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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.12(隔週発行)
                       2002年9月16日号
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    メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
    九月も半分を過ぎると、さすがに秋らしくなってきました。
    過ごしやすい、良い季節の到来です。

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     ■ 西行の京師  第12回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード 

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  《 1・今号の歌と詞書 》

 《 歌 》

  1 ときは山しひの下柴かり捨てむかくれて思ふかひのなきかと
                      (151P 恋歌)

  2 年ふれど朽ちぬときはの言の葉をさぞ忍ぶらむ大原の里
                      (179P 雑歌)

 《 詞書 》

  1 ときはの里にて初秋月といふことを人々よみけるに
                      (56P 秋歌)
    この詞書の次に下の歌があります。
   「秋立つと思ふに空もただならでわれて光を分けむ三日月」 

  2 新院、歌あつめさせおはしますと聞きて、ときはに、た
    めただが歌の侍りけるをかきあつめて參らせける、大原
    よりみせにつかはすとて       (178P 雑歌)

    この詞書の次に下の寂超の歌があります。
                   寂超長門入道
   「木のもとに散る言の葉をかく程にやがても袖のそぼちぬるかな」

  3 故郷述懐といふことを、常磐の家にてためなりよみける
    にまかりあひて           (190P 雑歌)

    この詞書の次に下の歌があります。
   「しげき野をいく一むらに分けなして更にむかしをしのびかへさむ」

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   (1)の歌の解釈

    恋歌であるということを念頭において解釈してみます。「ときは山」
   は常盤山のことで、京都市右京区の歌枕です、常磐、常盤の文字は
   どちらも良いのですが現在では常盤の文字を一般的に使用している
   ようです。
   「ときは山」は単純に名称として出しているだけで、重要な意味は
   ないのでしょう。「しひの下柴」は、椎の木の下に繁っている草木、
   柴草をさし、「刈り捨てむ」で刈りとってしまおう。「かくれて思ふ」
   が重要なポイントです。次に「かひのなきかと」と続きますので、
   青春の時代の、人を恋する瑞々しい感情がよく出ていると思います。
   整理します。
   ときは山の椎の木の下に生えている草木を刈り取ってしまったら、
   ずっと明るくなって、周りがよく見えるように、私もさまざまな雑念を
   取り払ってしまおう。そして真直ぐに想っている人と向かい合おう。
   そうでないと、人を想う事の甲斐はないかと・・・そういうことだろう
   と思います。

   (2)の歌の解釈
 
   この歌は詞書 2 の寂超長門入道の歌を受けて返歌として
   詠まれたものです。

   「年を経ても常盤の里の常盤木のように、朽ちることのない和歌を集め
   られ、大原の里であなたはさぞ亡き父君のことを偲んでおいででしょう。」
                     (新潮日本古典集成より抜粋)

   (1)の詞書について
     
   藤原爲忠の邸があり、1136年に爲忠が没してから爲業(後の寂念)
   が住んでいました。爲忠が没した1136年は西行19歳の年です。
   この歌会は何年に開催されたのわかりません。
    
   (2)の詞書について

   新院とは崇徳院のことです。「歌を集める・・・」とは詞花集のこととも
   言われますが断定はできないようです。その時、寂超が父の藤原爲忠の歌を
   清書して、まず、西行に見てもらったということです。西行と常盤三寂
   (大原三寂ともいう)との親しい交流がわかります。
   寂超の歌の意味は、「爲忠という一本の木の下に散り敷いている歌の言葉の
   数々をかき集めて書いて(清書して)いると、父のことがいろいろ思い
   出され、涙で袖も濡れてきますよ・・・」というほどの意味です。
  
   (3)の詞書について

   常盤の家の歌会のことです。爲忠没後、ためなり(爲業、のちに出家して
   寂念と名乗る)が常盤の家を相続していました。1166年頃、西行49歳の
   頃に爲業は出家しています。爲業は当時50歳代半ばといわれています。
   この、寂念出家前頃に常盤の家でたびたび歌会をやっていて、西行も何度も
   出ています。「しげき野・・・」の歌は御裳濯河歌合にも出されています。

   「これまでの来し方を振り返ってみると、しげき野というほどにいろいろな
   できごとが重なった人生であった。そういう自分の過去を、ひとつひとつの
   思い出ごとに区切って振り返ってみよう。さらにまた、自分の出家前の
   常盤の家との関わりを改めて偲んでみよう・・・」という事なのでしょう。

   以下は新潮日本古典集成からの抜粋です。

   「草が深く生い繁っていずれの跡とも見分け難い古里の野を、
   幾つかの群れに区切って、あそこは何の跡、ここは何の跡と、
   改めて昔を思いかえそう。」    
  
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  《 2・補筆事項 》

 1 ときは・常盤の里
   京都市右京区常盤のこと。嵯峨天皇皇子、源常(みなもとのときは)の
   山荘があったことにより、常盤の地名ができたそうです。
   
 2 常盤木
   常に繁っている木をさして、常緑樹の松の事です。長く栄えると言う事で
   象徴的に寿ぎの歌、祝い歌(賀歌)によく用いられます。

 3 ときは山
   山という形状のものは現在はありません。資料を見ると過去にもなかった
   ようです。山はないけど、抽象的な意味合いで「常盤山」の歌枕ができた
   のでしよう。山は常盤木が長く栄えることを意味しているのでしよう。

 4 爲なり 
   爲忠の子で爲業(法名、寂念)のことです。兄弟で一番最後に出家しました。
 
 5 新院
   崇徳上皇のこと。鳥羽天皇と待賢門院璋子の子。第75代天皇。在位1123年
   から1141年。1144年に崇徳院は詞花集の撰進を藤原顕輔に命じていますので、
   この時のものでしようか・・・。1144年は西行27歳ですので、若年すぎる
   気がします。西行30歳代半ばの詞花集改撰時とする説もあります。

 6 寂超
   爲忠の子で爲隆とも爲経ともいいます。爲業の弟です。生まれた
   ばかりの子(藤原隆信)を置いて出家しています。妻の加賀はのちに
   藤原俊成の妻となって藤原定家を産みました。つまり定家と隆信は
   異父兄弟ということになります。

 7 爲忠
   常盤に住みました。各地の受領を歴任していて、資産を増やしたという
   ことです。常盤三寂(大原三寂ともいう)の父で爲忠朝臣集があります。

 8 源光寺
   常盤にある尼寺。源光庵ともいいます。
   境内の六角堂で地蔵尊を祀っていて「常盤地蔵」ともいいます。
   「常盤地蔵」とは「乙子地蔵(おとこのじぞう)」と称していて、
   京都の六地蔵の一つです。
   毎年八月の下旬頃に六地蔵巡りの習俗がありますが、1180年頃に始まった
   そうです。地蔵会です。小野篁の冥土往来伝説にちなむものだそうです。
   このあたりは、いかにも常盤谷という感じで、京福電鉄常盤駅からみると
   低地にあります。藤原爲忠の邸のあったという場所も、常盤谷ということ
   ですから、このあたりにあった事は間違いないでしょう。
   常盤は源義経の生母の常盤御前の生地とのことです。源光寺内に墓が
   あります。
   また、お寺の由来を記した立て札には鳥羽天皇皇女(日へんに章)子
   内親王が隠棲していて、藤原定家がたびたび尋ねてきたとありますが、
   いささか疑問です。八條女院(日へんに章)子内親王の常盤御所と源光寺が
   同一場所にあったとは解釈に無理があると思います。
   下は源光寺の画像です。

   http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/saigyo2/koryu2.html

 「お知らせ」
    八條女院の名前については、漢字はあるのですが、機種依存文字
    として受けつけてもらえません。ご了解願います。

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  《 3・所在地情報 》

  ◎ 源光寺(げんこうじ)

 所在地  右京区常盤馬塚町
 電話   075-872-8157
 交通   京福電鉄北野線「常盤駅」下車 南方向 徒歩5分程度
 拝観料  無料
拝観時間  不明
 注意   気を付けて探さないと見つかりにくい小さなお寺です。

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  《 4・関連歌のご紹介 》

 1 春秋も知らぬときはの山里は住む人さへやおもがはりせぬ
                  (在原元方 新古今集)
 
 2 紅葉せぬ常盤の山に立つ鹿はおのれ鳴きてや秋を知るらむ
                  (大中臣能宣 王朝秀歌選)

 3 秋吹けば常盤の山の松風も色付くばかり身にぞしみける
                  (和泉式部 和泉式部集)
 
 4 思出づる常盤の山の岩つつじいはねばこそあれ恋しきものを
                 (よみ人しらず 古今集)

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《 5・お勧め情報 》

 京都の六地蔵について興味のある方は下のサイトをごらんください。

   http://kyoto.cool.ne.jp/kyoto201aa/niwa2/6jizo.htm

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 《 6・エピソード 》

 どういうわけか失語症とも言うべき状態が続いています。このエピソードを
 打ちこむのはいつもそれなりに苦労しているのですが、先回あたりからことに、
 言葉が立ち上がってきません。なぜなのだろう・・・と考えても、もちろん、
 理由らしきものはわかるはずもありません。
 強引に理由付けしてみるなら、このエピソードなるものについて、私の中で
 明確に位置付けしていないからでしょう。
 なんの制約も受けず、自由に文章をつづることを目的として設けた欄で
 ありながら、そのこと自体が少しく難しいものだと感じています。

 私は若い頃から詩らしきもの、詩もどきのものを書いてきました。
 現在も、ある小さな詩団に属しているのですが、詩稿も散文稿も若い頃と
 比較すると書けなくなっていることは事実です。これは、どういうことを
 意味するのでしょうか。老眼の進みとともに集中力が減退していることは
 実感します。けれども集中力の減退がそのまま肉体の老化を意味するわけ
 ではないし、ましてや、思考力そのものの減退を意味するわけではないはず
 です。

 マガジン発刊当初から私が試行錯誤しているのは、実はこの欄の事が
 一番です。これまでのような形でこのまま続けて行っていいものなのか
 どうか・・・
 マガジンでご紹介する寺社の情報をもっともっと克明にしたためて、
 この欄は終わってもいいのかもしれません。でも、もったいないという
 思いもあります。
 
 京都はこれから秋の観光シーズンに突入します。
 私がはじめて京都に来たのは、昭和38年の事でした。愛媛県の僻村の
 中学から修学旅行で来ました。まさか、中学を出てからの就職先が京都に
 なるなどとは、つゆ思わぬことです。
 当時の修学旅行は団体行動で、有名社寺の拝観だけだったと思います。
 清水寺や金閣寺には行きましたが、もうすでに記憶は曖昧です。
 最近の修学旅行は数人のグループに分かれて、市バスに乗ったりタクシーを
 利用したりと、私の時代とはすっかり様変わりしているようです。
 そういう観光の仕方も良いものだろうと思います。

 先号で校正ミスがありました。

  2  廣澤のみぎはにさけるかきつばたいく昔をもへだて來つらむ

 「いく昔をも」→「いく昔をか」。「も」は「か」です。
 お詫びして訂正します。ほかにもあるかもしれません。お気づきの方は
 ご遠慮なくお知らせいただけると、うれしく思います。

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