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     ■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■    

                      vol.17(隔週発行)
                     2002年11月25日号
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 メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
 寒さは確実にその度を加えつつあり、キリり とした硬質感を感じさせ
 るようになりました。ですが、ここしばらくの日中は、うららかな陽春を
 思わせるような小春日和の日々が続いている京都です。(11.22記) 
  
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     ■ 西行の京師  第17回 ■

   目次  1 今号の歌と詞書
        2 補筆事項       
        3 所在地情報
        4 関連歌のご紹介
        5 お勧め情報
        6 エピソード

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   《 1・今号の歌と詞書 》

  《 歌 》

  1 宇治川の早瀬おちまふれふ船のかづきにちかふこひのむらまけ
                   (198P 雑歌)
  ロ あはれとも花みし嶺に名をとめて紅葉ぞ今日はともに散りける
                   (123P 羇旅歌)
  
  《 詞書 》

   
  イ 「宇治川をくだりける船の、かなつきと申すものをもて鯉の
    くだるをつきけるを見て」

  ロ 「平等院の名かかれたるそとばに、紅葉の散りかかりけるを見て、
     花より外にありけむ人ぞかしとあはれに覚えてよみける」

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 (1)の歌と(イ)の詞書の解釈

 (イ)の詞書の次に(1)の歌があります。
 (イ)の詞書は、宇治川を下っている船から漁具で鯉を突いて獲っている
  光景を説明したものですが(1)の歌は非常に分かりにくい歌です。
  岩波古語辞典や他の辞書類を見ても「れふ船」「むらまけ」などは
  見つかりません。「かづき」は「潜き」とも書き「水に潜る事」とあり
  ますが、さて「かづきにちかふ」とは、どのように解釈したら良いので
  しょう。新潮日本古典集成では「かづきにちがふ」として潜る事とは違う
  というように解釈していますが、どうもしっくりときません。
  新潮日本古典集成から抜粋します。

  「宇治川の 早瀬落ち舞ふ 漁舟の かづきにちがふ 鯉のむらまけ」

  「宇治川の早瀬を舞うように下っていく魚舟に、水に潜る捕え方とは
   異なって金突きで刺され、鯉の群れは勝手がちがったのか逃げることも
   できず捕えられてしまったよ。」 
  「かなつき」= 金突き=魚を突いて捕える漁具。
  「れふ船」 = 魚舟=用例はここだけで西行独自の用法。  
  「むらまけ」= 意味不詳。鯉の群れが負け捕えられた意か。群族、一群、
          の意とする説もある。   

  わかりにくく、おもしろくもない歌のように感じます。可能性として書写
  ミスもあるような気がします。
  
  窪田章一郎氏は「西行の研究」の中で、魚介類を素材としている歌群を取り
  上げ「海や川で、漁師たちの働く姿に接して得た素材のみである。この
  ような素材は題詠の伝統の中には存在しなかったものであり・・・」と、
  肯定的に捉えています。

(ロ)の歌と詞書の解釈

  詞書は直接に平等院に触れているわけではありません。119Pから123Pまで
  の熊野、大峯修行での歌群の中にある詞書ですから、場所は奈良県および
  和歌山県になります。詞書の「花より外にありけむ人ぞかし・・・」の文言
  によって、行尊大僧正を偲んでいることが分かります。卒塔婆とは普通は
  墓所に立てられるものを指しますが、ここでの卒塔婆は行尊の大峯入山を
  記念しての、その日付を書きつけた板を指しています。
 
  「平等院」の名を書いて立てられていた板を見て、大峯修行をして
  いた行尊のことが偲ばれて、歌を詠んだということが詞書の意味するところ
  です。歌の意味は行尊の有名な歌を見据えて詠まれています。この下の補筆
  事項の(4)に紹介している歌です。これも本歌取りと言うべきでしょう。
  歌の意味は以下です。

  「山岳修行者として大峯に名を残した行尊大僧正は「もろともにあはれと
  思へ山桜・・・」の歌を残されました。今の季節は秋ですから、桜ではなく、
  その変わりに紅葉が散り敷いています。」

  「露もらぬ岩屋も袖はぬれけると聞かずばいかにあやしからまし」
                (121P 羇旅歌)

  この歌も行尊の以下の歌を参考にしています。

  「草の庵をなに露けしと思ひけんもらぬ窟(いはや)もそではぬれけり」

  という金葉集の歌の本歌取りといえます。

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  《 2・補筆事項 》

 1 宇治川
 
  宇治川は琵琶湖を水源とする川で、滋賀県内では瀬田川、京都府下に入って
  宇治川といいます。主に宇治市を流れている川です。
  宇治川は八幡市橋本で木津川と桂川と合流して、淀川と名を変えて大阪湾に
  注いでいます。このうち、宇治川と呼ばれる部分の長さは約30キロメーターです。
  宇治の地は交通の要衝として古来から開けていましたし、源氏物語や平家物語
  などにたびたび出てくる歴史的な所です。
  宇治川は千年前と変わらない姿で、現在もとうとうと流れています。ただし
  巨椋池干拓などにより流路は古代とは部分的に異なっています。
  下は宇治川の画像です。

  http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/ujisi01.html

 2 平等院

  ここでいう平等院は10円玉の意匠にもなっている鳳凰堂で有名な
  宇治市の平等院ではありません。
  行尊大僧正が滋賀県の三井寺(園城寺)にいた時の自坊である平等院を
  指しています。平等院は現在も三井寺にある塔頭の一つで円満院の
  別号です。
  「平等院」と書かれていることによって平等院を住持していた行尊
  大僧正のことだと特定できます。

 3 大峯
 
  紀伊山地の中心部にある山群を指します。主峰は1915メーターの仏経が岳。 
  現在も女人禁制の山です。大峯入りとは修験者が修行のために大峯に入る
  ことをいいます。大峯山脈とはいいますが、大峯という山はありません。
  「順の峰入り」とは春に熊野から大峯を経て吉野に出るコース。
  「逆の峰入り」とは秋に吉野から大峯を経て熊野に出るコースを指します。
  
 4 行尊
  
  1055年から1135年まで存命。81歳没。第67代三条天皇のひ孫にあたり、
  源基平の子。12歳で出家。三井寺(園城寺)、天王寺、平等院の別当職
  を歴任。1123年、天台座主となるも、すぐに辞退。
  山伏修験の行者として著名。家集に「行尊大僧正集」がある。
  百人一首第66番に

  「もろともにあはれと思へ山桜 花よりほかに知る人もなし」

  がありますので、西行の歌は行尊を偲んで詠われたものであることは
  確実です。

 5 本歌取り

  「よく知られた古歌の一句または数句を用いて作歌する技巧。連想に
   より詩的内容が豊かになる。「新古今集」時代にもっともさかんだった。
   もとの歌を本歌という。」   (講談社「日本語大辞典」より抜粋)

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  《 4・関連歌のご紹介 》

 1 もののふの八十うぢ川の網代木にいさよふ波の行方知らずも
            (柿本人麿 新古今集・万葉集巻三)

 2 鵜飼舟あはれとぞ見るもののふのやそ宇治川の夕闇のそら
                    (慈円 新古今集)

 3 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木
                   (藤原定頼 千載集)

 4 我が恋は年経るかひもなかりけりうらやましきは宇治の橋守
                   (藤原顕方 千載集)

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  《 5・お勧め情報 》

  異例ではありますが、今回はドライブコースです。
  宇治市から大津市に抜ける宇治川ラインがお勧めです。とはいえ、私は
  15年ほど前に一度自転車で走っただけです。行かれる方は事前に詳しい
  情報を集めてください。桜、新緑、紅葉の季節がいいと思います。
  宇治川の渓谷美を楽しめます。平等院、天が瀬ダム、立木観音、石山寺
  などの見所もあります。
 
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  《 6・エピソード 》

 残念ながら私には宗教心が希薄なようです。確信犯的なもので、主義とか
 信条に類する事ですから、そのこと自体は反省したり、悲しんだりする
 性質のものではないと考えます。
 
 父母は神社仏閣に参詣したとき、必ず熱心に拝みますし、お守りや破魔矢
 なども買い込んだりします。私はといえば、もちろん仏像などに手を合わす
 ことはありません。父母から見たら、親不孝な、バチ当たりな息子です。
 拙宅には仏壇もなく、小さな陋屋ではその分のスペースもありません。

 過日、比叡山の延暦寺と三井寺に行く機会を得ました。根本中堂には最澄
 作といわれる本尊の薬師如来像もあるのですが、ここでも私の興味は、
 外から見るという事であって、うちに入って触れるということではあり
 ませんでした。うちに入って触れるということは、仏像の持つ宗教性に
 一人の人間として心身を委ねるというほどの意味ですが、私と仏像との
 関係は、どこまで行っても一対一の相対する関係性の中のものだろうと
 思います。

 私はこれまでに博物館やお寺で、たくさんの仏像を見ています。広隆寺の
 「阿弥陀如来像」や「弥勒菩薩半跏像」その他の仏像を見て、敬虔な
 気持ちを呼び起こされた事は事実です。長谷寺の長谷観音にも圧倒された
 ことを覚えています。けれどそれは、建造品としての材質とか構造とか、
 意匠とかバランスとかいう私の興味を決してそぐものではありませんでした。
 つくづくと、解剖学的に見る方としての、あるいは作り手としての興味で、
 仏像などに相対している自分を発見します。  

 偶像を崇拝する事の意味が理解できないまま、五十路の年齢にまできま
 した。それはそれで意味のあったことだと思います。
 しかしながら、西行法師の一部の作品にみられる、宗教に対しての圧倒的な
 敬虔さは、私を戸惑わせ、他方で辟易させていることは事実です。
 彼の宗教性には、私なりの方法でしか向かい合えませんが、それもまた、
 仕方ない事だと思っています。
 
 少しく迷ったのですが、思いきって、今号から京都市内をはずれます。
 宇治市から井手、そして美豆を回ってから、山科区に入ることにします。

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