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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.19(隔週発行)
2002年12月23日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
いよいよ本年の年の瀬も押し詰まってきました。明日はクリスマスイブ。
一段とあわただしさの増しつつある昨今です。
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■ 西行の京師 第19 回 ■
目次 1 今号の歌
2 補筆事項
3 関連歌のご紹介
4 南山城の観光情報
5 エピソード
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《 1・今号の歌 》
《 歌 》
1 山吹の花咲く里に成ぬればここにもゐでとおもほゆるかな
(41P 春歌)
2 山吹の花咲く井手の里こそはやしうゐたりと思はざらなむ
(173P 雑歌)
(参考歌)
夕されやひはらの嶺を越え行けば凄くきこゆる山鳩の聲
(167P 雑歌)
今号は詞書はありません。
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(1)の歌の解釈
○成ぬれば=成ったなら。
○おもほゆる=(思われる)と同義語。
この歌は直接に地名の井手を詠ったものではありません。他の土地にいて、
そこに山吹の花が咲き誇ったら、ああ、ここもまた、井手の里のように思われる
ことだよ・・・ということが歌の意味です。それほどに井手は山吹の名所として
有名であるということを間接的に表しています。
(2)の歌の解釈
○しうゐ=物の名。この歌の詞書は「拾遺山吹に寄す」とあって歌の中に
「しうゐ」のことばが詠み込まれています。
○思はざらなむ=思うことはない、思わないでほしい。
○物の名=和歌の表現の技巧のひとつ。歌の意味に関係なく、事物の名を
さりげなく詠みこむこと。隠題ともいう。
「山吹の花の咲き誇る井手の里だからといっても、花はいつかは散るのです。
山吹とはいえ、他の花と同じように散っていくことの悲しみは味わいます。
その悲しみがないなどとは思わないでほしいものです。」
参考歌について
この歌は1310年頃成立した「夫木和歌抄」にもあります。
第9067番。
「ゆふくれや たはらのみねを こえゆけは すこくきこゆる やまはとのこゑ」
(夕暮れや 田原の峯を 越え行けば 凄く聞こゆる 山鳩の聲)
田原の峯とは京都府宇治田原町にある峯を指しているものと思います。
ひはらの嶺とは檜原の嶺であり、ヒノキが生い茂っている嶺のことです。
「いにしへにありけん人も我がごとや三輪の檜原に挿頭折りけん」
(柿本人麿 定家八代抄)
この柿本人麿の歌のように普通は檜原の先に地名を表す名詞があるものです。
ここではそれがありませんので、普通名詞としての檜原と解釈します。
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《 2・補筆事項 》
1 井手
現在の京都府綴喜郡井手町のことです。井手町は京都と奈良のほぼ中間に位置
していて、木津川の東側にあたります。山城平野と標高400メーターまでの山地
からなります。
交通は国道24号線(現、奈良街道)が、町の西区域を貫通していて、私も奈良まで
自転車で行くときに何度も通りました。
鉄道はJR奈良線、玉水駅もしくは山城多賀駅下車。京都から約40分。
近鉄奈良線は新田辺駅下車。京都から約25分です。
橘諸兄のゆかりの地です。また小野小町の伝承もあります。
尚、「木津川」は古代は「泉川=いずみかわ」といっていました。また、
資料には「輪韓川=わからかわ」「呼津加和=こつかわ」「挑川=いどみかわ」
などの別称があったとのことです。
「泉川水のみわたのふしづけにしばまの氷る冬は来にけり」
(千載集 藤原仲実)
2 山吹と蛙
奈良時代は橘諸兄の管轄地で、諸兄の別荘がありました。諸兄は井手の左大臣
と呼ばれました。井手には玉川という川が流れています。井手川(井堤川)のこと
です。井手とはまた、井(泉・水)出(涌き出る事)を意味している地名なのですが、
どうしたわけか玉川の水量は乏しく水無川とも呼ばれていたそうです。
諸兄は別業に山吹を植えました。それが玉川をはじめ、井手の邑に咲き誇るように
なったので、いつしか山吹は井手の枕詞となり、沢山の歌に詠われました。
また、玉川に生息していたという河鹿の美しいらしい鳴き声も有名だったそうで、
山吹と蛙は井手を表すものとして、一つの歌に読み込まれることにもなりました。
ただ、玉川の河鹿は昭和28年の水害によって全滅して、今は生息していないよう
です。近年、町の有志により蛙の里としての取り組みがなされているそうです。
山吹についても、玉川の護岸工事のために取り払われて、現在は無いとの事です。
井手町ホームページ
http://www.town.ide.kyoto.jp/
3 拾遺
基本的には選に漏れたものを集めて、編むこと、また、その作品集を
いいます。別の意味は、侍従という官職の唐名でもあります。
ここでは、古今集、後撰集、拾遺集の書名を、歌の中に詠み込んでいます。
「詞書」
庚申の夜くじくばりて歌よみけるに、古今後撰拾遺、これを梅さくら山吹に
よせたる題をとりてよみける」 (172P)
○ 古今梅によす
「虹の色こきむめを折る人の袖にはふかき香やとまるらむ」
○ 後撰櫻によす
「春風の吹きおこせんに櫻花となりくるしくぬしや思はむ」
次に井手の山吹の歌が続きます。
この「拾遺山吹によす」はその前の歌と密接な関わりを持っていると思います。
前歌の「くるしく・・・」を受けて「やしう(やすう)・・・」としているのは、
受けて(拾って)遺したという計算がなされていると解釈できます。
尚、三集について簡単に記述します。三代集と呼ばれています。
古今集 913年頃成立。醍醐天皇の勅。撰者は紀貫之、紀友則など。
後撰集 成立年次未詳。950年代か? 村上天皇の勅。撰者は源順、清原元輔など。
拾遺集 1005年頃成立。花山院の勅(?) 撰者は未詳。
4 橘諸兄(たちばなのもろえ)
684〜757年まで存命。第30代敏達天皇のひ孫の美努王と県犬飼美千代の子。
葛城王と称する。後、橘の姓を受けて臣籍降下し橘諸兄と名乗る。
大流行した天然痘のために藤原氏の有力者が相次いで没したこともあり、
738年右大臣、743年左大臣となり、聖武及び孝謙の両天皇の下で政務を執る。
757年1月没。同年、諸兄の子である奈良麻呂は藤原仲麻呂(のちの恵美押勝)
排斥を企てたが処刑される。奈良麻呂の孫に嘉智子がいて、彼女は嵯峨天皇の
正室で檀林皇后と呼ばれました。この嘉智子の子が現在の皇室に続いています
ので、橘諸兄の血筋は続いてきたということになります。
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《 3・関連歌のご紹介 》
1 あしびきの山吹の花散りにけり井手のかはづは今や鳴くらむ
(新古今集 藤原興風)
2 駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井出の玉川
(新古今集 藤原俊成)
3 山吹の花咲きにけりかはづ鳴く井手の里人いまやとはまし
(千載集 藤原基俊)
4 春ふかみ井手の河水かげそはばいくへか見えん山吹の花
(千載集 大江匡房)
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《 4・南山城の観光情報 》
○ 城陽市観光ページ
http://www.joyo-kankou.jp/kankou/index.html
○ 宇治田原町観光ページ
http://www.town.ujitawara.kyoto.jp/introduce/index_n.html
猿丸神社、信西入道塚などがあります。
○ 相楽郡総合案内サイト
http://souraku.net/souraku/souraku/kasagi/link/
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《 5・エピソード 》
いよいよ、今年も終わりに近づきました。新しい年もすぐにやってきます。
今回は「井手」の歌二首です。当初の目論見では京都市内の歌が終わってから
市外と考えていたのですが、ついでですから京都府南部を先にしてから市内に
戻ることにします。
井手には18歳頃に一度行きました。玉水駅の手前の山城多賀駅で国鉄奈良線を
下りて、ミカン狩りに行きました。すでに35年以上も前になることに自分でも
驚いています。尚、ミカン狩り農園は現在でもやっているそうです。
http://www.kyoto-np.co.jp/kp/topics/2002oct/04/W20021004MWE1K200000125.html
井手町の画像がありません。何とか、このマガジン発行に合わせて撮影したいと
思いましたが、どうしても都合がつかず無理でした。いつか必ず行って撮影して
掲載しますので、今回はご海容願いあげます。
さて、井手といえば橘諸兄です。彼についてはご存知の方も多いはずですが、
彼の生涯などについて興味のある方はご自身で調べてみてください。
私は中学しか出ていず、歌について専門の先生から学んだことはありません。
歌を詠むこともありません。私に先生という人がいるとするなら、メールマガジン
「西行の生涯とその歌」の発行者である辻野様だけでしょう。
そういう私が無謀にも今年の4月に「西行の京師」の発行を始めました。それから
8ヶ月余が過ぎました。日常のサイクルはこのマガジン発行をメインにして過ぎて
行く感じです。マガジンをきちんと発行するということは、時には仕事にも支障を
きたすことでもありましたが、それもまた良いと思います。
知らない者の強みとでもいうか、沢山の誤謬を犯していると思います。
でもミスを犯すこと、それ自体はあまり気にかけないようにしています。
いろいろと勉強していきたいと思います。自分から勉強しょうとする能動性さえ
持っていれば、それでいいとさえ思います。
本年の発行はこれで最後です。来年度は13日に20号を発行する予定です。
来年も変わりませず、ご支援、ご鞭撻をお願いいたします。
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