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    ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.08(隔週発行)
                      2002年7月22日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  出典不明ですが、京都の夏は祇園祭から五山の送り火までの1ヶ月間
  とはよく聞くところです。でも、送り火が終わってからも厳しい残暑の
  日々が続きます。
  7月20日本日、近畿も梅雨明け宣言が出されました。青空が広がって
  います。これから炎熱の日々が始まります。

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     ■ 西行の京師  第8回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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 《 1・今号の歌 》

  《 歌 》

 1 限あればいかがは色もまさるべきをあかずしぐるる小倉山かな
                       (88P 秋歌)
 
 2 をぐら山ふもとをこむる秋霧にたちもらさるるさを鹿の聲
                       (276P 補遺)

 《 詞書 》

 ○ 嵯峨に棲みけるに、たはぶれ歌とて人々よみけるを
                    (248P 聞書集)

  この詞書の次に13首の歌がつづいています。
  その内の一首に次の歌があります。

  「竹馬を杖にも今日はたのむかなわらは遊びをおもひいでつつ」

  「(1)の歌の解釈」

   この歌には(紅葉色深といふことを)という詞書がついています。

   「物事には限度があるから、どうしてこれ以上紅葉の色が深くなる
    ことがあろうか。けれども、すっかり紅葉した小倉山になお
    あきることなく時雨は降っているなあ」とあり「極限といえるまで
    紅葉した美しさを詠じた歌」ということです。
                「新潮日本古典集成から引用」
    時雨が紅葉の色を深めるという共通認識が前提としてあることに
    よって成立している歌です。

  「(2)の歌の解釈」
 
   この歌は山家集には採録されていず、異本山家集のみにあります。
   「宮河歌合」18番右の歌です。実際に小倉の庵で詠ったもので
   あろうがなかろうが、小倉に住んでいたという経験によって、詠まれた
   一首であることは確実でしょう。
   ここに詠みこまれている情景の世界は、作者である西行が、小倉という
   固有の土地の景物と渾然と一体となっているということをうかがわせる
   に足る円熟の味を感じさせます。「限りあれば・・」歌は初句が倒置法
   から入っていて難解でありますが、この歌は西行が提示する歌の世界に
   読者は自然に誘いこまれるのではないでしょうか。ちょっと物足りない
   気もしますが、納得できます。西行が老境に入ってからの詠歌です。
   

   ○ 詞書について

  「人々よみけるを」の人々の中には寂蓮法師もいたのかもしれません。
   寂蓮は晩年を嵯峨の庵で過ごしていたことが知られています。
   でも年数が合うかどうかわかりません。この頃、西行は慈円、家隆、
   隆信、寂蓮、定家などに百首歌を詠むことを勧めています。慈円と
   ともに叡山の無動寺に登ったのもこの頃かもしれません。(278P)

   この詞書も、西行が晩年になって嵯峨に住んだことを示しています。
   高野山を出てから伊勢に住んでいた西行が、奈良・東大寺の重源上人の
   依頼で二度目の陸奥行脚をしたのは1186年のことといわれています。
   東大寺は1180年に平氏に焼かれてしまいました。その再建のために、
   奥州藤原氏の協力を取り付けることが目的の旅でした。
   旅から帰って、河内の弘川寺に移るまでの短い期間を嵯峨の草庵で
   過ごしたものであろうと推定されています。1187年から1188年にかけて
   だろうと推定されています。老境になって、昔日のことを詠ったのが
   「たはぶれ歌」です。軽快な調子に満ちています。
   掲載した歌の意味は、竹の杖をついて歩くほどに老いてしまったけれども、
   幼いときにした竹馬の遊びがなつかしく思い出されることよ・・・
   というほどのことでしょう。

  1 慈円
   http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jien.html
  2 家隆
   http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ietaka.html
  3 隆信
   http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/takanobu.html
  4 寂蓮
   http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jakuren.html
  5 為家
   http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tameie.html

   (注) 他に小倉の歌は次の2首があります。
 
  1 「大井川をぐらの山の子規ゐせぎに聲のとまらましかば」

  2 「小倉山ふもとの秋やいかならむ高野の峯は時雨てぞふる」   

  1 の45P歌は第2号で紹介していますので、重複をさけるために、
    ここでは割愛させていただきます。

  2 の歌は伊藤嘉夫氏の日本古典全書に収録されていますが、岩波文庫山家集
    にはありませんので、歌の紹介だけにとどめます。

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   《 2・補筆事項 》

  1 嵯峨の草庵

  6号及び7号でも触れましたように西行は出家直後に、嵯峨に草庵を
  構えていたことが知られています。また、今号でも触れましたように、
  二度目の奥州行脚から帰ってからも一時期、嵯峨の庵に住んでいたことが
  知られています。
  同一の場所かどうかは不明です。でも、長く高野山にいた時でもしばしば
  山を下りて京都に来ていたことがわかりますので、その時に嵯峨の庵で
  しばらく逗留したのかもしれません。
  もしそうでしたら、嵯峨の庵はずっと処分しなかったという事も可能性と
  して考えられますね。西行が不在の時は、誰が庵を管理・維持していたので
  しょうか。火災、群盗の横行など、庵を維持するには厳しい時代だったと
  思います。
   
  2 仲清の子供について
  
  西行の弟、もしくは兄に佐藤仲清(さとうなかきよ)という人がいます。
  佐藤家は紀伊の国に田仲庄という荘園を持っていました。
  この仲清という人は隣接する荒川庄に軍兵を率いて押妨を繰り返して
  いたと記録にあります。平治の乱あたりから、源平争乱の頃までです。
  仲清の子供に能清がいます。西行の甥にあたります。この能清という人は、
  舎人から左衛門尉になっており、後白河院の北面の武士にもなっています。
  北面の武士になっていたということは京都にも生活の基盤があったと
  いうことです。 
  出家前の西行の邸宅が油小路二条にあったといわれますので、西行の係累は
  京都では、ずっとそこで住んでいたのかもしれません。
  嵯峨の西行の庵も、西行の係累が管理・維持していたとするなら納得できます。
  西行は仲清や能清との関係は終生保ちつづけていたようです。
         「以上、西行の思想史的研究(目崎徳衛氏著)
           及び西行の研究(窪田章一郎氏著)を参考にしました」   

  3 宮河歌合(みやかわうたあわせ)について

  西行が晩年になって伊勢神宮の外宮に奉納した自歌合です。
  左右36番、合計72首です。
  これは藤原定家に判を依頼しました。

  これとは別に伊勢神宮内宮に奉納した御裳濯河歌合(みもすそがわうたあわせ)
  があります。歌数は宮河歌合と同じ72首です。
  こちらの方は藤原俊成に判をしてもらっています。

  注 判(はん)
    
   一番につき、左右の2首があります。どちらの歌にどんな特徴、味わいが
   あるか批評し、優劣をつけることをいいます。

  4 さお鹿

  「さ」は接頭語です。語調を整え格調高くする作用があります。
  「お」は雄、牡という意味です。
  ちなみに「さ」が付くのは牡の鹿だけです。雌鹿にはつきません。
  なんだか牡あるいは男だけにある、切ない哀愁が色濃く漂っていますね。
 
  5 紅葉と時雨

  「染めてけりもみじの色のくれなゐをしぐると見えしみ山べの里」
                     (88P 秋歌)
  などのように、紅葉、もみじ、紅、錦などの名詞とともに、時雨の名詞が
  同一歌の中に詠みこまれているのは山家集に9首あります。紅葉、もみじ、
  紅、錦の詠みこまれた歌は37首ありますので、格別に多いとは思いませんが、
  紅葉と時雨は格好の取り合わせだったことは理解できます。
  
  「いつよはる(りか)紅葉の色は染むべきと時雨にくもる空に問はばや」
                    (87P 秋歌)
  という歌も紅葉と時雨の関係を示しています。万葉集から紅葉と時雨の
  取り合わせの歌は多くて、時雨が紅葉の色を深めるということは歌人達の
  共通認識だったものと解釈できます。

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  《 3・所在地情報 》

  1 嵯峨・嵯峨野・小倉

     京福電鉄 嵐山線「嵐山」下車すぐ
     JR 山陰本線 「嵯峨嵐山」下車 徒歩約15分
     阪急電車 嵐山線「嵐山」下車 徒歩15分
     市バス 11、28、93系統、「嵐山天竜寺前」下車すぐ
     京都バス 61、62、63、71、72、73系統「嵐山天竜寺前」下車すぐ

  ○ 今回も6号と同じに天竜寺前といたしました。 

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 《 4・関連歌のご紹介 》
 
「藤原定家」
 
 1 をぐら山秋のあはれやのこらましをしかのつまのつれなからすは
                  
 2 露霜の小倉の山に家居してほさでも袖の朽ぬべき哉
                 
 3 小倉山しぐるる頃の朝な朝な昨日はうすき四方の紅葉ば
                 (以上3首 拾遺愚草)
「藤原為家」

 1 小倉山蔭の庵はむすべどもせく谷水のすまれやはする
                    (続後拾遺集)
 2 住み初めし跡なかりせば小ぐら山いづくに老いの身を隠さまし
                     (夫木集)
 3 まだきより秋かとぞおもふ小倉山夕ぐれいそぐ松のした風
                     (為家集)

 定家、為家、さすがに只者ではないことがわかる歌ですね。
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 「小倉プラス鹿の歌」

 1 秋はいぬと小倉の山に鳴く鹿の声のうちにやしぐれそむらん
                     (慈円 拾玉集)

 2 をぐらやま鹿のたちどのみゆるかなみねのもみじやちりまさるらん
                   (藤原高遠 高遠集)

 3 いかばかり秋はかなしき物なれば小倉の山のしかなきぬべし
                   (和泉式部 和泉式部集)

 4 小倉山憂き身に秋は知られつつしかばかりこそ声も惜しまね
               (初音の飾磨の太政大臣女 風葉集)

 (注) 今回で小倉は終わります。小倉にゆかりの定家と為家の歌、および
   小倉と鹿の歌を紹介いたします。小倉山に野生の鹿が多かったことが
   歌からもわかります。

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  《 5・お勧め情報 》

  今回のお勧め情報はありません。
「美空ひばり館」「オルゴール館」なども考えたのですが、
 このマガジンの趣旨にあいません。
 そこで、特にお勧めというのではないのですが、
 京都観光情報のページを貼り付けておきます。

     http://www.kyokanko.or.jp/

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 《 6・エピソード 》

 この小稿を打ちこんでいる7月20日になって、やっと梅雨明け宣言がでました。
 祇園祭のメインイベントの山鉾巡行も終わりましたので、期を同じくして
 梅雨明けになります。調べてみたら、19日から20日ころが近畿の標準の
 梅雨明け日のようです。
 6月11日に入梅しましたが、今月中旬まで降雨量は少ないものでした。
 ところが二つの台風の影響もあって、この10日間ほどでまとまって降りました。
 これで琵琶湖の貯水量も大丈夫でしょう。

 この雨の為に前回のマガジンでお約束した祇園祭の山鉾巡行の様子を撮影
 することができませんでした。傘をさしてまで撮影するのはいかがな
 ものか・・・と思って断念しました。画像を掲載できなかった事、お詫び
 いたします。

 私が時々ひもとく書物のひとつに、平凡社、昭和58年発行、松本章男氏著、
 「京の裏庭」があります。簡単にいうなら京都を紹介した書物には違いない
 のですが・・・。私が言葉で説明するよりも、少し抜粋して記述したほうが、
 この本がどんな性質の書物か良くわかります。

 「常寂光寺からは、小倉池の池畔を通り、野宮から天竜寺への道をとった。
 野宮とは、伊勢神宮の斎宮に立たれる歴代天皇の皇女が潔斎のために住ま
 われた仮の宮の事である。斎宮の伊勢への下向は天武天皇の世にはじまり、
 後醍醐天皇の元弘三年(1333)に廃絶しているが、斎宮には未婚の皇女か、
 皇女がないときは親王家から息女が選ばれたという。皇女はまず皇居内の
 斎宮に入り、八月上旬、川に臨んで祓禊の儀をおこなってから、浄地を卜
 して設けられた野宮に入り、ここで斎宮三年、九月上旬の吉日に伊勢へ
 発つのが習いだった。(中略)   (注 卜 は「ぼく」と読みます)
 竹林をくぐり、また竹薮に沿っていく道は幽寂でいい。湿地だからか竹は
 なよやかに丈高く、藪の奥深い暗みの彼方から篠笛の音でも聞こえてきそう
 な気配である」  

 嵯峨野・野宮についての記述です。
 古い典籍に詳しい事がよくわかりますし、それに詩的な言葉をふんだんに
 用いての記述に、引きこまれてしまいます。
 私も勉強して、このような文章を書くことができるといいのですが、
 53歳というこの年齢ではもう無理でしょう。勉強しないままに、あるいは
 実らないままに長い歳月を閲してきましたが、それもまあ、仕方ないでしょう。
 恥じるべきは己自身に対してであって、それで充分と思います。

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