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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                           vol.14(隔週発行)
                           2002年10月14日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  盛りの秋です。高く蒼い空が広がっています。秋らしい空です。
  運動、観光、読書、芸術鑑賞、何をするにも絶好の季節です。
  また、この季節の食材が食欲をそそります。

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     ■ 西行の京師  第14回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》


 (1) なにとなくものがなしくぞ見え渡る鳥羽田の面の秋の夕暮
                      (62P 秋歌)
  
 (イ) さ夜ふけて月にかはづの聲きけばみぎはもすずし池のうきくさ
                      (270P 残集)

 (ロ) 君が住むやどのつぼには菊ぞかざる仙の宮といふべかるらむ
                      (87P 秋歌)

  《 詞書 》

  
 (イ)  忠盛の八條の泉にて、高野の人々佛かきたてまつることの侍り
      けるにまかりて、月あかかりけるに池に蛙の鳴きけるをききて
                      (270P 残集)

 (ロ)  京極太政大臣、中納言と申しける折、菊をおびただしきほどに
      したてて、鳥羽院にまゐらせ給ひたりける、鳥羽の南殿の
      東おもてのつぼに、所なきほどに植ゑさせ給ひけり。公重少将、
      人々すすめて菊もてなさせけるに、くははるべきよしあれば
                      (86P 秋歌)

  〔お知らせ〕
    編集の都合により、今号は地名入り歌は一首のみとします。

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   (1)の歌の解釈

  岩波山家集には西行作の「・・・秋の夕暮れ」の歌が11首ありますが、
  どの歌も良いと私は思います。
  (1)の歌は言葉通りに解釈するしかない叙景歌ですが、広い野面の、
  夕刻の牧歌的な情景が浮かびあがってきます。「ものがなしい」という
  表現は鳥羽田の面(おも)にかかりますが、ずっと見渡せるほどに広く、
  独特の雰囲気をかもし出している夕景だからこそ「ものがなしい」という
  感覚表現が生きているのでしょう。
  尚、新潮版山家集の注解によると、鳥羽田は左京区の歌枕とありますが、
  西行の時代は山城国紀伊郡鳥羽の歌枕だったと思います。
  現在の左京区も当時は紀伊郡でした。
  疑問として、鳥羽田の面が見え渡るというほどに広い面積は無かった
  だろうと思います。離宮そのものは1キロ四方、離宮に南面して600×800
  メーターの池もありましたし、邸宅もたくさんありましたので、見渡す
  ほどの広い野はなかったものと思えます。でも川の流路も変わっていま
  すし、名神高速道路の建設であたりの景観は一変しているでしょうから、
  現在の感覚で推し量るのは無理があるかもしれません。
   
 (イ)の歌と詞書の解釈

  西行の時代に平忠盛の屋敷が現在の西大路八条にありました。忠盛は
  1153年に没していますから、その年までの歌でしょう。西行は1149年頃、
  高野山に移っていますが、詞書の文言では「高野の人々」の中に西行
  自身がいたのではなく、たまたま行き合わせたと解釈するほうが自然の
  ように思えます。下は(イ)の歌の意味です。

  「さ夜」の(さ)は「さお鹿」の場合と同様に接頭語。
  「かはづ」は蛙。「みぎは」は汀、水際のこと。

  「夜も更けて、月の煌煌としたひとときに池で合唱している蛙の鳴き声を
   聞いている・・・。浮草も月の光を浴びて輝いていて、昼間の暑さを
   逃れて涼しげに見えることだよ」ということなのでしょう。

 (ロ)の歌と詞書の解釈
 
  この詞書は西行出家前の事をあらわしています。また、歌もきわめて初期の
  ものです。西行19歳から22歳頃に詠まれた歌のようです。山家集中、もっとも
  早く作られた歌という説もあります。尚、公重は西行40歳頃に少将になって
  いますので時代が合いませんが、これは慈鎮の場合と同様に、山家集を書き
  写した人が、書写当時において顕著な呼び方で記述したものと思えます。
  したがって西行自筆の山家集には少将の表記はなかったと思えます。慈鎮の
  場合は西行没後47年たってからの名前です。慈鎮表記は確実にありえません。
  
  「京極太政大臣、中御門宗輔が中納言であった頃に(1130〜1140)多くの菊を
  鳥羽に持ってきました。それを南殿の東の中庭いっぱいに植えたのでした。
  藤原公重少将が菊の歌を詠むようにと人々に勧めましたが、西行にも加わる
  ように言ったので・・・」以上が詞書の意味です。

  「君」は、鳥羽上皇のこと。第74代天皇。1103年生〜1156年没。
  「つぼ」は、坪。中庭のこと。
  「仙の宮」は、読みは(ひじりのみや)。退位した天皇が住むところを
        仙洞御所といい、菊の花の神仙の伝説とをかけている。

  「わが君(鳥羽院)がお住みになる宿の中庭を菊がいっぱいかざっている
  ことである。これこそまことに仙の宮、仙洞御所というべきであろう。」
                 「新潮日本古典集成山家集から抜粋」

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《 2・補筆事項 》

 1 三夕歌
   新古今集の中の下の歌をいいます。

   西行   「心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ澤の秋の夕ぐれ」

   藤原定家 「みわたせば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」

   寂蓮   「さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕暮れ」 

 2 忠盛の八條邸
   平忠盛は八条に邸宅を構えていました。現在の梅小路貨物駅あたりも
   含んでいたそうですから広大な敷地です。現在は西大路八条東北角に
   「若一神社」があり、そこに清盛の石像があります。
   忠盛はその父の正盛と共に平氏隆盛の基礎を作りました。1153年忠盛没後、
   八条の邸宅は清盛が伝領しました。当時の歴史の中枢に深く関わった邸宅
   です。西行が高野山に移ったとみられる1149年に高野山の堂塔は落雷で
   被災しました。その復興の役を忠盛が命じられていましたので、その関係で
   「高野の人々」が忠盛邸に出入りしていたようです。
   この屋敷は平家の都落ちのときに、平氏自らの手で焼かれました。
   
   下は若一神社の画像です。

   http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/saigyo2/wakaiti.html

 3 京極太政大臣及び公重少将については下をご覧下さい。
 
    http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/mei2.html

 4 鳥羽の南殿
   白河天皇が造営した鳥羽離宮の南殿御所のことです。1087年に初めて
   南殿御所に遷幸がありました。離宮の中でも最初に築造されました。
   離宮には南殿のほかに泉殿、北殿、馬場殿、東殿が作られています。
   鳥羽天皇は田中殿を作りました。院政を行った離宮です。
   ちなみに、それぞれに配された侍の人数は北殿75人、南殿17人、泉殿
   8人の合計100名です。1090年の記録ですから当然に佐藤義清は入って
   いません。余談ですが平清盛が後白河天皇を幽閉したのもここでした。 
   下は南殿跡などの画像です。

  http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/saigyo2/toba01.html
 
 5 城南宮
   史誌上の初見は925年ですが、それより早くに建立されていたことは
   確実のようです。794年の平安京遷都にあたり、南方で平安京を鎮護
   する城南明神として、崇敬を集めたようです。
   平安末期、白河天皇・鳥羽天皇の鳥羽離宮(城南離宮)に組み込まれて、
   「都移り」とも言われたように殷賑をきわめました。多くの貴族の別邸も
   付近に建てられたようです。西行も敷地を与えられて別邸を構えていた
   ということが伝えられています。(後の西行寺のこと)
   定家卿の「明月記」では城南寺と記述されています。
   当時、競馬(くらべうま)流鏑馬(やぶさめ)がここで盛んで、後鳥羽
   天皇はこの行事にことよせて、承久の変の際の兵を集めたようです。
   城南宮は応仁の乱で衰退します。時代が下がって、江戸時代末期の
   「鳥羽・伏見の戦い」は、このあたりが中心地になりました。

   庭園は楽水宛と呼ばれます。別名、神宛です。この庭園で4月29日と
   11月3日に午後2時から「曲水の宴」がとり行われ、その模様はテレビ
   放映されます。この庭は源氏物語に出てくる花が植栽されています。
   美しい庭です。鳥居前の「菊水若水」はお勧めでしょうか。一味違います。
   下は城南宮の画像です。

   http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/saigyo2/toba02.html 
 
 6 西行寺
   白河天皇陵の北にある西行寺跡は、西行が鳥羽殿の北面の武士であった
   頃の宅地跡と伝える。現在「西行寺址」と記した石柱があり、付近に地蔵堂
   がある。江戸時代には庵室があり、境内には月見池、剃髪塔があった。明治
   11年、観音寺に合併。同寺に西行法師像といわれる坐像が安置される。
                 (京都市の地名より抜粋)
   「都名所図会」及び「雍州府志」では西行出家の寺として寺伝が伝えると
   明記されています。

 7 鳥羽僧正
   平安時代後期の画僧です。1053年から1140年まで存命。鳥羽南殿御所内に
   あった証金剛院の別当職についていましたが、その後に天台座主となって
   いますので、西行との年齢差を考えると、二人に面識は無かったものと思い
   ます。尚「鳥獣戯画」の作者は鳥羽僧正と言われますが、確証はありません。
        「補筆事項は全体に(京都市の地名)を参考にしています。」

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《 3・所在地情報 》
 
   ◎ 城南宮(じょうなんぐう)

  所在地  伏見区鳥羽離宮町7
  電話   075−623−0846
  FAX  075−611−0785
  交通   市バス19号(京都駅発)城南宮下車すぐ
       近鉄竹田駅から市バス南1.2系統 城南宮東口下車 徒歩5分程度
  拝観料  拝観自由。ただし楽水宛(神宛)は400円。
 拝観時間  9:00〜16:00

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  《 4・関連歌のご紹介 》

 1 此のほどは昔の君の跡ぞかしとば田の里の秋の夕暮
                  (慈円 拾玉集)

 2 雲居とぶ雁のつばさに月さえて鳥羽田の里に衣うつなり
              (後鳥羽院 後鳥羽院集)
 
 3 山城の鳥羽田の早苗取りも敢ず未こす風に秋ぞ仄めく
              (藤原良経 秋篠月清集)
 
 4 山城の鳥羽田の面を見渡せばほのかにけさぞ秋風は吹く
                (曾禰好忠 詞華集)

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  「特別参考」

 木下長嘯子と鳥羽田歌について

 1 はるばると鳥羽田の末をながむれば穂なみにうかぶ淀の川舟
                 (挙白集)

 2 見わたせば鳥羽田の面の霧の海に沖の小島は秋の山かな
                (東山山家記)
  
 ◎ 木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)1569〜1649

  豊臣、徳川時代の武将・歌人。俗名は木下勝俊。秀吉の正室、北政所(ねね)
  の兄の木下家定の子。秀吉の家臣として、播磨の国竜野城主となる。関が原
  の役では東軍に与して伏見城を守るも、戦闘中に逃亡したため、所領を
  没収される。
  その後、歌人として高台寺の東に住む。高台寺には北政所が住んでいた
  ので、その縁故である。歌は細川幽斎に学び、長嘯子と号する。
  家集に「挙白集」がある。
  都名所図会第4巻によると、「歌仙堂、松洞堂、鳥羽観、挙白堂」
  などを建てていたということです。

  「東山に鳥羽観と名づける庵にて」という詞書の次に 2 の歌があります。

  したがって、長嘯子の鳥羽田歌は伏見区の鳥羽を指すものではなくて、
  東山の自身の庵の周りを指すものであるということは確実と思います。
  尚「2」歌の(秋の山)は鳥羽離宮跡に史跡として現存しています。
  東山の長嘯子の庵からこの(秋の山)が見えたものでしょう。

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  《 5・お勧め情報 》

 京都三大祭りの一つである「時代祭り」が10月22日にあります。このお祭りは
 1895年にはじめられました。平安神宮創建を記念してできたものです。

 下は「■YSC■ 京の玉手箱」のサイトの時代祭りのページです。

  http://www.kyt-ysc.co.jp/kyo/matsuri/jidai/index.htm

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 《 6・エピソード 》

 いい訳めいた言い方をするなら、私は旅をする機会に恵まれません。納期の
 決まっている下請け仕事をしていますし、それに私の身体的条件が、気軽に
 旅に出ようとするには大きな制約となっています。知人達が屋久島に行ったり、
 近畿、四国、中国、九州と、それなりの休みを取って周遊したりするという
 ニュースを、ある羨望を感じながら受けとめています。

 私にも会社員時代があって、一年に一度の慰安旅行は楽しみでした。若い頃は
 プライベートでも、ふらーっと思い立って、何度か一人旅を試みたものでした。
 でも近年は一年に二度、生地の愛媛県と京都を往復するだけで、旅らしい旅は
 やっていません。

 旅は異質の空間を提供してくれます。一時的にではあれ、日常の生活から非日常
 の空間と時間に移行します。そこで見聞すること、遭遇する事はむしろたいした
 ことではなくして、日常性と非日常性との往還ということ自体に意味があるの
 ではなかろうかとさえ思います。

 西行は二度の陸奥行脚をしています。旅行というよりは旅という言葉が正確な
 行為でした。初度の陸奥旅行は「修行」という性質の強い旅でしたが、二度目の
 高齢になってからの旅は「吾妻鏡」によると、奥州、藤原氏に東大寺大仏再建の
 ための砂金を勧進するためだったという事です。1180年、平氏によって焼かれた
 東大寺再建を後白河帝はすぐに着手し、その責任者を法然に命じました。法然は
 固辞して、重源におはちが回りました。重源は、藤原氏が砂金を提供してくれる
 ように・・・と、その説得役を西行に依頼したものでした。
 それが1185年のことです。もともとは源頼朝は東大寺再建に熱心でした。同年、
 8月頃に頼朝と西行は鎌倉で会談しています。関東の武家の領袖と一介の歌僧の
 会談です。ともあれ、次の年の5月に藤原氏は砂金と馬を頼朝経由で朝廷に送って
 います。西行の二度目の陸奥行脚もそれなりの成果があったというべきでしよう。
 
 西行が二度も足を運んだ平泉に、一度は行ってみたいものと思います。

 今月22日に時代祭りがあります。お勧め情報は鳥羽とは関係ありませんが、時代祭
 にしました。「京の玉手箱」のサイトにリンクを貼らせていただきました。
 お礼申し上げます。

 「西行の京師」は長いマガジンです。分割して、さらっと読み流せるようにした
 ほうが良いという声もあります。迷うところです。皆さんのご意見、ご助言を
 いただけることができましたら、うれしく思います。

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