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■■ 西行の京師(さいぎょうのけいし) ■■
vol.20(隔週発行)
2003年1月13日号
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メールマガジン「西行の京師」ご購読ありがとうございます。
新しい年、2003年の到来です。まずは型通りに「あけましておめでとう
ございます」と、新年のご挨拶を申し上げます。
「西行の京師」本年もお付き合いの程、よろしくお願いいたします。
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■ 西行の京師 第20回 ■
目次 1 今号の歌と詞書
2 補筆事項
3 所在地情報
4 関連歌のご紹介
5 お勧め情報
6 エピソード
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《 1・今号の歌と詞書 》
《 歌 》
1 山城のみづのみくさにつながれてこまものうげに見ゆるたびかな
(117P 羇旅歌))
2 今日の駒はみつのさうぶをおひてこそかたきをらちにかけて通らめ
(225P 神祗歌)
(参考歌)
かり残すみづの眞菰にかくろひてかけもちがほに鳴く蛙かな
(40P 春歌)
《 詞書 》
1 「西の國のかたへ修行してまかり侍るとて、みつのと申す所にぐし
ならひたる同行の侍りけるに、したしき者の例ならぬこと侍る
とて具せざりければ」 (116P 羇旅歌)
2 「男山二首」 (225P 神祗歌)
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(1)の歌と詞書の解釈
詞書(1)の次に歌の(1)があります。
○山城=京都の古い国名。平安遷都以前は「山背(やましろ)」の文字使用。
○みつの=美豆野のこと。久世郡久御山町にあります。別に「美豆」が
京都市伏見区にあります。
○ぐし=具し(現在は 倶 あるしは 供 の文字が正解でしょう。)
ともに。一緒に。の意味。
○ならひたる=習慣になっている。の意味。
この歌は詞書があることによって解釈に広がりが出てきます。
歌だけがぽつんと独立してあるのでしたら、なにやらよくわからない、
意味のつかみにくい歌になってしまいます。
「旅にはいつも同行していた西住上人が、上人の親しい人(身内か?)が重篤
になったので、一緒に西國の方へ行けなくなった」ということが詞書の意味です。
「御牧」に掛けて「駒」としているのは作歌上の技巧です。
「出家している西住上人であっても近親者の重い病気に心を痛めている。
御牧につながれる、ということ、つまりは、俗世間の出来事とはいえ、それに
とらわれることは当然だ。(駒)は心配で、ものうげに旅を続けることだよ」
ということが、歌の大意でしょう。(駒)は西行及び西住の両方を指している
と見ていいでしょう。なにやら、のびのびと楽しみながら詠っている感じです。
この時、西行はひとり旅を始めましたが、摂津もしくは明石で西住と合流
したようです。
下の画像は西行の時代の(御牧)(美豆野)があったあたりです。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/yawata03.html
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/yawata04.html
(2) の歌と詞書の解釈
詞書の「男山二首」とは京都府八幡市にある男山での歌のことです。
男山には岩清水八幡宮があります。
○ 今日=(けふ)と読みます。
○ みつ=美豆のこと。木津川を挟んで、男山の対岸にある地名。京都市伏見区。
○ さうぶをおひてこそ=勝負を追いて=勝ちを願って。
=菖蒲を負ひて。
○ かたき=敵。勝負相手のこと。
○ らち=馬場の仕切りのための柵のこと。
この歌は掛詞が多く、そのために歌の感興が乏しいものになっていると
思います
歌は菖蒲の節句の日である五月五日に行われた競馬のことを詠ったものです。
「今日、岩清水八幡宮で行われる競馬は、美豆の御牧の菖蒲を背負って、
勝負を争い、敵を馬場の柵で止めたような状況でかけ抜けるだろう」
「新潮日本古典集成山家集より抜粋」
八幡市の男山です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/yawata01.html
男山にある岩清水八幡宮です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/yawata02.html
一応、美豆の画像です。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/yawata05.html
参考歌の解釈
この歌にある「みづ」は京都の地名の「美豆」と断定することはできません。
摂津の「御津」説、あるいは「瑞々しい事」などの説があります。
「刈り残したみずの真菰に隠れて、自分を守ってくれる蔭を持つと
得意そうに鳴く蛙であるよ」
「新潮日本古典集成山家集より抜粋」
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《 2・補筆事項 》
1 男山
京都府八幡市にある標高143メーター(142メーターとも)の山。山頂には
859年勧請の岩清水八幡宮が鎮座。古来、山は神域として保護されてきたため、
照葉樹林中心の天然林となっている。樹齢600年以上という高さ30メーター、
根回り18メーターに及ぶクスノキはみごとで、京都府の天然記念物になっている。
男山の西北には宇治川、木津川、桂川の三川が合流していて、淀川と名称を
変えて大阪湾に注いでいる。
男山南方には筒井順慶で有名になった「洞ヶ峠」がある。
最寄駅は京阪電鉄「八幡市駅」。隣接しているケーブルで山頂まで3分。
2 岩清水八幡宮
859年、九州の宇佐八幡宮に参詣した奈良の大安寺の僧の行教が平安京の近辺に
八幡宮を移座して国家鎮護の役目をになわせるために、朝廷に奏上したのが
起こりという。朝廷は木工寮の橘良基に命じて正殿、宝殿など6宇を建立させた。
一説には宇佐八幡宮の神官が都に進出したいための策謀という。
それ以前に男山には岩清水寺があった。が八幡宮ができて、寺社一体の岩清水
八幡宮となる。当初は神官でなく、寺の僧侶が運営の主体であったという。
天皇・貴族の崇敬もきわめて厚く、また八幡社が古代から弓矢の神として有名な
所から源氏との関係も深く、源義家はここで元服して八幡太郎義家と名乗った。
八幡神が源氏の氏神であったため、源頼朝もしばしばここに参詣している。
源氏足利氏の六代将軍のくじ引きもここで行われ、義教(よしのり)が室町幕府
第六代征夷大将軍になっている。
応仁の乱で衰退したが、信長、秀吉、秀頼、家康、家光などが復興に尽力して
いる。明治維新の廃仏毀釈運動で壊滅状態になり、多くの仏像や仏具が廃棄
された。
現在は観光地として、多くの参拝客で賑わっています。
山家集225Pにある放生会は現在は岩清水祭りと名を変えて9月15日に行われます。
3 院の小侍従 (1120年〜1202年頃)
院の小侍従の名前は200Pはじめの詞書にあります。西行とも親しい関係で
あったことがわかります。
石清水八幡宮別当大僧都光清のむすめ。母は菅原氏で花園左大臣家小大進。
藤原伊実の妻となるが、四十歳前後の時に死別。二条天皇に仕える。
永万元年(1165)の天皇崩御後、太皇太后多子に仕え、さらに高倉天皇に仕えた。
「まつ宵にふけゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは」(新古今集)
の歌は有名で「待宵の小侍従」の異名で呼ばれた。
家集『小侍従集』がある。
この「小侍従」は官職名です。琴の名手として有名だったようです。
住まいは現在の妙心寺付近にあったということが分かっています。あの
あたりは花園ですので、母の実家と関係があるものと思います。
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《 3・所在地情報 》
◎ 岩清水八幡宮 (いわしみずはちまんぐう)
所在地 八幡市八幡高坊30
電話 075−981−3001
交通 京阪電鉄八幡市駅で下車してケーブルで3分
徒歩では約30分 ケーブルは片道200円
拝観料 無料。参拝自由
拝観時間 普通は6:30〜18:00まで
4/1〜9/30までは5:30〜18:30まで
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《 4・関連歌のご紹介 》
1 山城の美豆野の里に妹をおきていくたび淀に舟呼ばふらん
(前右京権大夫頼政 千載集)
2 さみだれに美豆の御牧のまこも草刈り干す隙もあらじとぞ思ふ
(相模 王朝秀歌選)
3 なつかりの−みつののまこも−けふみれは−これやもえいつる−あきのわかくさ
(なつかりの美豆野のまこも今日見ればこれや燃え出づる秋の若草)
(藤原家隆 壬ニ集2338)
4 わたりする−をちかたひとの−そてかとや−みつのにしろき−ゆふかほのはな
(わたりするをちかたびとの袖かとや美豆野に白き夕顔の花)
(藤原定家 拾遺愚草1229)
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《 5・お勧め情報 》
今号はお勧め情報は特にありません。
しいていえば、関西の方限定ですが、今号で取り上げた岩清水八幡宮に桜の
頃に行ってみてください。
私は詳しく知らなかったのですが、お参りの正式な作法を記述します。
1 ニ拝 (深くお辞儀を2回くりかえす)
2 ニ拍子 (手を2回たたく)
3 一拝 (深くお辞儀を1回する) 以上。
岩清水八幡宮でいただいたパンフレットから引用しました。
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《 6・エピソード 》
先年、暮れも押し詰まった27日に、竹内街道と二上山に行く機会に恵まれました。
まず太子町にある聖徳太子ゆかりの「叡福寺」と「小野妹子墓」を訪ねました。
両所ともに、初冬の光景のなかで、しっとりと落ち着いたたたずまいを見せて
いるようでした。千数百年の時間の懸隔を縫って、彼らの活躍した時代にタイム
スリップしたような感覚を、一瞬、味わいました。
次に竹内峠、二上山山頂、当麻寺という順で、明日香に都のあった時代と密接な
関係のある史蹟を経巡りました。
実は私は1985年11月3日にこの竹内街道を自転車で過ぎています。その時に、機会が
あればもう一度この峠に立ってみたいと思ったものでした。
今回の再訪は私にとって嬉しい事でした。でも17年という歳月は、記憶の風化を
もたらせることに改めて気づかされました。記憶のなかの光景と、現実とでは
微妙なギャップがあります。でも、そのことさえも楽しんでいる自分を発見します。
「うつそみの人なるわれや明日よりは二上山をいろせとあが見む」
万葉集にある大伯皇女の歌です。処刑された弟の大津皇子を悼んでの、悲痛な歌
です。歴史の持つ残虐性は大津皇子の上だけに降りかかったものではありません。
明日香とはまた悲劇に満ち満ちた土地です。とはいえ、私が明日香の歴史を想う時、
大津、大伯、そして大津の妻である山辺皇女の悲劇性は、他の誰の場合よりも私に
強い力で迫ってきます。
二上山雄岳にある大津皇子のお墓にお参りしてから、当麻寺と大津皇子関連史跡を
見て回りました。二上山登頂は始めての事で、同行者の方々と過ごしたこの日、
2002年12月27日は終生忘れられない大切な思い出となりそうです。
この正月は四国、愛媛県の生地で過ごしました。船で沖に出てナマコを獲りました。
ナマコはたくさんいるのですが、自家消費分の3匹だけしか獲りませんでした。
以前は好きではなかったのですが、味覚の変化か、最近はよく賞味します。
1月9日には城南宮から久御山町の美豆野、そして八幡市に行って岩清水八幡宮に
参詣しました。写真撮影が目的です。自転車で行きました。
下の画像は鳥羽です。西行寺跡の石碑もあります。
http://kazu02aa.hp.infoseek.co.jp/saigyo2/toba05.html
今号で南方面は終わって、次回からは山科区に移ります。
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