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    ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.10(隔週発行)
                      2002年8月19日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  先号で話題にしました五山の送り火も終わりました。これからしばらくは
  残暑の厳しい日々が続きます。とはいえ、吹き過ぎて行く風の中にも、
  はっきりと秋の気配が漂っています。ひところより暑さも和らぎました。
  日本は四季がはっきりとしていて、乾季と雨季しかない国などと比較すると、
  季節ごとの情趣を味わう事ができるのは嬉しいことですね。もう少しの残り
  少ないこの季節を、できるだけ楽しみたいものです。
    
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     ■ 西行の京師  第10回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項
        2 所在地情報
        3 関連歌のご紹介
        4 お勧め情報
        5 エピソード

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 《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

1 君すまぬ御うちは荒れてありす川いむ姿をもうつしつるかな
            (223P 神祗歌)

2 此里やさがのみかりの跡ならむ野山もはてはあせかはりけり
                    (195P 雑歌)

 《 詞書 》

 ◎ 「嵯峨野の、みし世にもかはりてあらぬやうになりて、人いなんと
    したりけるを見て」       (195P 雑歌)  

   この詞書の次に(2)の歌があります。

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「(1)の歌の解釈」

   この歌には次の詞書がついています。

  「斎院おりさせ給ひて本院の前を過ぎけるに、人の内へ入りければ、ゆかしく
  おぼえて、具して見侍りけるに、かうやはありけんとあはれにおぼえて、おりて 
  おはしましけるところへ、宣旨の局の許へ申し遣はしける」
          (便宜的に「新潮日本古典集成」の詞書を引用します。349P)

    斎院以下に注番号(13)が付いています。
    本院以下に(14)、人の以下に(15)、具して以下に(16)、かうや
    以下に(17)、おりて以下に(18)、宣旨以下に(19)です。
    宣旨には(せんじ)のルビもついています。

    
    歌の解釈も「新潮日本古典集成」より引用いたします。

   「斎院が今はお住みになっていない本院の内はすっかり荒れており、
   かつて斎院が潔斎せられたお姿をうつした有栖川に、忌まれる
   僧形のわが姿をうつしたことでありました。」
                 (「新潮日本古典集成」より引用)

    詞書の解説も「新潮日本古典集成」より書き写します。

   (13)斎院を退下されて。斎院は鳥羽天皇皇女頌子内親王。御母左大臣
      徳大寺実能の女。承安元年(1171)六月二十八日卜定、同年八月十四日
      病により退下。(西行54歳)
   (14)紫野にある斎院の館。
   (15)人が本院の内に入ったので自分も内部の様子が知りたくて。
   (16)内へ入って行った人について。
   (17)斎院がおいでの頃はこのように荒れ果てていたであろうかと。
   (18)斎院退下後、現在住んでおいでの所へ。
   (19)前斎院に仕える女房。上西門院に仕え、後、建春門院に仕えた
      参議藤原公隆女かとの説がある。

   「(2)の歌の解釈」及び詞書について

   「嵯峨野の、みし世にもかはりてあらぬやうになりて、人いなんと
    したりけるを見て」    (195P 雑歌)     

   重複しますが詞書を解釈するために、あえて写しました。

   ○ みし世
 今より前の時代。
   ○ かはりてあらぬように
 時代を隔てて、様子が変わってきた。
   ○ 人いなんと
 人が嵯峨野を去ることをいいます。西行の知人かもしれません。
      「人」は嵯峨野に住んでいたというふうに解釈するほうが自然ですね。

   「西行の京師」第6号の補筆事項(1)で記述しましたように、嵯峨野は
   禁野として、皇室や貴族がここで狩りをしたり、春には若菜を摘んだりと、
   遊興の場としてありました。
   そういう時代背景を前提として(2)の歌を読むと、よく理解できて
   くるでしょう。

   「この嵯峨野の里は昔は貴人達が、なかよく狩り(紅葉や桜も含むはずです)
   をして楽しんでいた所ですのに、時代を経て、なんと変わったこと
   でしょう。」

   ということが(2)の歌の意味だと思います。もちろんそこには(1)の歌と
   同様に、西行独自の愛惜の念がこめられている事は言うまでもありません。     

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  《 2・補筆事項 》

  1 君
    鳥羽天皇皇女頌子内親王のことです。五辻の斎院と言われました。
    第33代斎院です。約1ヶ月半の短い斎院でした。病により退下。
    当時27歳でした。
    父の鳥羽天皇の菩提を弔うために、頌子内親王は高野山に蓮華乗院を建立
    したのですが、それに西行が協力しています。その時の書状が今に残って
    います。「円位書状」と呼ばれています。
    母は春日局といい、徳大寺実能の養女です。美福門院に仕えていた女房
    ですが、鳥羽天皇の寵愛を得て、頌子内親王を産みました。  
    

 2 御うち(みうち)
    紫野にあった斎院御所のことです。紫野とは北大路通り沿いの大徳寺
    あたりを指しますが、斎院の場所は不明のままです。諸説があるようです。
    「御うちは荒れて」とは、斎院の本院に皇女の斎院が住まなくなって、
    手入れをしないから荒れ果てているということです。
  
 (注)斎院御所に住む皇女のことは「斎王」とも「斎院」ともいいますが、
    斎王の住む建物自体も「斎院」といいます。
    これとは別に、伊勢神宮に仕える皇女は「斎宮」といいます。
    また、藤原氏は斎宮制度を真似て私的に西京区大原野にある大原野神社
    に藤原氏の息女を入れていましたが、こちらは「斎女」と言っていました。
                 「(京都市の地名)を参考にしました」

 3 ありす川
    紫野の斎院御所の中、もしくはその側を流れていた川のことです。 
 
  4 いむ姿
    僧体を指します。自発的な出家であり、西行自身ではむしろ薄墨の衣の
    姿は誇りだったでしょう。決して忌む立場、忌む姿ではないはずですが、
    ここでは内親王に対して謙譲的に、自身を一段低いものとして表現して
    いるのでしょう。
  
 5  宣旨「せんじ)の局
    斎院に仕えた女官の官職のひとつです。現在風言葉でいうなら、斎院の
    広報官とも言えます。
    参考までに斎院の官職名を記します。
 
   (以下「京都市の地名」より引用) 

   (男性)
    別当・長官・次官・判官・主典・宮主・史生・使部・雑使・舎人
   (女性)
    女別当・内侍・宣旨・命婦・乳母・女蔵人・采女・女嬬
  

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  《 3・所在地情報 》

  ◎ 有栖川(ありすがわ)

 斎川(いつきかわ)とも称される。大覚寺の北、観空寺谷奥からの渓流と、
 広沢池から流れ出る水源が合流、嵯峨野を南流して桂川に注ぐ。
                   「(京都市の地名)より引用」

 有栖川の画像は下に一枚のみあります。

 http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/ara09.html

 画像は広沢池から大覚寺寄りに1.5Kほどの地点で撮影しました。
 幅5メートルにも満たない川です。下流は住宅街の中を貫流していて、川水は
 生活排水が混入しているために水質がよくありません。撮影はこの場所のみに
 しました。
 
 この有栖川は(1)の歌にある有栖川ではありません。
 歌の有栖川は紫野ですが、現在は紫野に有栖川はありません。他に賀茂にも
 有栖川があって、合計3箇所に有栖川があったようです。
 有栖川はすべて斎院に関係しています。画像の有栖川は野宮に近いので、
 野宮に入った斎院はこの有栖川で潔斎していたものと思います。

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  《 4・関連歌のご紹介 》

 1 ちはやぶるいつきの宮の有栖川松とともにぞかげはすむべき
               (京極前太政大臣 藤原師実 千載集)

 2 有栖川おなじながれはかはらねど見しや昔のかげぞ忘れぬ
                 (中院右大臣 源雅定 新古今集)

 3 悲しさは秋のさが野のきりぎりすなほ古里に音をや鳴くらむ
                 (後徳大寺左大臣 実定 新古今集)

 4 さらでだに露けき嵯峨の野邊に来て昔の跡にしをれぬるかな
                  (藤原俊忠 新古今集)

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  《 5・お勧め情報 》

 今号はお勧め情報はありません。何とかお勧めしたいのですが、
 すべての読者の方々を対象としたお勧めというのは、なかなか難しい
 ものがあります。
 強いていうなら、下のページをご覧になってください。
 新しい画像を追加しました。

  http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/ara13.html

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  《 6・エピソード 》 

 この稿を打ちこんでいる本日は17日(土)です。いつもは金曜日には
 完成させているのですが、昨日の大文字の送り火、そして渡月橋下流での
 灯篭流しの様子を見てから、その感想をここで書きたかったので、少し
 脱稿が遅れました。

 16日、少し仕事をしてから3時前に自宅を自転車で出発いたしました。
 初めの目的地は西大路八条にある平忠盛邸跡の撮影です。以前に撮影して
 はいたのですがPCを初期化した時にうっかり消してしまいました。
 デジカメで何枚も撮影しました。次に、この老体で、しかも暑さ厳しい中、
 西大路通りを真直ぐに北上して、金閣寺近くにある二条天皇御陵に行きました。

 そこで初めて気がついたのですが、カメラのスマートメディアがカウント
 していないのです。ありゃりゃ・・・と思って再生してみるとなーんも映って
 いません。エラー表示も出なかったのに、? ?です。おそらくはスマート
 メディアの寿命なのでしょう。
 また、撮影のやりなおしをしないといけません。

 二条天皇についてはいずれ触れます。撮影画像は近いうちにアップします。
 二条天皇さん、贅沢・・・。というほどに住宅街での広い御陵を一人占め
 しています。下は人物のページです。

  http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/mei2.html

 ついで、竜安寺に行きました。細川勝元が徳大寺家から譲り受けた地です。
 いわゆる「徳大寺の左大臣」の山荘跡です。ここの鏡容池は現在もかの
 時代と変わっていないとのことです。とするなら、西行もこの池を見て
 いるということなのでしょうね。広い境内に楓の木がとても多くて、
 紅葉の頃は圧巻だろうと思いました。

 桂川右岸、渡月橋下流で、7時から灯篭流しが始まりました。
 嵯峨仏徒連盟の方々が1948年からやっているイベントです。
 たくさんの人出でした。本日の新聞で2万5千人と発表されていました。 
 
 8時過ぎからは久しぶりに送り火を見ました。左大文字と鳥居形です。
 遠くからとはいえ、赤く燃え続ける「大」の字と鳥居の形を10分以上も
 見つづけていると、やはり、なにくれとなく思いがふくれあがるものです。
 人間が生命持つ存在であるのは、あるいは悲しいことかもしれません。
 死があり、別れがあるということ・・・。我が係累のこと、老い先短い
 老父母のこと、そして53歳でありながら、ついに家庭を築くこともせず、
 老境に入った私自身のこと・・・。
 精霊の送り火は涙を誘います。

 前号で校正ミスがありました。
 エピソードの最後のほうの「精霊流し」。これはよくない気がします。
 「精霊の船を流す」などともいいますが、ここでは「灯篭流し」が正解
 です。お詫びして訂正します。

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