) 百人一首)
2 いつとなきをぐらの山のかげを見て暮れぬと人の急ぐなるかな
(道命法師 新古今集)
3 をぐら山ふもとの野邊の花薄ほのかに見ゆる秋のゆふぐれ
(よみ人しらず 新古今集)
4 とく暮るる小倉の山の影もなし秋の紅葉の下照らす頃
(藤原家隆 壬二集)
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《 5・お勧め情報 》
右京区のものではないのですが、やはり7月の京都といえば、
お勧めはこれをもって嚆矢とするでしょう。(嚆矢という言葉の
用い方は、少しふさわしくないかもしれません)
八坂神社の祗園祭のページです。
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/gion.html
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《 6・エピソード 》
この小稿を打ちこんでいる7月6日現在、まだ梅雨明けの報はありません。
祇園祭も近いので、もうすぐ梅雨明けとなることでしょう。それにしても、
今年の梅雨時もまとまった降雨がありませんでした。湿度が高く蒸しは
しますが、梅雨ということばをわざわざ冠する必要もないほどの降雨量
でした。もう少し降ってくれないと、本格的な夏を迎えるにあたって、
貯水量の事が心配になりますね。琵琶湖の貯水量はどうなのでしょう。
さて、京都の7月はなんといっても祇園祭です。祗園祭は7月いっぱいの
1ヶ月間続くお祭りとのことです。このお祭りについての詳しい事は、
お勧め情報の八坂神社のサイトをご覧下さい。
愛媛県のすごいとしか言えない田舎から、私が京都に移ってきたのは
1964年3月のことです。その年の記録を見ると、東京オリンピック開催、
東海道新幹線開業、佐藤栄作内閣成立、シンザン三冠馬となる・・・などと
あります。そう言えばそんなこともあったなーという程度に記憶はあいまいに
なってしまいました。当時、紅顔の美少年だった私も額に幾本もの深いしわを
刻んでいます。
京都ではじめての祇園祭を迎える少し前に、職場の先輩に聞いたのです。
私 「お祭りの日は仕事は休みですか?」
先輩 「とんでもない。そんなことで仕事は休みにならないよ」
とても残念に思ったことを覚えています。ということで、私が実際に
山鉾巡行を見たのは、京都にきてからかなりの年数がたっていました。
祇園祭に直接に参加できる人達は限られていて、多くの人達はただ見るだけ
です。京都市民が祇園祭との一体感、連帯感というものを持てないことが、
このお祭りの最大の弱点でもあるのでしょう。
西行とは関係ありませんが、今年の山鉾巡行の模様を撮影して次回マガジン
発行までにアップしたいと思います。
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