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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                          vol.15(隔週発行)
                         2002年10月28日号
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  メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
  朝晩は肌寒くなりました。季節の移ろいを皮膚で感じます。
  二十四節季でいうなら寒露を過ぎて、霜降(そうこう)の日々です。
  来月に入れば立冬です。
  
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     ■ 西行の京師  第15回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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  《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

   1 鶉なく折にしなれば霧こめてあはれさびしき深草の里
                        (69P 秋歌)

   2 なにとなく 暮るるしづりの 音までも 雪あはれなる 深草の里
                     (新潮山家集 538番)

   3 何となくくるる雫の音までも山邊は雪ぞあはれなりける
                        (99P 冬歌)

  (イ)みがかれし玉の栖を露ふかき野邊にうつして見るぞ悲しき 
                       (202P 哀傷歌)

  (ロ)今宵こそ思ひしらるれ浅からぬ君に契りのある身なりけり
                       (202P 哀傷歌)

  《詞書》

  (イ)
     「近衛院の御墓に、人に具して参りたりけるに、露のふかかりければ」

  (ロ)
     「一院かくれさせおはしまして、やがて御所へ渡しまゐらせける夜、
      高野より出であひて参りたりける、いと悲しかりけり。此後おはし
      ますべき所御覧じはじめけるそのかみの御ともに、右大臣さねよし、
      大納言と申しけるさぶらはれける、しのばせおはしますことにて、
      又人さぶらはざりけり。其をりの御ともにさぶらひけることの思ひ
      出でられて、折しもこよひに参りあひたる、昔今のこと思ひつづけ
      られてよみける」
 
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 (1)の歌の解釈

    往時、深草の野には鶉がたくさんいたものと思います。伊勢物語第123段に
    深草の鶉の歌がありますが、この時より、深草は鶉の名所として歌に詠われる
    ことになったようです。以下は歌の意味です。
 
   「深草の里に鶉の鳴く頃になった。あたり一面に霧がたちこめていて、
   いかにも寂しく、わびしい感じをさせることだ」
   (おりにしなれば)=折りになった・頃になった。の意味。

   この歌は秋歌です。なぜ秋歌になったのか不思議でした。鶉が春に鳴いても
   おかしくはありません。謎でした。そこで辞書をひもといてみました。
   「鶉=本州北部以北で繁殖し、冬、本州中部以南に渡来する。」
                  (講談社 日本語大辞典より抜粋)
   つまり、鶉は国内での渡り鳥という事です。春夏は北の方で過ごし、秋冬に
   深草にも飛来して、過ごしていたということなのでしょう。
   これで、秋歌であることの謎が氷解しました。

 (2)と(3)の歌の解釈

  (2)の歌は新潮版から採用しました。岩波山家集では(3)の歌になって
   います。あまりの違いに驚きます。以下の解釈は新潮版からの引用です。

   「夕暮になって、枝から落ちる雪の音までも、何となくあわれ深く
   感じられる深草の里だよ」

   西行が別々の歌として山家集に記述していたわけではなく、もともとは一つの
   歌であったはずです。それなのになぜこれほどの違いをみせて、今日に
   伝わっているかというと、それは伝播する過程が違ったからだと思います。
   あるいは書写した人の私意も入っているのかもしれません。以上の事に関連して、
   補筆事項で少し触れてみます。
  
  (イ)の歌と詞書の解釈
  
  (イ)の詞書は1155年7月に崩御した近衛天皇のお墓に人々と一緒に、お参り
   したという事です。詞書の文言から推測して、崩御後、それほどの日数は
   たっていないでしょう。とするなら、北区の知足院に墓参したものと思い
   ます。崩御後八年もたってから遺骨を移した安楽寿院陵であると解釈する
   のは無理があるのではないかと思います。
   (イ)の歌について。
   (栖を)の読みは(すみかを)。(玉の栖を)は御所、御殿のこと。

   「磨きぬかれて美しい御所の住み家から、露の深い野に住まいを移される
   ことになりました。その事を目の当たりにして、悲しみばかりがつのります」

   露は涙、うつすは移すとともに写すを掛けていると思います。含蓄のある
   歌だと思います。 
  
  (ロ)の歌と詞書の解釈

  (ロ)の詞書と歌は鳥羽天皇崩御の折のものです。

  「一院」 第74代、鳥羽天皇のこと。1156年7月、鳥羽離宮にて崩御。54歳。
      このころ、鳥羽院と崇徳院の二人の院がいましたので、鳥羽院を
      一院、崇徳院を新院と呼称したものです。
  「右大臣さねよし」 徳大寺実能のこと。右大臣は左大臣の誤り。
  「さぶらう」 古語。(候う・侍う)の字をあてる。お仕えする・伺候すると
        いう意味。   

  たまたま高野山から京都に出てきていた西行が、鳥羽上皇の葬送の儀式に
  巡りあったものでしょう。鳥羽院の北面の武士であった西行にとって、特別の
  感慨があったものと思います。安楽寿院は1137年に落慶供養が営まれていま
  すが、まだ完成前に徳大寺実能と西行は鳥羽上皇のお供をして、お忍びで
  見に行っています。17年から19年ほど前の、そういう出来事も思い出して、
  ひとしお感慨深いものを感じたのでしょう。出家してからさえも、鳥羽院に
  対する西行の気持ちが変わらなかったことが分かります。下は歌の意味です。

  「あなたが亡くなって、たまたま葬送の儀式に巡りあった今晩こそは、本当に
  思い知ったのでした。あなたとは深いご縁で結ばれていたということを・・・」

  この場面での歌はあと2首あります。いずれも情感をストレートに表した感傷的
  な歌です。
  
  「道かはるみゆきかなしき今宵かな限のたびとみるにつけても」

  「とはばやと思ひよりてぞ嘆かまし昔ながらの我身なりせば」

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  《 2・補筆事項 》

1 深草
   深草の地名は古く、欽明天皇(在位540年から571年)の時代にはすでに
   記述がみえます。京都市の南東部、伏見区の稲荷山の南西の裾野部分を
   指す地名です。嵯峨野を開拓した秦氏は、この伏見・深草にも進出して、
   拠点としていました。
   天皇家の陵墓も多く、仁明天皇陵や深草十二帝陵があります。伊藤若冲ゆかりの
   石峰寺など、小さな寺社が散在しています。

 2 藤森神社
   山家集に藤森神社の名称の記述はありません。しかし、深草で著名な神社と
   いえば藤森神社ですし、西行の時代にもありましたので、簡単に紹介します。
   創建年代、由緒は不明ですが、794年の平安遷都より上代からの古刹である
   ことは確実です。本宮と新宮があって、新宮には他戸廃太子、早良廃太子、
   井上内親王などが合祀されています。
   毎年5月5日に藤森祭があります。端午の節句の行事は藤森祭が起源である
   ということが神社の説明板に書かれています。

 3 安楽寿院
   安楽寿院は鳥羽天皇の発願により鳥羽東殿に造営されました。1137年のこと
   です。二年後に三重塔が落慶しています。この三重塔が本御塔と言われ、
   鳥羽院の墓所となります。
   たびたび火災にあい、三重塔は現在はありません。かつ、当時の安楽寿院も
   ありません。現在の安楽寿院は、かつての安楽寿院の支院の一つである
   前松院が安楽寿院として再興されたものです。
   
4 近衛院とお墓
   近衛天皇は第76代天皇です。1139年生、1155年没。17歳で夭折しました。
   在位15年です。鳥羽天皇の第八皇子とも第九皇子とも資料にはあります。
   母は美福門院藤原得子。崇徳天皇の養子として皇位について践祚(せんそ)
   しました。この近衛院崩御後は後白河天皇が第77代天皇となっています。
   このことにより、崇徳上皇の不満は高まり、1156年に鳥羽上皇が崩御すると、
   保元の乱が起こりました。

   近衛院のお墓は、現在は安楽寿院南陵と言われています。二層の塔があります。
   ここは、もともとは美福門院が自分の死後の墓所として建立したものです。
   ところが1160年に没した美福門院は遺言により高野山に葬られました。
   そこで、1155年に没して洛北の知足院に葬られていた近衛天皇の遺骨が1163年
   に、ここに移し納められました。したがって、船岡山の西野で火葬にされた
   と記録にある近衛帝のお墓は、8年間は知足院にあったということです。
   ですから、202ページにある「近衛院のお墓・・・」は安楽寿院南陵ではなか
   ろうと考えられます。現在の近衛院陵は豊臣秀頼の寄進によるものです。
   尚、知足院は紫野雲林院近くにありましたが、中世に廃絶しており、資料に
   名をとどめているばかりです。
   下は近衛院の安楽寿院南陵及び鳥羽天皇陵の画像です

   http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/saigyo2/toba04.html

           (補筆事項は「京都市の地名」を参考にしました)

 5 岩波文庫山家集とその他の山家集について

  現在、市販されている山家集は
  1)岩波書店 新訂 山家集(文庫本)   佐佐木信綱 校訂
  2)新潮社  新潮日本古典集成 山家集  後藤重郎 校註 
  3)第一書房 日本古典全書 山家集    伊藤嘉夫 校註

  などがあります。
  
  新潮日本古典集成「山家集」は、陽明文庫の山家集写本を底本としています。
  陽明文庫とは近衛文麿首相が1938年に京都市宇多野に設立したものです。
  近衛家が所有していた20万点に及ぶ古文書や美術品が収蔵されています。
  近衛家は皇居の陽明門の近くに邸宅がありましたので、陽明家とも呼ばれて
  いました。
  他方、岩波文庫山家集は、広く流布した六家集版板本からの松本柳斎編の
  「山家集類題」を底本としています。佐佐木信綱氏が昭和3年に「新撰山家集」
  次いで昭和31年に「新訂山家集」として刊行しています。

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  《 3・所在地情報 》

 ◎ 安楽寿院(あんらくじゅいん)

 所在地  伏見区竹田内畑町74
 電話   075-601-4168
 交通   市バス19号系統(京都駅発)城南宮下車徒歩約10分
      近鉄京都線竹田駅
      地下鉄烏丸線竹田駅下車、徒歩約10分
 拝観料  志納
拝観時間  境内自由拝観。堂内は予約制
 サイト  http://www.anraku.or.jp/ 

 ◎ 藤森神社(ふじのもりじんじゃ)

 所在地  伏見区深草鳥居崎町609
 電話   075-641-1045
 交通   市バス南8系統(近鉄竹田駅東口発)藤森神社下車すぐ 
      京阪電鉄墨染駅下車、徒歩約5分
      JR藤森駅下車、徒歩約10分
 拝観料  参拝自由(6月の紫陽花宛のみ300円)
拝観時間  9:00〜16:00

 下は藤森神社の画像です。

 http://isweb41.infoseek.co.jp/novel/kazu02aa/saigyo2/fucimi03.html

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  《 4・関連歌のご紹介 》

 1 夕されば野べの秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里
                 (藤原俊成 千載和歌集)

 2 秋ならで野辺の鶉の声もなし誰に問わまし深草の里
                 (藤原良経 秋篠月清集)
  
 3 すみたえぬ鶉の床もあれにけり枯野となれる深草の里
                   (藤原家隆 壬ニ集)

 4 秋をへてあはれも露もふか草の里とふものは鶉なりけり
                    (慈円 新古今集)

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  《 5・お勧め情報 》

  今回は京都の紅葉情報のページを紹介します。この秋、紅葉狩りに
  京都に見えられる方はご参照してください。

  http://tsutsumitaxi.tripod.co.jp/index.html

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  《 6・エピソード 》

 「秋霖」ということばがあります。秋のひところの数日間降り続く雨を指します。
  「霖雨」とはまた、梅雨のころの長雨も包摂して指しますが、秋の雨と梅雨時の
  雨は当然にその性質を異にしています。
  「秋霖」ということばの中には、これから冬に向かおうとする頃に降り落ちる
  雨滴の独特の表情なり性質なりが、よく込められていると思います。
  こういう言葉を思い出すとき、私達の先人は、なんという研ぎ澄まされた感性で
  物事の本質を見ようとしていたかということに、そして、より的確な言葉を用い
  ようとしていたかということに驚き、ただただ敬服するしかありません。
  私達は、ことば一つを取り上げてみても、先人の成してきた偉業を引き継ぎな
  がら、生きていることに改めて思いいたります。人は誰だって時代の旅人です。

  言葉の乱れについては、私自身がことば知らず、物知らずの人間でありながら、
  憂慮するものです。話し言葉の乱れだけでなくして、一般常識としての言葉の
  用い方、言葉の解釈の仕方が表層的で浅薄な方向に流れていることは、どなたも
  否定できない現実でしょう。現在20歳の方限定で「情けは人のためならず」の
  正確な意味を知っている方は半数にも満たないのではないでしょうか。

  時代の流れがあります。時代の変遷に従って言葉も変わってきます。その現象は
  当然に認められることです。とはいえ、そこに重大な問題が横たわっています。
  その問題はとても重いのですが、でもまあ・・・いくら深刻ぶって考えたところで
  時代の要請に従うしかありませんね。そして、どんどんとことばは軽くなって、
  「秋霖」などということばは、羽根が生えて飛んでいくのでしょう。
  あるいは足蹴にされて、地中深く埋もれてしまうのでしょう。

  過日、奈良の円照寺に行きました。秋のやわらかな陽射しを浴びて、木立の中の
  静寂の道を歩く事の気持ち良さを感じました。
  なんと、黒米と赤米の混ぜご飯も賞味しました。モチモチとした食感は、終生、
  忘れられない記憶となりそうです。
  
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